役立つカトリックの知恵

役立つカトリックの知恵

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祈り。それはお金がなくてもできるもの。同時にそれは、神様がくれた最強の武器。

苦しんでいる時、辛い時、助けを求めて知らない内に神に祈ることは誰だってあると思う。

「祈り」と一言で言っても、正しいやり方とそうでないやり方があり、間違ったやり方は自身に悪の影響を及ぼすこともある。

では、正しい祈りとはなにか。。それは神が主体の祈りである。

カトリックとして神が主体の祈り、というと。

一、キリストが私達を救う為に十字架にかけられるまでの瞑想が一つ。

二、キリストの母、聖母マリアがキリストを授かり、産み育てるまでの過程。

三、キリストが死後、死から蘇り、天へ昇り、聖母マリアも後に天に昇るまでの瞑想。

この三つをカトリック信者はロザリオを唱えるときに瞑想する。

なぜこれらの瞑想が祈りになるのか、と言われれば、それは神(キリスト)の行いについて瞑想する行為が神へ心を近づける行いだから。
神は、私たちが近づこうとすればするほど引き上げてくれる父親である。

では正しくない祈りとはなにか。。自分の内に意識を向けた瞑想である。

人は皆、癖で自分のことばかり考えてしまうけど、祈りの時にそれをすると悪の影響を受けてしまう。
なぜなら、自分の悩みに対する答えは、どんなに探しても自分の中には見つけられないから。

自分の考えや思いにばかり捕われていると、出口のない迷路に入ってしまい、混乱は増す。

「混乱の主導者」と呼ばれる悪魔。悪魔は人を混乱に陥れる時、意識を自分の内に向けさせ、混乱させるように誘導する。なので、神に意識を向けない「瞑想」はただ自分を開け放す状態になってしまう為、悪に入り込むことを許す非常に危険な行為に変わる。

悪魔の混乱を跳ね返すには、祈りの時に神に心を寄せるように努める事。簡単なようで難しいことだけど、キリストが言ったように、「悪の誘惑をはね除ける魂は何よりも美しい」のだから、それだけの価値があるという事になる。

悩みについては考えてはいけない、ということではなくて、自分の行いを振り返る時間、と神様にお祈りする時間は別ということ。

不思議なことにたくさん考えても出なかった答えは、神への心からの祈りで姿を表す。


カトリックにはちゃんとした祈りの言葉があり、それらはキリスト自身の残した祈りの言葉と共にホーリー・ゴースト(聖霊)の影響により記されている。

キリストが教えた、

「主の祈り」(しゅの・いのり)

天にまします、我らの父よ (てんにまします・われらのちちよ)

願わくば、御名の尊まれんことを (ねがわくば・みなの・とうとまれんことを)

御国の来たらんことを (みくにの・きたらんことを)

御旨の天に行わるる如く、( みむねの・てんに・おこのわるるごとく)

地にも行われんことを (ちにも・おこなわれんことを)

我らの日用の糧を、(われらの・にちようの・かてを、)

今日我らに与えたまえ (こんにち・われらに・あたえたまえ)

我らが人に赦すごとく、(われらが・ひとに・ゆるすごとく、)

我らの罪を赦したまえ (われらの・つみを・ゆるしたまえ)

我らを試みに引き給わざれ (われらを・こころみに・ひきたまざわれ)

我らを悪より救いたまえ (われらを・あくより・すくいたまえ)

アーメン


日本語で書くと難しくなってしまうけど、この古い感じの言葉が好きで、ラテン語ミサの美しさと雰囲気が似ている。

主の祈り、難しいので簡単に説明すると、
「主の祈り」

天国にいる、私たちのお父様。

私たちを含む全ての人が神を尊とまれますように。

(聖書の予言通りに)神が帰還する時、

天国でそうであるように、地上でもその意志がなされるように(私たちが神に与えられた使命を理解し、 行えますように)

私たちが望むものではなく、神が私たちに必要と思うものを与えてください。
(食や物に限らず、私達の魂の向上に必要な事柄も含む)

私たちは人にされた事を許すので、私たちの罪も許してください。

悪の誘惑に惑わされた時、助けて下さい。

そして悪から解き放して下さい。
(過去・未来も含む)

アーメン(そうなりますように。。)


祈る時に、最初に神様にお願いをする。
その後は、できる限り祈りの言葉に注意しながら瞑想することで、神が私たちに望む「祈り」が完成される。
人は誰でも生まれながらにリーダーの役目をもっている

親子関係、兄弟関係、会社の上下関係、団体、様々な場面で、必ずリーダーシップを要求される

リーダーに一番必要なものとは何か。。

それは、「謙虚な人間性」

謙虚なリーダーとはどんなリーダーか。。

それは自分のことを自分でやり、自分の管理下にある者をこき使わず、横柄な態度をとらない者

例えば、自分で自分のコーヒーを入れたり、ゴミを捨てたりといった小さなこと

自分で簡単にできる事でも何かと人任せにするタイプの上司は、下の者に反発心を抱かせやすい

親子関係でも、何かと子供をこき使う親は子供に反発心をもたせやすい

これはどんな関係にも当てはまる

命令をしたり、仕事をお願いしてはいけないということではなく、一つの仕事として会社に関わる仕事を与えることに問題はない

*部下のやる気を出させるために、アイディアを聞いたり仕事を任せたり

*親子なら、親が子供に責任感をもたせる目的で子供に何か「仕事」を任せるのはむしろ子供のためにも良い

でも「こき使う」というのは、自分に関わる自分の用事・世話を立場を利用して下の者に押し付けるということ

人間は協力しあう生き物なので、時には人に頼むのはもちろん仕方がないが、それは人の好意であるということを認識し感謝を示すことを忘れてはいけない。もちろん親子関係でも

「自分のことは自分でやる」謙虚な上司は、失敗をしたとき部下が力になってくれる

「こき使う」謙虚ではない上司は、部下に貶められたり、失敗した時に知らん顔されたり、失脚を望まれる

謙虚でいること。。それは神の教え

神もまた、謙虚である人間を好む 

聖書:『プライドは不名誉(失脚)に繋がり、謙虚な心は賢こさとなる』


お母さんが欲しい。。

自分を理解し、守ってくれ、愛してくれる母親がいたら。。

離婚、再婚、シングルペアレント、虐待、孤立した核家族、家庭崩壊。。
現代は、決して子供にとって生きやすい世界ではない。その子達は大人になり、愛されなかったことが理由でさまざまな反動がでる

もし自分にも心から愛してくれる母がいるとしたら?
あなたを守り、苦しい時に手を差し伸べ、あなたの幸せを心から応援してくれる母親。。。

『聖母マリア』

マリア様は人間であり、女性でありながら、唯一人、『天界の女王』『天使達の女王』と呼ばれている

キリストの母であるマリア
その使命を全うするため、神は彼女に他の誰にも与えなかった『恵み』を与えた
それは『Immaculate Conception』といって、もともと全ての人間がもって生まれた罪(原罪)がなく生まれたこと

そのため、彼女は他の人間と違い、罪を犯すことが難しい
もちろんやろうと思えばできないことではないけど、その恵みを受けていない私たちに比べ、誘惑は極力少ない
そして、神への愛が誰よりも深かった彼女は罪を望むこともなかった

そんなマリア様は、ある日神から送られた使者の天使、ガブリエルにキリストの母となるか問われ、受け入れる

アダムとイブの話でイブが最初に悪魔の誘惑にのり、禁断の実を食べた話は聞いたことがあると思う

そして実は、マリア様は『新しいイブ』と呼ばれている
それは、最初に失敗してしまい、墜落した人類の『父と母』に変わり、手本となるための者を神は人間に与えたから

それが『新しいアダム』と呼ばれるキリストと、『新しいイブ』と呼ばれる聖母マリア


キリストは神の子であり、神でもあるから、悪魔の誘惑にのることはなかったし、聖母マリアは、神に与えられた恵みと心にある強い愛で悪魔の近寄れる存在ではなかった

そんな聖母マリアに神はキリストの母になることと、同様にもう一つの重大な役目を与えた

聖書・創世記:『神は女とその種、そして蛇とその種の間に敵意を植え、女は蛇の頭を砕き、蛇は横たわり、女のかかとを待つ』

この女は、マリア様であり、蛇は悪魔のこと
簡単に言うと、神は聖母マリアが悪魔を滅ぼす力を与えた

一番最初にそそのかした女に今度は自分が滅ぼされる。。プライド高いサタンにはこれ以上ない屈辱に違いない

キリストが十字架にかけられた時、使徒(弟子)ジョンに言った言葉:「あなたの母を見なさい。。」

これは残された私たち全員に向けられたキリストの言葉で、聖母マリアは私たちの母であるという意味

『カーナの結婚式』では、ワインがなくなってしまい、マリア様にお願いされる場面があって、キリストはそれに対し、「まだその時(奇跡をおこす)ではない」と言うが、マリア様に再度頼まれ、願いを叶えた(水をワインに変えた)

聖母マリアは、私たちのためにも同じように神にお願いしてくれる

聖母マリアやその他の聖者にカトリックが祈る時、神のように崇拝するのではなく、彼らに私たちのために神に祈ってもらうこと、そして私たちの祈りを届けてくれるように祈る

そして、マリア様はもちろん神ではなく、聖者の一人。そしてキリストの母という立場で、キリスト・神と最も距離が近いから、私たちカトリックはお祈りをする

悪魔がもっとも憎く、神以外で最も恐れ、苦手とする存在、聖母マリア。。

そんな彼女は深い慈悲と愛情で私たちを応援し、私たちが神の元へくるように、心から願っている