尾池和夫の記録(365)20220521俳壇夏の天文

 

『俳壇』2022年7月号 特集 南風、夕立、雲の峰 -夏・天文の季語に遊ぶ
締切 5月21日 3848字 40x96.2

夏(天文)の季語つれづれ

尾池和夫(氷室主宰)
 
 「天文」とは何かが、あらためて気になった。文という字は人の姿をかたどった象形文字で、死者の胸に模様が描かれたものであると言われている。死者に弔いの言葉が添えられたものであり、そのことから「文」は模様の意味を持つ。天文とは宇宙と人の関わりであり、天に現れるさまざまな文様、つまり自然現象である。
 歳時記に掲載された季語の数を見ると、夏の季語が圧倒的に多いことに気づく。ある歳時記では、春、秋、冬の見出しの季語が五〇〇から五二〇程度で、夏の季語は七二〇を超える。しかし、それは夏の生活、動物、植物の季語が多いことによるのであって、天文の季語が夏に特に多いということはない。
 夏の天文の季語は、天文とは言っても、宇宙に関わる季語は、夏の日、夏の月、夏の星があるだけで、その他はすべて地球の大気圏の、そして日本列島の上空の気象を表す季語である。
   蛸壺やはかなき夢を夏の月    芭蕉
 「夏の星」のこと、つまり宇宙のことを最初に述べたい。夏の星は冬の星に比べてとても多い。それは、銀河系の中に占める太陽系の位置と深く関係している。銀河系の形をイメージすると、どら焼のような円盤の形をしていて、どら焼の端に近い位置に太陽系が位置している。その位置にあって、冬は地球よりも銀河系の中心に近い方に太陽があるから、太陽と反対方向を見ている地球の夜は銀河系の外の方向を見ていることになり、他の銀河系は遠いので見える星は少ない。夏はその反対で、夜は銀河系の中心方向を見ているから、銀河系の中のたくさんの星を近くで見ることができる。それが天の川である。天の川の膨れている部分が銀河系の中心付近にあたる。
   夏星や歴代の王ふしあはせ    和夫
 「夏の大三角」が天高く昇ると、北の低い位置に北斗七星が見える。これを含む大熊座は春の星座として知られるが、夏の間も沈むことなく北の空にある。天上には天の川を挟んで東西に輝く一等星の琴座のベガ、つまり織姫星と、鷲座のアルタイル、つまり彦星とが一段と明るく輝いている。
 天空の気象現象を表す主な季語を列挙すると、梅雨、夏の空、炎天、油照、夏の雲、雲海、夕立、雷、雹、虹、朝焼、夕焼、夏の風、南風、あいの風、やませ、青嵐、凪などである。
 梅雨は雨季の一種である。北海道と小笠原諸島を除いて、日本列島、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、台湾、東アジアの広範囲において見られる特有の気象現象である。地域によってずれるが、五月から七月にかけて曇りや雨の多い期間で、梅雨の期間は特に湿度が高く、日本は世界でも類を見ない発酵文化を獲得することになった。酒類、味噌、醤油、甘酒、漬物などがあり、夏の生活には発酵食品関係の季語が多い。
 日本列島の夏は暑い。夏の生活の季語に暑さをしのぐさまざまな知恵があふれている。夏の時候の季語には、暑し、大暑、極暑、炎暑、褥暑、灼くとあって、その次に涼しという季語が並ぶ。そして夏の果、秋近し、夜の秋とある。このような日本列島の劇的な季節変化が、そのまま季語として歳時記に並んでいる。
   山起伏して乱れなき大暑かな   飯田龍太
 気象庁の気象の説明では、夏の前半、北海道を除いて全国的に梅雨前線の影響で降水量が多くなり、夏の後半、太平洋高気圧に覆われ、全国的に晴れて気温が高くなり、気温は全国的に摂氏三〇度を超える日が多く、北海道と沖縄の気温差は五度前後と小さいとある。これは生活感覚からは意外かもしれない。一方、オホーツク海高気圧が現れると、北日本の太平洋側を中心に冷たく湿った東よりの風の影響で曇りの日が多く気温が低くなることがある。
 「夏の雲」として詠まれる夏の空に現れる雲は積乱雲や積雲である。「雲の峰」が季語で、その仲間に入道雲があるが、これらは発達した雄大な積雲や積乱雲の俗称で、俗称の方が主たる季語になっている。積乱雲が空高く蛸入道のように見えるのである。入道雲は一年中発生しているが夏にとくに多く、夕立や雷雨をもたらす。関東では坂東太郎、京都では丹波太郎、福岡では筑紫太郎などと呼ばれる。坂東太郎は利根川のことであるが、入道雲が利根川の方に発生することによる入道雲の呼び名でもある。
   丹波太郎太るも迅く崩るるも   和夫
 「夏の霧」は、夏霧、海霧、海霧とも詠まれる。霧は秋の季語であるが、山や海では夏にもよく発生する。太平洋上を南よりの風に乗ってきた暖かく湿った空気が、親潮の寒流で冷やされると濃霧となる。陸の背後に山があるため、釧根地方では流れ込んだ海霧が滞留しやすく、日照期間が少ない冷涼な気候になる。北海道沿岸、特に釧路などでは、こうした海霧を「じり」と呼び、その呼び方が季語になっている。
   坂を匐ふ海霧は魚臭の街を消す    石原八束
 虹は不思議な現象である。中国では虹を蛇や竜の一種と見なす風習があり、虹を意味する漢字は虫偏のものが多く存在する。二重虹をよく観察すると、主虹と副虹とが見える。主虹は、赤が外側で紫が内側、副虹は赤が内側で紫が外側となる。主虹と副虹の間は暗い。これをアレキサンダーの暗帯と呼ぶ。虹は七色か六色かということが多くの人たちによって論じられているが、本当は色を数えることができない。太陽の観測をする天文台の壁でスペクトルを観察するとたくさんの黒い線が見える。その暗線はフラウンホーファー線と呼ばれ、太陽活動の観測に重要な意味を持っている。
   しぐれ虹二つ目は藍濃かりけり   大石悦子
 朝焼と夕焼は晩夏の季語である。七月頃が一番濃く鮮やかな赤に空が染まる。空気中の水蒸気量が多いことが空が赤くなる要因である。朝と夕方は太陽高度が低く、波長の長い光は散乱されずに地球に届き、地表に近い空気中に水蒸気が多いと散乱して見えやすくなる。「朝焼は雨、夕焼は晴」という諺があるが、必ずしも当たらない。日本列島の気象は西から東へ移動することが多いから、夕焼が強いと西の方に雲がないことになり、次の日も晴れることは確かである。高知県の室戸岬では「だるま夕日」が見られる。夕方、水平線に太陽が近づくと、太陽の下の方が左右に拡がって、だるまの形になる。空気の気温差による蜃気楼で、室戸ユネスコ世界ジオパークの見所の一つある。夕焼で空が真っ赤になると、昼間見逃していた物の形や色が目立って見えてくることがある。
   火を投げし如くに雲や朴の花    野見山朱鳥
   夕焼や新宿の街棒立ちに       奥坂まや
 日本語の中に雨を表現する単語は実に多く、四〇〇以上を数えた人もいるが、風に関する単語もたいへん多い。日本は「風の国」と呼ばれるほどよく風が吹く。夏の風を列挙すると、「青嵐」は五月から七月の青葉のころに吹くやや強い南風である。「流し」は梅雨の前後に吹く湿った南風で、木の芽どきに吹く「木の芽流し」、茅の花の咲く頃に吹く「茅花流し」などがある。梅雨の初めの黒い雨雲の下を吹く「黒南風」、梅雨の最盛期の強い「荒南風」、梅雨明け後に吹く「白南風」などがある。「緑風」は青葉を吹く初夏の風。「凱風」はやわらかい南風で初夏のそよ風。「温風(あつかぜ)」は夏の暑い風。「薫風」は初夏の若葉の香りを運ぶ風。「黄雀風」は陰暦五月に吹く東南の風。「涼風」は涼しい風。夏の終わりに吹くさわやかな風。「若葉風」は若葉の頃の風。「盆東風」は夏の終わりに吹く東風で暴風雨の前兆、というように多様性がある。
 「やませ、あいの風、まつぼり風、みんな日本の風の名前だよ」というのは太田真さんの本の副題であるが、地域独特の風の呼び名がある。山背は北海道や東北地方、関東地方で梅雨や夏に吹く冷たい北東寄りの風である。長期間にわたると冷害をもたらす。あいの風は東風で、福井から新潟にかけて夏に吹く。まつぼり風は阿蘇山の西に外輪山の切れ目一帯でしばしば吹く強風で、農作物や農業施設に被害をもたらす。
 風のよく吹く国であるから、逆に風が止まると目立つ。凪は、風力〇、つまり風速毎秒〇・〇から〇・二メートルの状態をいう。朝凪、夕凪、土用凪が夏の季語にある。沿岸地域で、気圧傾度が弱くて天気のよい日には、日中に海風、夜中に陸風が吹く。海風から陸風へ切り替わるときの夕凪、陸風から海風へ切り替わるときの朝凪があり、山に囲まれ、風の弱い瀬戸内海のような内海では、その継続時間が長く、夏に近づくにつれてそれがはっきり見られる。風の強い日本列島に顕著な現象である。
   夕凪や古座の漁師は潮をよむ    和夫