歳時記を読む 俳句を詠む(1)-桜前線北上中-

尾池和夫

桜前線とは主としてソメイヨシノの各地の開花予想日の同じ日を結んだ線を現すマスメディア用語である。気象庁の資料では、「さくらの開花予想の等期日線図」と呼んだ。南から北へ前線が進む気がするが、地図では飛び地があって複雑な分布になる。データは気象庁によるが開花予想日が連続した線になるとは限らないし、当たらないことも多い。

東京にあった中央気象台の農業気象掛で、1926(大正15)年から桜の開花の調査を始めた。その結果を踏まえて1928(昭和3)年に最初の開花予想が行われたが、発表はしていなかったようである。気象庁による「さくらの開花予想」の発表は、1951(昭和26)年に関東地方を対象に始められた。1965(昭和30)年からは、沖縄、奄美地方を除く全国を対象に行われるようになった。2010年からは予想はやめて観測を行っている。

花が5-6輪開いたら気象庁は「開花」と発表したり、数輪咲いたら「開花間近」と発表していた。満開は80%以上が咲いた状態で、「開花」から満開までの日数は、沖縄、奄美地方で約16日、九州から東海、関東地方では約7日、北陸、東北地方では約5日、北海道地方では約4日と、北上するほど短くなる傾向にあるのが興味深い。

主としてソメイヨシノを観測しているが、北海道地方の北部と東部ではエゾヤマザクラ、過去にはチシマザクラを観測していた地点もあった。沖縄、奄美地方では、カンヒザクラである。開花予想が民間事業で行われるようになって、2010年からは気象庁は桜の開花予想の発表をやめた。今では、民間5業者である、ウェザーニューズ、ウェザーマップ、日本気象協会、ライフビジネスウェザー、日本気象株式会社が予想を提供している。

桜の花芽は前の年の夏に形成され始める。その後、休眠状態に入り、秋から冬の一定期間の低温を経て、春の気温上昇とともに生長して開花する。この花芽の生長が気温に依存する性質を利用して、以前は各地の標本木の蕾の重さを量る方法で開花予想を行っていた。以前は九州から北東方向へと順に桜前線が北上していたが、最近は複雑な曲線を描く。九州南部の開花が九州北部や本州より遅れる逆転現象も見られる。「休眠打破」という現象が起こっており、暖冬傾向で冬の間の低温期間が不十分で休眠できないため開花が遅れることがあると考えられている。

 この原稿を書いているのは1月12日であるが、この日、ウェザニュースからはすでに2023年の桜の開花予想が発表されている。それによると東京3月20日、福岡と高知が3月21日、金沢4月1日、仙台4月7日、札幌4月25日、釧路が5月10日である。この文章がお手元に届く頃には結果がわかっているので比べてみてほしい。

 今年の1月4日にはすでに沖縄県国頭でのカンヒザクラの花の写真が掲載されており、7日(土)午前、沖縄気象台は那覇でカンヒザクラが開花したと発表した。平年より9日早く、昨季より4日早い観測だという。桜開花の観測は今シーズン全国で初であり、那覇で全国トップの開花は、4シーズン連続となった。このとき那覇は晴れ、気温は摂氏19度近くまで上昇した。カンヒザクラはソメイヨシノと違って一気には咲かない。ゆっくりと咲きそろっていく。沖縄の各地ではこれから1月下旬にかけて少しずつ桜が咲き出す。

 北海道ではゴールデンウィークにかけて桜も他の花も一気に咲く。函館市の五稜郭公園では約1600本のソメイヨシノが植えられている。エゾヤマザクラが主流の北海道ではソメイヨシノが珍しい。エゾヤマザクラが北海道の代表的な桜で、寒さに強く、花と葉がほぼ同時に開く。エゾヤマザクラは濃いピンク色で、厳しい寒さが桜をより美しい色にする。チシマザクラもある。咲き始めがピンクで満開になると白くなる。花が散って葉が出る。他の桜より低く、横に広がる。小さな子どもが近くで桜を見て親しみやすい。桜前線の終着駅として知られる根室の清隆寺では全国で唯一、チシマザクラが標本木になっている。別海町の野付小学校のチシマザクラが日本一の大きさと言われる巨木である。

日本三大桜は福島県三春滝桜、山梨県山高神代桜、岐阜県根尾谷薄墨桜の巨木である。それに埼玉県石戸蒲桜と静岡県狩宿下馬桜を加えて日本の五大桜である。これらが1922年10月12日に国の天然記念物に指定された。

山桜咲く山の木に囲まれて    名村早智子

千本の桜ジュラ紀の付加体に     尾池和夫

静岡県富士宮市の狩宿下馬桜、別名駒止めの桜は樹齢800年のシロヤマザクラである。山桜の中で最古のものということで、日本五大桜のなかで唯一特別天然記念物に格上げされた。

所在地:静岡県富士宮市狩宿98-2

https://shifu-dsuki.com/

 

 

歳時記を読む 俳句を詠む(2)-季語を食べる- 『人権と部落問題』2023年5月号

尾池和夫

 歳時記では季語を季節で春、夏、秋、冬、新年の季節に分類し、さらに時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物に分類して掲載される。季節の区分は二十四節気による。すなわち夏は立夏から立秋の前日までとする。夏を三夏、初夏、仲夏、晩夏と分けてある歳時記もある。この場合、三夏の季語は夏の間を通して詠み、初夏の季語はほぼ五月、仲夏は六月、晩夏は七月あたりとして詠む。

五月、つまりほぼ仲夏の生活の季語の食べものには、かならず五月の節句に食べる柏餅と粽がある。その他にも仲夏の季語には、ごり汁、新茶、新麦、筍飯、豆飯、身欠鰊、麦飯などがあり、食べものからの季節感が溢れている。また初夏の動物には初鰹があり、植物には苺、豌豆、木苺、新馬鈴薯、高菜、筍、夏茱萸、夏蜜柑、バナナ、蕗、麦などが並んでいる。

 このように季語の中に季節感のある食べものが豊富に含まれており、それらが市場に並んで季節の到来を教えてくれるようになっている。最近ではさまざまな工夫で本来の季節を越え、産地を越え、つまり時空を越えて多くの食物が見られるようになったが、歳時記にはそれらの元々の季節が保存されている。例えば、バナナは一年中あるので、歳時記から削除しようというような暴言を吐く俳人もいたが、熱帯にも季節感があり、現地にはバナナの美味しい季節が明確にあるということを大切にしなければならない。

 以上は、仲夏、ほぼ五月という一か月の視点で季語を見た場合のことであるが、特定の食べものに視点を当ててすべての季語を見ることにも意味がある。例えば日本人の好む筍の場合である。まず竹の季語を見てみよう。仲春の竹送り、晩春の竹の秋、三夏の竹夫人、竹簾、初夏の竹落葉、竹の皮脱ぐ、仲夏の竹植う、鞍馬の竹伐、竹の花、若竹、初秋の竹の春、中秋の竹伐る、三冬の竹馬がある。

竹は食べないが食べる方の筍や笹の子の季語には、晩春の春の筍、初夏の筍、篠の子、筍飯、初冬の寒筍などが美味しそうに並んでいる。また、竹の皮には抗菌、鮮度保持能力に優れるという作用があることが知られている。日本食では竹の皮は食品の保存目的に使われる。おむすびや肉を包み、笹寿司、和菓子などの包装に使われる。普通は真竹の皮を使うが孟宗竹の皮も役立つ。

食材としての筍の成分で、栄養素ではないが、まず第六の栄養素と言われる食物繊維に注目する。また、ミネラルではカリウムが豊富に含まれる。さらにチロシンがある。アミノ酸の一種で、水煮した筍が冷えると節の隙間などに着く白い粒状のチロシンは、ドーパミン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質の原料になる。チロシンは脳が必要とするエネルギー源であるブドウ糖と組み合わせると効率よく吸収することができるので、筍飯はまことに優れた食べものである。さらに生の筍百グラムには蛋白質が三・六グラムもある。

一方で筍はアクが強い食材である。主としてシュウ酸とホモゲンチジン酸で、摂りすぎると肌荒れに繋がる。アクは収穫から時間が経つほど増えるので、採れたての筍をアク抜きして食べる。また、不溶性食物繊維が豊富で、腸の働きを活発にする反面、人によっては摂り過ぎで腸内環境を悪化させることもある。

 京都には筍の名所がある。活断層の破砕帯が崩れやすく、人びとが孟宗竹を植えて補強したからである。百万年ほど前から続く活断層の上下運動で、隆起した山地から、浸食で土砂が沈降する盆地に堆積し、百万年ほどの間に数十キロの厚さを持つ堆積層を形成した。その中に蓄積された地下水から、茶の湯、和菓子、豆腐や湯葉、京料理、清酒などが生まれ育ってきた。まとめて私は「変動帯の文化」と称している。活断層は二千年ほどに一度は活動して大地震を起こすが、それは約十秒であり、その他のときには盆地の地下水による文化も含めて、大きな恩恵を人びとにもたらせた。活断層で隆起した山々に囲まれて世界でも珍しい城壁のない都が生まれ、そこに育った京料理の品書きには、四月から五月にかけて、美味しい筍料理のさまざまが登場する。

目を張りて筍飯を食ひ終る   加藤秋邨

筍の刺身に土佐の鰹節     尾池和夫

 

写真説明:筍の産地である長岡京市、創業明治14(1881)年の錦水亭では、朝掘の筍を使う「たけのこ会席」が名物

 

 

歳時記を読む 俳句を詠む(3)-季語を飲む- 『人権と部落問題』2023年6月号

尾池和夫

 飲むというと酒を連想する人と茶や水を連想する人がいる。飲物は何にしますかとレストランで聞かれたとき、以前は私も酒のメニューから選んでいたが最近は茶を選ぶことが普通になってきた。もともとアルコールを処理できる体質ではないようだと自覚している。そこで今回は茶のことを書くことにした。

 鎌倉時代に日本に禅宗を伝えた栄西は、中国から持ち帰った茶を九州筑肥背振山に植えた。宇治の明恵上人にも茶の種を送り、それが宇治茶の起源と言われる。日本では、奈良時代から平安時代までには茶を飲むことが始まった。当時の茶は烏龍茶に似た微発酵茶と考えられており、色の名にある通り茶色であった。当時は嗜好品としてより薬ととらえられていた。

茶に関する季語は、晩春の季語「茶摘」から始まってたくさんある。一番茶、二番茶、茶摘時、茶摘唄、茶摘籠、茶摘笠、茶山、茶畑などを詠む。製茶、茶づくり、茶揉み、焙炉、焙炉場、焙炉師、茶の葉選という季語から、茶が製品となるまでの工程がわかる。新茶、走り茶、古茶という茶の種類も季語であり、初冬の植物の「茶の花」も季語である。

茶道は日本伝統の茶を飲む作法である。湯を沸かし、茶を点て、茶を振る舞う。元は「茶湯」といわれ、千利休は「数寄道」、古田織部は「茶湯」、小堀遠州は「茶の道」という語を使っていた。江戸時代前期には「茶道」と呼ばれるようになった。表千家では「さどう」、裏千家では「ちゃどう」と読む。茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける掛け物は個々の美術品である以上に、全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行する時間と空間自体が総合芸術となった。

 茶道には和菓子が用いられる。菓子をいただくのには黒文字を用いる。黒文字は魔除けの意味をもち、独特の木の香がある。茶道の菓子は抹茶の引き立て役である。空腹のとき胃への刺激が強いのを和らげる目的がある。茶道に用いる茶は、薄茶でも濃茶でも碾茶を臼でひいた抹茶である。濃茶用には、「何々の昔」という銘、薄茶には「何々の白」の銘が付いている。

 小川流などの煎茶道の開祖は、江戸時代初期に禅宗の一つである黄檗宗を開いた隠元隆琦とされている。全日本煎茶道連盟の事務局は京都の黄檗山萬福寺内に置かれている。六代目小川後楽は、椅子と机を用いる立礼の手前を考案した。煎茶道では急須などで煎茶や玉露などの茶葉を用いる。

 薬用にする茶の部位は若葉と種子で、若葉は茶葉(ちゃよう)、種子は茶子(ちゃし)と称して、春に採ったものがよい。葉を摘んだら短時間で蒸して醗酵を止め、熱を通しながら手で揉んで撚り、再加熱して加工する。葉は頭痛、下痢、食べ過ぎ、のどの渇きに、また種子は痰が出る咳に薬効がある。茶葉に含まれるアルカロイドは、発汗、興奮、利尿作用があり、チャタンニンは下痢止めの作用があるとされ、適量飲めば滋養保健に役立つ。茶を風邪の予防にうがい薬として利用する方法が民間で知られている。緑茶やウーロン茶、紅茶などは、熱を冷ます薬草でもあり、冷え症や胃腸が冷えやすい人は多く服用しない方がよい。

寿司屋では粉茶を使う。大きな分厚い湯飲みを使うが、手間を省くことや熱い茶が飲めるなどの理由がある。寿司の味を消すのには熱い茶でなければならない。寿司屋のお茶は色、香、味が重要で、甘みがあると寿司の味を損なう。癖のない靜岡の粉茶が一番向いている。粉茶は茶の製造過程に派生するもので茶の品質が劣るわけではない。煎茶や玉露などの副産物であり、それを利用する知恵である。直射日光を遮って育てる碾茶と異なり、煎茶は太陽の日差しを浴びて育てた茶葉を蒸して揉んで乾燥させる。日差しを浴びた葉は旨み成分のテアニンが渋み成分のカテキンに変身して旨み成分が少なくなっており、カテキンが碾茶より多い。カテキンには抗菌や消臭効果があり、食中毒防止という観点からもいい。寿司屋で茶を入れるには三年の修行が必要と言われる。

 

茶の花のほとりにいつも師の一語      石田波郷

果たし状新茶を添へて送りけり       尾池和夫

 

静岡の茶畑

 

 

歳時記を読む 俳句を詠む(4)-季語を飲む(続)- 『人権と部落問題』2023年7月号

尾池和夫

 飲むと言えばやはり酒であろう。夏の季語には飲物の季語が多い。歳時記にはたくさんの種類があるが、季語の数が多ければいいという訳ではない。厳選されて基本的な季語が掲載されている『ホトトギス新歳時記第三版』を例にとると、全季語二六二六(傍題を含めると五七四七)が掲載されており、春、夏、秋、冬、新年と分けてみると、夏が目立って多く七二三の季語がある。それぞれの季節をさらに時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物と分類するが、一年を通して「生活」の季語が一番多くて六九四ある。

その中でも冬と夏に生活の季語が多く、それぞれ二〇二と二〇一ある。季語は、夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする京都で生まれたから、暮らしにくい気候を乗り切る生活の知恵が季語に反映されている。夏の「生活」の季語の中の飲み物の季語を並べると、麦酒、梅酒、焼酎、冷酒、甘酒、新茶、麦茶、葛水、ソーダ水、アイスコーヒー、サイダー、ラムネ、氷水とあって、その後に涼しい食べものがくる。氷菓、葛餅、葛切、葛饅頭、心太、水羊羹、ゼリー、白玉、蜜豆と続く。

ビールや麦茶が夏の季語であるのは当然と思うが、夏の飲物の中で甘酒が目立つ存在である。この甘酒は一夜酒(ひとよざけ)とも詠まれる。俳句を始めた頃、夏の季語に甘酒があることを知って感銘を覚えた。甘酒は江戸時代から暑気払いの主役で、夏ばてを防いでくれる。甘酒は米と糀と水だけで、簡単に美味しく自分で作ることができる。粥を七〇度に冷まして米の糀と合わせる。摂氏五五度前後に保ちながら、ときどきかきまぜて約七時間でできる。だから一夜酒とも言われる。材料を選び、温度管理に手間をかけると自然の甘みが楽しめる。酒という字が付いているが、完全なノンアルコール飲料になる。子どもに飲ませても大丈夫である。よく節分などの寒い時期の祭などでカップに一本の箸を立てて売っている酒粕を溶かして砂糖を入れた「粕湯酒」とは異なることに注意しなければならない。

 夏ばてを防ぐ甘酒には抗酸化作用や美白効果があり、ブドウ糖や必須アミノ酸などをしっかり含み、栄養不足を補うために病院で打つ点滴とほぼ同じ成分である。だから夏ばてをふせぶために江戸時代から愛飲され、夏の季語になった。

 甘酒を作るためのコウジは米のコウジで、これを現す文字「糀」は国字である。日本の糀は米の糀である。それに対して麹は漢字で麦のコウジである。奈良時代に米の「かびたち」が登場して酒につながる。糀については、小泉武夫著『くさいはうまい』という本が参考になる。江戸時代までは「酒」と呼んでいたのが、明治になって洋酒が入ってきてから、日本酒という呼び名になった。今でも日本酒と呼ぶのは日本人だけで、ニューヨークのバーでは「サケ」と呼ぶ。

 私が住んでいる静岡にも銘酒が多い。なかでも大井川の水で造る青島酒造の「喜久醉」という酒が好きである。その酒造りの工程を、丁寧に説明してもらった。社員五人で米を手で洗う。ひとり五キロの米を、手で水分の含み具合を感じながら約三〇秒洗う。多い時には一日五〇〇キロ洗う。糠をきっちり落とすと雑味のない酒になる。また濾過する必要がなく、濁りのない清酒となる。「酒づくりは洗いに始まり洗いに終わる」といわれる。次に米を蒸し、糀造りでは、杜氏一人で、室温摂氏三六度、湿度五〇パーセントの室(むろ)に籠もる。通常、四八時間で出糀(米糀の出来上がり)するところを、一・五倍の七二時間をかける。この作業が出来るのは、杜氏の傳三郎さん一人だけで、一子相伝の業である。一時間半ほど休んでは糀を育てる。過酷な作業で体力は消耗するが、五感が冴えてくる。

 『進化し続ける日本酒』(一五)の記述によると、大井川水系はミネラルの少ない軟水で、もろみの発酵はゆっくりと進む。この特性を最大限生かすために、ゆっくりと溶ける性質の糀を、一般的に四八から五二時間のところ、七二時間かけて育てる。糀を造るため、米の洗い方、吸水させる量、蒸し方を決めるという。

 

寒雀酒蔵を出る糀の香          森 澄雄

一代にて成らぬ蔵なり新酒酌む      尾池和夫

 

大井川の伏流水を汲み上げて洗米水と仕込み水に使用する。杜氏は青島傳三郎氏(左)