『幸雨』連載19-21 2020年7月-9月

 

ジオパーク吟行案内(一九)

 

立山黒部ジオパーク(1)

                   尾池 和夫

 

北陸地域、勝山、白山、次は立山で、いずれも山の字がある。立山黒部ジオパークのキャッチコピーは「富山の中の、地球へ行こう 高低差4000mロマン」である。このジオパークのくわしい説明が、一般社団法人立山黒部ジオパーク協会のウェブサイトにあり、それも参照しながら見所をまとめてみたい。

 このジオパークは、深さ一〇〇〇メートルの富山湾の海底から、標高三〇〇〇メートルの北アルプスまでの高低差を、水平距離たった数十キロの間に展開する。急流の河川が生む広大な扇状地に、人口四二万の富山市がある。

 数十キロの距離、つまり空間の展開だけでなく、時間の展開がある。約四六億年の地球の歴史の、実に約三八億年分の記録が、ここに刻まれている。

このジオパークには、山と川と海、それらに関わる生き物の環境、住み着いた人びとによる文化があり、それらをまとめて愉しむことができる。

立山黒部は、かつてユーラシア大陸の端にあった。そこには恐竜やアンモナイトもいた。ユーラシア大陸の端が割れて開き、一六〇〇万年前ごろ日本海が完成して今の位置になった。その間の大地の歴史がこのジオパークの地下に保存されている。

 まず地形の特徴である。北陸地域には多くの急流一級河川がある。本州中部の日本海側では平野部が海岸沿いにあり、そこに都市があるが、それらのどれもが高い山に近く、数十キロで標高三千メートル級の山に達する。海から平野へ、そこからすぐに急斜面の山地に続く。

 谷川岳から新潟港までの平均傾斜は一・六パーセントで比較的穏やかな傾斜である。これを基準に北陸の地形の平均傾斜を比べると、立山から富山で五・七パーセント、白山から金沢で五・二パーセントである。この数字が大きいと、そこを流れる河川が急流となる。

 富山湾に注ぐ常願寺川が急流で知られている。約三千メートルの標高差で、河川の延長は五六キロである。世界的に見ても有数の急流河川である。明治時代、常願寺川の改修工事のためにやってきたオランダのヨハニス・デ・レーケが、「これは川ではない。滝だ」と言ったという有名な伝説がある。すごい急流というような言葉の誤訳とか、誇張とか諸説あるが、上流に滝を確認して「滝があって良かった」と言ったのが事実だという説が有力とされていて、納得できる。白山でも述べたように、滝は急流を緩和する大きな役割を持っている。

 江戸時代、一八五八(安政五)年の飛越地震により、常願寺川の支流である和田川の流域で、立山カルデラの大規模な崩落があり、下流域に大量の土砂が供給された。集中豪雨のときには暴れ川となって大小の石が流され、水田に巨大な転石がある。安政の大洪水のときには、巨石が川底の石とぶつかって火花を散らしながら流れたと伝えられる。立山カルデラの土砂は約二億立方メートルで、すべて流出すると富山平野の全体が二メートルの厚さの土砂で覆われるという。

 

蛍烏賊の群遊:立山黒部ジオパーク協議会による

 

 北陸には自然災害が多発する。福井地震、新潟地震、中越地震、能登半島沖地震、中越沖地震による震災、三八豪雪、五六豪雪、二〇〇四年の新潟・福島豪雨、福井豪雨、二〇〇五年、六年の豪雪などによる災害が発生した。

 

 北陸地方の全市町村が豪雪地帯の指定を受けている。このことから、日本有数の積雪寒冷地域であることがわかる。このような自然と暮らすために、さまざまの工夫が行われてきたことも北陸の特徴の一つであり、北陸には立山、白山山中の砂防事業、信濃川、常願寺川、手取川、九頭竜川の治水事業などの歴史がある。

立山室堂近くの「雪の大谷」には、一冬に毎年二〇メートル前後の雪が積もる。しかも、この雪の壁は夏には融けてしまって下流に流れる。この世界有数の膨大な積雪は、立山や剱岳の周辺に、かつて厚さ数十メートル、長さ数百メートルの巨大な氷河を形成していた。立山の降水量は年間六〇〇〇ミリに達する。

水は深い渓谷を刻み、下流に大量の土砂を運んで広大な扇状地を作る。地下水が豊富で、扇状地の末端では伏流水として湧く。海には豊富な栄養が運ばれ、天然の生け簀と言われる富山湾に、多様な生物を育てている。歴史、文化、生活などが大地の影響を大きく受ける。

見所の紹介を富山湾から始めたい。海岸から見る富山湾の名物は蜃気楼と蛍烏賊の群遊である。蜃気楼の名所である魚津海岸は江戸時代までにはすでに全国に知られていた。四月から五月、海上の大気の層が上暖下冷となったとき、光が屈折されて蜃気楼が見える。魚津埋没林博物館に展示がありハイビジョン映像で蜃気楼が見られる。

蛍烏賊は、三月から六月、産卵のため大群で押し寄せる。富山湾独特の現象であり、これは岸から急に深くなる富山湾の海底地形によると考えられる。(「氷室俳句会」主宰)

 

ジオパーク吟行案内(二〇)

 

立山黒部ジオパーク(2)

                   尾池 和夫

 

富山湾の蜃気楼はなかなか実際に見る機会がないので、魚津埋没林博物館の展示を見ることをすすめるが、その博物館ではやはり埋没林を見る。埋没林ができた原因には、火山灰や火砕流、河川の氾濫による土砂の堆積、地すべり、海面上昇などさまざまなものがある。年代もさまざまである。魚津埋没林は、約二〇〇〇年前、片貝川の氾濫による土砂が杉林を埋めたもので、その後海面上昇で今の海面より下になった。埋没林では生育場所全部が密閉されて種子や花粉、昆虫まで残っていて、過去の環境を知る手がかりがある。魚津埋没林は、一九五五年に特別天然記念物の指定を受けた。

扇状地の高台にある下山芸術の森展望台に上がると、黒部川扇状地と村を一望することができる。富山湾の手前に田畑が拡がり、右手には朝日町、振り返れば立山連峰であえる。ここの美術館は大正時代の水力発電所、黒部第三発電所を改修した施設であり、あいの風とやま鉄道入善駅から車で約一〇分の所にある。

さらに海岸を東へ行くと、境関所である。越中国と越後国の国境に加賀藩が設けた関所で、全国最大級の規模をもつ関所であった。明治二年まで国境警備を行っていた。関所には、海辺や海上渡航改めの浜関所、街道通行改めの関所、海上や山中を不法越境するものを見張る御亭(おちん)、藩主が宿泊した「御旅屋(おたや)」、射撃場、牢屋、役人の長屋などがあった。境川を接して越後国側に、幕府が設け、高田藩が預かった市振関所があり、その先が親不知の難所である。

扇状地を上ると、大岩山日石寺には本尊の磨崖仏が凝灰岩に彫られている。穴の谷の霊水は、丘陵地の洞窟に湧き出る地下水で霊場である。滑川市立博物館には売薬の歴史、洞杉は上流から流れた巨大転石に育った杉の巨木と、名所が並ぶ。

立山の氷河コースが設定されており、二日コースで、立山黒部の最高峰を巡る山岳ジオツアーである。現存する氷河、地獄谷、大地の浸食など、自然の驚異を登山装備で巡る。立山自然保護センターで自然を学ぶ展示を見て、室堂周辺の情報を得る。エンマ台から立山とその直下にある氷河地形を一望し、大日連山と地獄谷を見る。

室堂山は、立山カルデラの展望地でもある。東西約六・五キロ、南北約四・五キロのカルデラの縁に位置し、崩壊 壁の際に地すべりブロックによる階段状の低崖が発達しているのが見える。

立山カルデラ展望台からも立山カルデラを見る。約二二 万年前に始まったと考えられる立山(弥陀ヶ原)火山の活動の舞台である。山体の多くは失われている。山体の著しい浸食と崩壊の進行で形成された浸食地形を今見ていることになる。弱い火山性地形を背景に、厳しい気象条件と地熱活動が風化と浸食を促進し、隣接する跡津川断層の地震活動による山体崩壊の誘因も重なって地形が形成された。

 

内蔵助氷河

立山黒部ジオパーク提供

 

このジオパークでは三夏の季語である氷河を見ることができる。歳時記の解説には日本では見られないと書いてある場合が多いが、日本でも平地から見られる氷河がある。

 

池ノ谷氷河は、二〇一八年に氷河として認定された多年生雪渓である。剱岳の西側斜面に位置し、厚さ最大三九メートル、長さ八五〇メートル以上の氷体が、年間一・四から二メートルの速度で流動する。新川平野から見ることができる唯一の氷河である。

御前沢圏谷と氷河は、圏谷内の御前沢雪渓に、厚さ三〇メートル、長さ四〇〇メートルの氷体が一か月に一〇センチ以下の速度で流動していることが判明して、二〇一二年に氷河であると認められた。雪渓末端には、サル股モレーンと呼ばれる大規模なモレーンがある。

三ノ窓氷河は、剱岳西側に位置する多年生雪渓で、厚さ七〇メートル、長さ一二〇〇メートルに達する日本最大の氷体が一か月に最大三〇センチの速度で流動していることがわかって、二〇一二年に氷河と認定された。

小窓氷河も、剱岳西側の多年生雪渓であり、二〇一三年に氷河と認められ、内蔵助氷河も、富士ノ折立の北側にある圏谷に、日本最古の氷体をもつ内蔵助雪渓やプロテーラスランパート、岩石氷河が存在する。カール内には永久凍土がある。プロテーラスランパートというのは、雪渓の前面に堆積した岩屑の作り出す堤防状の地形のことであり、日本では、この内蔵助圏谷のものが有名である。

立山カルデラ砂防博物館では、一八五八年四月九日(安政五年二月二六日)の飛越地震による立山連峰鳶山の山体崩壊と、その後、カルデラ内の土砂の河道閉塞により、何度も決壊して常願寺川を土石流となって下り、富山平野の村々に多大な損害を与えた歴史の紹介がある。カルデラ内に残った大量の土砂から下流の町を守る砂防と河川改修工事の歴史を学ぶことができる。 (「氷室俳句会」主宰)

 

 

ジオパーク吟行案内(二一)

 

佐渡ジオパーク

                   尾池 和夫

 

 「あいの風とやま鉄道」の越中宮崎駅を過ぎると、左手の海岸が朝日ひすい海岸のオートキャンプ場、そして境川を渡ると新潟県である。境川の手前の右側に境一里塚の遺跡がある。やがて市振駅に着くと、そこから先の鉄道は「日本海ひすいライン」となる。駅をすぎてすぐ、左手に市振関所跡がある。そこから糸魚川ユネスコ世界ジオパークである。

さらに鉄道の右手に、白鬚神社、長円寺、すぐ左手に街道の松跡地と続き、列車は長いトンネルに入る。そこが親不知海岸の絶壁である。鉄道に平行して国道八号線、北陸自動車道の上りと下りのトンネルがある。国道八号線のトンネルには切れ目があるので、その切れ目で左手に「親不知・子不知」の名所が見え、相馬御風歌碑(愛之像)のある川を渡る。鉄道は親不知、青海の駅を過ぎて姫川を渡って糸魚川駅に着く。そして糸魚川世界ユネスコジオパークの対岸が佐渡ジオパークである。

佐渡は日本海側で最大の離島である。この島は、大陸から移動してきた。大陸にあった時、大陸から離れ始めたころ激しい火山活動があった。日本海が生れて深くなるころ佐渡は海底にあった。日本列島が今の位置に来て、フォッサマグナ地域が隆起するとき佐渡も隆起し、大佐渡と小佐渡が誕生した。二つの島から流出した土砂で島はつながり、二つの島の間に大きな平野を持つ今の形ができた。

平野には水田が広がり、朱鷺をはじめ多くの生き物を育む場となっている。昔の火山活動がもたらした岩石は島の土台をつくり、日本一の金銀鉱床を生み出した。そこに暮らす佐渡の人びとと大地の物語を楽しむのが佐渡ジオパークである。

モデルコースが六つ設定されている。その中の小木半島巡りコースである。約一三〇〇万年前、海底での大規模な火山活動のときに噴出した熔岩が小木半島の大地の土台である。国の天然記念物と名勝の指定を受けている。矢島は伝説の島である。矢竹の産地で矢島という。佐渡に流罪となった日蓮を赦免状を携えて訪ねる日朗が、嵐にあって漂着した島で一夜を明かしたことから「経島」とも呼ばれる。宿根木海岸では、海底火山から噴き出した石や火山灰などによってできた大地の地形を見る。赤茶色の隆起波食台に、かつての製塩所跡がある。長者ヶ橋は、高さ四〇メートルの海上散歩を楽しむ場所で、深浦の入り江の上から、コバルトブルーの海と 海底の黒い熔岩、棚田の地形などを見渡す。沢崎灯台は佐渡最西端にある灯台である。たけのこ岩と呼ばれる奇岩も熔岩である。柱状節理の岩山「神子岩」は、マグマが海底の地層の中でゆっくり冷えて固まったもので、橄欖岩が多く入っている。隆起波食台に出現したのが、「キリン岩」である。海底の熔岩が冷えて固まり、その上に熔岩が積み重なることを繰り返して模様ができた。

 

宿根木の隆起波食台(佐渡ジオパーク推進協議会提供)

 

次に、歩いて巡る相川大間港・吹上海岸コースを選ぶ。相川金銀山の鉱山の歴史を知る。鉱石をすりつぶす石磨(いしうす)の材料となった石を探して巡る徒歩のコースである。大間港、千畳敷海岸、吹上海岸、きらりうむ佐渡が、佐渡金銀山を訪れる玄関口である。

 

明治の頃、コンクリートがない時代に、消石灰と土砂を混ぜた「たたき」で鉱山専用の港を作った。港跡地には車で乗り入れることができる。千畳敷海岸は、熔岩流の海岸で、約二〇〇〇万年前の熔岩を見る。吹上海岸では、鉱山の石磨に利用された岩がある。海岸に石切場跡がある。目玉模様の石が鉱山に欠かせない石で、それが吹上海岸の球顆流紋岩である。

佐渡金山は、一六〇一年に山師三人によって開山されたと伝えられている。一六〇三年には徳川幕府直轄の天領として佐渡奉行所が置かれ、小判の製造が行われて江戸幕府の財政を支えた。一八六九(明治二)年に、官営佐渡鉱山となり、西洋人技術者を招いて機械化、近代化が図られ、一八九六(明治二九)年には、三菱合資会社に払い下げられ、日本最大の金銀山として拡大発展を遂げた。一九八九年、資源枯渇のため操業を休止し、四〇〇年の歴史を閉じた。ここの金鉱脈は、東西三〇〇〇メートル、南北六〇〇メートル、深さ八〇〇メートルに分布していた。約四〇〇年の間に産出した金は七八トン、銀は二三三〇トン、坑道は蟻の巣のごとく拡がっており、総延長は約四〇〇キロである。坑道跡、採掘施設、製錬施設など、ほとんどが国の重要文化財、史跡、近代化産業遺産に指定されており、二〇一〇年にはユネスコ世界遺産暫定リストに記載された。

田植の終わった国中平野を風が渡っていく。田んぼの上を舞うのが国の特別天然記念物の朱鷺(学名ニッポニアニッポン)である。日本最後の朱鷺の死亡が伝えられたのは二〇〇三年だった。二〇一二年、放鳥された個体同士による野生での繁殖が確認され、その個体も二〇一四には繁殖に成功、二〇一九年時点で、野生下の個体数は四三〇羽と推定されている。       (「氷室俳句会」主宰)