『幸雨』連載13-15 2020年1月-3

 

ジオパーク吟行案内(一三)

 

伊豆大島ジオパーク(1)
                     尾池和夫

 

 二〇一九年一〇月三日、第三七回日本ジオパーク委員会が開催された。新しいジオパークの認定はなく、四年に一度の再審査の結果を含め、日本ジオパークは四四か所、うち九か所がユネスコ世界ジオパークのメンバーという構造に変化はなかった。

 今回からしばらくユネスコ世界ジオパーク以外の日本ジオパークを紹介したい。最初は伊豆大島ジオパークである。伊豆半島ジオパークを紹介したとき述べたように、伊豆半島は本州の南端に衝突したが、火山が多くて軽いために本州の下に潜り込むことができず本州を北へ押すことになり、丹沢山塊のような大きな山塊が生まれた。二〇一九年の台風一九号のような大型で強い台風の空気が大きな山塊にぶつかると上昇気流で大量の雨を降らせる。

 伊豆大島の火山は、もともと太平洋プレートがフィリピン海プレートの下に潜り組んで生まれた活火山である。同様の仕組みの活火山がずっと南へ続いており、太平洋プレートの潜り込み口である伊豆・小笠原・マリアナ海溝にほとんど平行して、活火山群が南へ連続している。 この海溝の最も深い所は海面下九七八〇メートルである。この海溝付近では、二〇一五年の小笠原諸島西方沖地震(マグニチュード八・一)などの大規模地震が発生する。

気象庁は、伊豆大島を北の端として「伊豆・小笠原諸島の活火山」の二一の活火山を選定している。その中で、二一世紀になってからの噴火は、北から二〇一三年の三宅島、二〇〇二年の伊豆鳥島、二〇一五年の西之島と硫黄島、二〇一〇年の福徳岡之場の噴火である。気象庁の硫黄島の呼びかたは二〇〇七年に「いおうじま」から「いおうとう」に変更された。三宅島の二〇〇〇年六月に始まった噴火では、山頂噴火が発生するとともにカルデラが形成され、さらに高濃度の二酸化硫黄を含む火山ガスの大量放出が続き、全島民が島外での避難生活を余儀なくされた。二〇〇五年二月一日、四年五か月ぶりに避難指示が解除されたが、今でも山麓で時々高濃度の二酸化硫黄が観測されている。

このような火山群を載せたフィリピン海プレートは、生まれ出るところのないプレートなので、やがては沈み込んで消滅する運命である。それでも南海トラフと相模トラフから沈み込みながら、次つぎにたくさんの火山群を伊豆半島と同じように本州に付加していくことになる。そのような運動が続くためにはフィリピン海プレートの沈み込み口が伊豆半島の南側に生まれる必要があり、すでにその傾向が見えていると分析する研究者もいる。

 このような未来を想定しながら火山活動を学ぶことのできる火山島が伊豆大島である。やがてこの島も本州の一部になるのだと想像しながら見る島なのである。

 

裏砂漠の明日葉

写真:西谷香奈

 

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 初めて訪れるジオパークへ旅行するとき、私たちはガイドブックやインターネットを検索して計画する。ジオパークのたくさんある見所から、行ってみたい場所を厳選する。ジオパークで重要なのは、幅広い知識と経験をもとにして現地を案内してくれるガイドである。ガイドを選んで、その方に前もって自分の興味の焦点を伝えておく。例えば現地の食べ物を知りたい、植物が見たい、星を見たい、虫を見たい、俳句を詠みたいというように伝えると綿密な計画を立ててくれる。

 

昔からあった、出発地から観光バスを仕立てて行く団体旅行と違って、ジオパークを楽しむのは「着地型」の旅行である。移動手段は自分で用意して現地に到着すると、前もって連絡したガイドが待っていて、そこから着地型の旅が始まる。知りたいことを質問すると、ガイドがもし知らなければ調べた結果を後日、わからないことはわからないと知らせてくれる。専門家もまだわからないという意味なのか、単に知識の蓄積にたどり着けなかったのかの区別が重要である。そこをガイドが確認してくれる。

伊豆大島ジオパークの場合には、ガイドの西谷香奈さんを私は推薦する。日本のジオパークのガイドの中でも一二を争う名ガイドである。西谷さんのブログを読むと、伊豆大島の見所と旅行計画の要点がつかめる。さまざまな方が伊豆大島を訪ねて西谷さんとともに学び、さまざまな体験をする。そして西谷さんも知識を蓄積していく。

最近の西谷さんのブログから引用することによって伊豆大島を具体的に紹介したい。二〇一九年の台風一五号でなぎ倒された明日葉が、茎の横から葉を伸ばして早くも花を咲かせている写真(上)が、二〇一九年一〇月八日のブログに、三原山を背景に掲載されている。この日は、一人旅の女性の「火口を一周したい」という希望で、一日コースの火口展望所までやってきた。霧の中で看板を風除けに食事して、「諦めて帰ろう」と声をかけた途端に火口底が現れた。この後、霧は少し横に流れて景色が見えた。亀裂の噴気を見ながら、裏砂漠で植物が再生する姿を見た。森では、この時期らしい鮮やかな茸に出会った。                              

(「氷室俳句会」主宰)

 

 

ジオパーク吟行案内(一四)

 

伊豆大島ジオパーク(2)
                     尾池和夫

 

二〇一九年の秋に、タイのナショナルジオグラフィックの取材で、西谷香奈さんがガイドを担当したときのブログを参考にして、伊豆大島の旅をしてみたい。この時、事前に要望のあった場所は、裏砂漠、櫛形山山頂、火口一周、ゴジラ岩、赤ダレ、砂の浜、地層大切断面、泉津切り通し、巨木の森(神社)、夕日などであったという。当日の天気の様子を見ながら、香奈さんはもう一人のガイドの山村さんと組んで、全部を廻るように計画した。

 一日目、一行が一五時二五分に大島に到着した。日没まで一時間ほどだったが、西海岸を中心に廻った。日没を撮った場所は野田浜で、熔岩の向こうの海に沈む夕日が美しかった。優しい色の富士山も見ることができた。

二日目、天気が良くなさそうだったので、二日に分けて歩く予定だった三原山周辺を一日で歩く計画に変更した。太陽の位置を計算してコースを決め、九時前に裏砂漠に向けて出発した。熔岩地帯を抜け、裏砂漠を突っ切り、予定外のV字谷に立ち寄り、櫛形山の斜面を登り、頂上で一息である。その後、山を下って大きな凹地(カルデラ)の底を突っ切った。久々に歩いたら草木が増えて熔岩が見えにくくなっている場所もあって驚いたという。

 一二時に「赤ダレ」着。綺麗な赤い谷が見られた。この後、小石と砂の斜面を歩いて三原山に登り、一三時三〇分、火口展望所着。その日、日没が一六時四〇分ごろで、影が火口を黒くする寸前で、香奈さんはほっとしたという。赤い色を綺麗に撮ってほしい場所が、なんとかクリアできた。この後は心に余裕ができて、青空も風も、気持ちよかったという。取材陣には意外にも「避難壕」が人気だった。タイには活火山の避難壕はない。

 「今の時期しか撮れないものを撮りたい」という隊のリクエストで、一面の薄の海という風景にはやや遅かったが、薄を見ながらお茶を楽しんだ。夕日は砂の浜で撮影した。皆は、波打ち際で黒い砂地に白い波が描く模様を撮影していた。ガイドとして、いつもこころときめいて見ている自然の中の一瞬のきらめきを、皆と共有できた気がして嬉しかったという。この日、一五キロほどの距離を、重い機材を持って軽やかに歩き、「丁度良い距離だった」と語った屈強かつ明るいタイからの皆さんを案内して、香奈さんは「すごい」と思ったという。出会いに感謝しながらタイのナショナルジオグラフィックの本の完成を、香奈さんは楽しみにしている。

 

野田浜の夕日:西谷香奈撮影

 

 次の例は、二〇一九年一一月一〇日、神津島のガイドと歩いた記録である。同じく、それを参考に秋の島の誌上ハイキングである。神津島で天上山や星空のガイドをしている古谷さん夫妻が来島した。丸二日間と二時間ほどの伊豆大島での滞在時間であった。一日目、雨の予報が出ていて(実際には晴れた)変則的な計画を立てた。神津島からの船の到着を待って山に向かい、熔岩と、きらきらの薄を観察、粘りが強く冷えると白くなる熔岩の神津島から来た二人を案内して、粘りの少ない熔岩の島だから見られる「黒い熔岩チューブ」の上を歩いた。藪漕ぎして到達した高い位置にある岩の上の特等席でお茶を飲み、きらきらが絶好調の薄を見た。神津島では薄のきらめきは九月である。夕日が海に沈むのを見届けて、この日のツアーを終了した。

 

 二日目、二人は自力で火口と裏砂漠を歩き、昼過ぎに「いつか森になる道」でガイドと合流して樹海を中心に歩いた。鋭い観察眼を持つ古谷さんは、次々に小さなものを見つけて教えてくれる。熔岩の穴から生えるシダ、一センチほどのキッコウハグマの花、これは神津島の森では、この季節に花盛りなのだという。思いもよらない場所にあったモクレイシという植物の葉が、成長点を何者かがかじって見事なハート型の葉となっていた。古谷夫妻が感動したのはオオモミジの木だった。伊豆大島にはオオモミジとイタヤカエデが生えているが神津島にはない。同じ火山島でも、個性が違うというのが、客とガイド双方の発見である。

 森を歩いた後、海岸植生が良い状態で保存されている笠松に立ち寄る。本来は海岸植物であるが、神津島では天上山の上で堂々と生きているというオオシマハイネズの、伊豆大島での姿に会った。白い砂地ではなく、黒い岩の上に這う伊豆大島のオオシマハイネズである。「葉の先端が神津島の物より少し尖っている気がする」という感想があった。本土から離れれば離れるほど、変化が顕著になる植物たちを、神津島の個体と葉の先端を比べてみたいというのが香奈さんの感想である。

 古谷さんは、小笠原諸島やニュージーランド(テカポ)でのガイドの経験を経て、二年前に神津島に移住し「フルアース」という店を開業した。店のウエブサイトには「心が動くキッカケを」がコンセプトとある。神津島を一緒に歩いたら、島の魅力を何倍も深く味わえるに違いないと香奈さんは確信したという。   (「氷室俳句会」主宰)

 

 

ジオパーク吟行案内(一五)

 

恐竜渓谷ふくい勝山ジオパーク(1)
                   尾池 和夫

 

福井駅から勝山までは、えちぜん鉄道勝山永平寺線で、約五五分で行く。かつて、京福電気鉄道が福井県下で運営していた越前本線と三国芦原線を引き継いで運営するために設立された鉄道である。車内の案内、高齢者の支援などを行う女性客室乗務員が乗っている。ドアの開閉などは運転士が行う。乗務員の一人である嶋田郁美さんの『ローカル線ガールズ』という本が出版されている。二〇一八年には映画『えちてつ物語〜わたし、故郷に帰ってきました。』が公開された。

勝山駅の駅舎は、一九一四(大正三)年に建てられた。その駅に、今は「えち鉄カフェ」がある。大正時代の駅舎を改修して使っている。構内に機関車「テキ6」がある。これは福井、勝山、大野に織物繊維や木材を運んだ機関車である。

勝山駅から「勝山まちなかルート」でたどる。コミュニティーバス「ぐるりん」あるいは恐竜バス「ダイナゴン」で三分、はたや記念館「ゆめおーれ勝山」がある。明治三八年から平成一〇年まで、勝山の中堅機業場として操業していた建物で、国の近代化産業遺産、勝山市指定文化財になっている。盆地で多湿なため、絹を機織する時に切れにくいことから絹織物業が芽生えた。

九頭竜川の右岸には、二ないし三段の河岸段丘がある。平泉寺町大渡から九頭竜川の下流方向に、断続的に約二〇キロに見られる段丘崖は、総称して「七里壁」と呼ばれる。

勝山に城下町を建設するにあたって、段丘崖を境に上位段丘面に城や武家屋敷を築き、下位段丘面に寺社、町屋を築いた。また、九頭竜川の河川敷の平地には河床から四ないし五メートルの微高地があり、それらが「島」の付く土地になっている。

市街地の大清水(おおしょうず)は飲料水や生活用水などに使われる。平面と急崖からなる河岸段丘の段丘面から浸透する雨水や川水からの伏流水で、段丘崖を伝わって、低位段丘面から湧き出ている。

次に、「岩屑なだれルート」である。大矢谷白山神社境内に、経ケ岳火山の山体崩壊にともなう岩屑なだれによって運ばれてきた二〇メートルを超える巨大岩塊がある。この巨大な岩は、約三ないし四万年前に、経ケ岳火山の不安定な部分が、地震活動の繰り返しなどで、山頂付近から崩れ 落ちてきたものである。

岩屑なだれというのは、火山の不安定な部分が崩壊し、重力によって崩れ落ちる現象をいう。火山の爆発的な噴火で噴出した火山砕屑物が、空気と混合して山腹を流れ下るのは火砕流である。

経ケ岳は今から一〇〇万年前に活動した。その後の山体崩壊や浸食で山の大半が失われた。山頂には大規模に山体が崩れた馬蹄形の凹みがある。凹みに池ヶ原湿原が残っており、湿地植物が見られる。平泉寺町の赤尾神社や笹尾集落付近には田畑の中などに岩屑なだれのときにできた流れ山があり、山体崩壊の源から遠くいくほど流れ山が小さくなっているのがわかる。

 

恐竜化石発掘地 写真:恐竜渓谷ふくい勝山ジオパーク推進協議会提供

 

恐竜渓谷ふくい勝山ジオパークは、勝山市の全域のジオパークであるが、何と言っても恐竜を見なければならない。勝山市では、一九八九年から続けられている福井県の恐竜化石発掘調査事業によって、学術的に貴重な恐竜化石が数多く発見されている。

 

これまでに、フクイラプトル、フクイサウルスの全身骨格が復元されたのをはじめ、恐竜の卵、幼体の骨、足跡化石なども発見された。

このジオパークでは、「恐竜はどこにいたのか? 大地が動き、大陸から勝山へ」をテーマに掲げ、恐竜が大陸で生きていた時代から、勝山で恐竜化石として発見されるまでの間の地球活動を見せる。

勝山が全国の注目を集めたのは、一九八二年、中生代白亜紀前期の鰐の全身骨格の化石が発見されてからである。学名が認められている国内の恐竜には、フクイサウルス、テトリエンシスなどがある。

恐竜博物館の展示は「恐竜の世界」、「地球の科学」、「生命の歴史」のゾーンで構成されている。研究者も満足できる学術的に裏づけされた展示をめざしている。

恐竜化石発掘地は、北谷町の杉山川の上流にある。展望台から、一九八九年以来、継続して恐竜化石含有層を発掘した歴史が一目瞭然である。地層中の堆積構造、断層、古土壌などの観察もできる。

福井、石川、富山、岐阜、長野に分布する恐竜時代後半である中期ジュラ紀から前期白亜紀の地層は、手取層群と呼ばれる。この手取層群は、日本列島がユーラシア大陸の一部だった頃、海や湖などにたまった地層であり、手取層群から発見される化石は、中国や朝鮮半島から見つかるものと共通するものがある。   (「氷室俳句会」主宰)