『幸雨』連載10-12 2019年10月-12月

ジオパーク吟行案内(一〇)

  隠岐ユネスコ世界ジオパーク(4)

                   尾池和夫

 

 

隠岐島前は三つの有人島と多くの無人島からなる。有人の三つの島は、約五〇〇万年前に海底火山の噴火で隆起した後に、カルデラ化した外輪山の名残である。

カルデラとは、火山の活動による凹地のことで、「釜」を表すスペイン語に由来する。元は、カルデラの仕組みが研究されたカナリア諸島の現地の言葉である。

島前の最高峰である焼火山(たくひやま)は、西ノ島町にある、標高四五一・七メートルの山で、島前の火山活動の末期にカルデラ内に噴火した火山で、中央火口丘と焼火神社が見所である。山頂近くにある焼火神社は国の重要文化財で、古くから航海安全の神としての信仰を集めた。神社の篝火が灯台の役目を果たして、船乗りの目印となったためであろう。安藤広重や葛飾北斎などの版画「諸国百景」には、隠岐国の名所として焼火権現が描かれている。
 島前には空港がない。空路での訪問は、島後の隠岐空港、米子鬼太郎空港、あるいは出雲縁結び空港が最寄りの空港である。海路は、前回述べた西郷港からの船か、本土の七類港および境港からのフェリーと高速船である。

島前三島間の往来は、隠岐観光が島前内航船としてフェリーと高速船をそれぞれ一隻ずつ就航させている。それぞれに船旅の工夫があって楽しい。島内の交通は、西ノ島の町営バス、中ノ島の隠岐海士交通が、それぞれ路線バスの営業を行っている。知夫里島には路線バスはない。

島前の高等学校は、中ノ島の海士町にある島根県立隠岐島前高等学校のみである。中学生は大半が同校へ進学するが、この学校は廃校の危機にあった。しかし今では、全生徒数が八九人から八年間で二倍近く一八〇人に増えたという離島の学校として知られている。増加を支えるのは全国から集まる島外の生徒たちで、自立的な学習、「夢ゼミ」という実践探求の場、生徒が自主的に運営する寮生活、海外研修などが魅力になって生徒が集まっている。

海士町の菱浦港から東へ廻った場所にある、明屋海岸の崖を構成する赤い岩は、熔岩のしぶきが積もったもので、スコリアと呼ばれる。ここから流れた熔岩で中ノ島北部の低地ができた。海士町には島前で最も広い平野があり、名水百選に選ばれた湧き水にも恵まれる。保々見の「天川の水」で、奈良時代に行基が名づけた。日量四〇〇トンの湧水で、枯れたことがない。農業用水として利用される。

また海士町は海産物の宝庫で、平城京跡からは海士町の 干し鮑が献上されたという木簡が発掘された。海士町のブランド岩牡蠣「春香」は三月から五月の牡蠣である。生食用として出荷できる清浄な海域で育てられる。

海士町後鳥羽院資料館には、隠岐に流されて崩御された後鳥羽天皇に関する資料が展示され、島内の遺跡で出土した資料も展示されている。後醍醐天皇は隠岐神社の祭神であり、上陸したときの御腰掛岩、御在所跡、火葬塚がある。

 

 

 

隠岐知夫里島の赤壁(せきへき)

 

西ノ島の西ノ島町は、ダイナミックな自然景観が印象的で、火山島であったことから地形の起伏が激しく、海岸には奇岩や怪礁が連なる。西ノ島の玄関口は別府港で、岸壁からは島前内航船や国賀海岸遊覧船が発着し、ターミナルの二階にジオパークコーナーがある。

 

島前の火山活動が始まる直前の約七〇〇万年前ごろ、地下でのマグマの活動でできた岩石が、大山の石英閃長岩とホルンフェルスである。周りにはマグマの熱で焼かれた岩石が見られる。

国賀海岸の通天橋は、日本海の荒波による浸食が作り出した岩のアーチである。元は海蝕洞の入口であったのが、洞窟の奥の部分が地すべりで崩れて入口が残った。赤尾展望所から国賀海岸を一望する。島前火山の北西にあたり、日本海の波と大陸からの風による浸食をまともに受けてできた雄大な景観である。国賀海岸の摩天崖は、落差二五七メートル、日本有数の海蝕崖で、冬には常に吹き付ける強い風と波がある。崖の面を見ると、黒灰色の層と黒みがかった赤色の層が何層にも積み重なっている。この地層が、噴火の繰り返しによって大地が作られたことを示している。

西ノ島南西の鬼舞展望台では、島前カルデラの外輪山から、荒々しい外海と穏やかな内海の対比を見ることができる。近くには、牧畑の名残である石垣(アイガキ)が残っており、牛馬の放牧地となっている。

知夫里島(ちぶりじま)には知夫村がある。隠岐諸島で最も小さいが、昔は本土と往来する船が必ず寄港したほどの要港であった。日本の火山の中では古い年代の地層で覆われた赤禿山は、標高三二五メートルで、そこから島根半島、島前、島後の景色がパノラマで見られる。

赤壁の火砕丘は小さな火山の断面で、赤い岩は熔岩の鉄分が高温のまま空気に触れて酸化してできたものである。

            (「氷室俳句会」主宰)

 

 

ジオパーク吟行案内(一一)

 

室戸ユネスコ世界ジオパーク(1)
                   尾池 和夫

 

室戸岬には弘法大師がこもった海蝕洞がある。御厨人窟(みくろど)と呼ばれる。御蔵洞とも表記される。洞の内部から外を見ると、洞が空を切り取った形が、少し右に傾いたピカチュウに見える。この海蝕洞で弘法大師は修行し、悟りを開いた。彼がこの御厨人窟から出たときには、目の前に拡がる空と海しか見えなかったというが、現在そこに立つと空は見えるが海は見えず、海面から高い位置にある。

御厨人窟は四国八十八箇所の第二四番札所、室戸山明星院最御崎寺(ほつみさきじ)の近くにあり、番外札所である。隣接して海蝕洞の神明窟(しんめいくつ)がある。

平安時代の初期、青年弘法大師がこの洞窟に居住した。また、神明窟では難行を積んだと伝えられる。行の最中に明星が口に飛び込んで来て、その時に悟りが開けた。

御厨人窟と神明窟は、国道五五号沿いの室戸岬東側に位置する隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車場所は、波食台であり、洞窟上部の崖は海食崖である。二つの洞それぞれに祠が祀られており、御厨人窟には五所神社(祭神は大国主命)、神明窟には神明宮(祭神は大日孁貴)である。洞窟の中で聞く豪快な波の音「室戸岬・御厨人窟の波音」が環境省の「日本の音風景一〇〇選」に選定されている。

海蝕の進行で落石が頻繁にあり、神明窟も御厨人窟も封鎖されていたが、室戸市への要望が強く、洞窟の入口に鉄製防護屋根が設置されて、二〇一九年四月末から入洞できるようになった。木柵内に入るのは自己責任でヘルメット着用(納経所で貸し出しもある)が必須である。

海蝕洞の岩盤には多くの亀裂があり、天盤からは水滴が滴り落ちる。約一五〇〇万年前ないし七〇〇万年前、マグマが地下深部で冷え固まった斑糲岩が、プレート運動で隆起した後、荒波で削られて断崖になり、そこに海食洞ができた。斑糲岩は緻密であるが、亀裂が発達して岩はもろくなっている。

二つの洞窟は現在海面から一〇メートルほどの位置にある。室戸岬は普段はゆっくりと沈降し、南海トラフの巨大地震とともに隆起する。東北の巨大地震では三陸全域の土地が沈んだが、仙台の沖の海底は隆起した。西南日本ではその隆起する部分にも室戸岬などの陸地がある。

室戸岬の海岸近くには何千年も前に生息し付着した年代が異なるヤッコカンザシの巣穴がある。ヤッコカンザシは潮間帯にしか生息しないので、大地が隆起を繰り返した身近な証拠として観察できる。また、それらから大地の隆起速度が計算できる。

さらに潅頂ケ浜へ降りて行くと、一六〇〇万年前の深海のタービダイト(乱泥流)の地層がある。巨大地震で砂や泥が一挙に海底の斜面を流れ下った跡が固結した地層になっており、その繰り返しの地層が隆起している。ここで出会う地層は、室戸岬全体の隆起運動によって、ほぼ直角に回転した姿である。

室戸岬からは、水平線から昇る朝日も、また水平線に沈む夕陽も見ることができる。タービダイトの地層に座って、水平線に接する瞬間の「だるま夕陽」を見る。日が沈むと宿に移って、土佐の酒と室戸の海の幸である。海底の地形を物語る名物はいろいろあるが、例えば金目鯛である。

 

室戸岬から西へ段丘の台地

写真提供:RKCプロダクション

 

ジオパークの楽しみ方を私は「見る。食べる。学ぶ」と唱えて来たが、室戸岬の「食べる」を紹介する。
 ある年、「むろとまるごと産業まつり」の一環で、「秋の味覚でおもてなし」という行事が、室戸世界ジオパークセンターの駐車場で行われた。そこでの主役は甘藷であった。甘藷の産地は西山台地である。それを土佐備長炭で焼く。このとき限定二〇〇個という宣伝だったが、実は四〇〇個以上あり、たいへん好評だった。この西山台地は、室戸岬の見事な隆起海岸段丘地形が並ぶ段丘面の一つである。現在の海抜は一〇〇ないし二七〇メートルで、今から三〇万年前には海面下であった。この台地の下にある海岸近くの平らな部分は約一万年前の波食台である。このような見事な大地は、室戸岬の灯台のある大地から西へ、崎山台地、西山台地、枦山台地と並んでいる。
 吉良川漁協では、太平洋の大海原に浮かぶ筏で釣りを楽しむ企画がある。沖合に固定された遊漁用の筏に連れて行ってくれる。

 

地産地消で食を楽しむことをテーマとした体験プランで室戸の恵みを感じる場所の一つが海の駅「とろむ」である。くじらはまにあり、海の幸を堪能できる海の駅である。採れたての魚介や野菜の販売があり、鰹のたたきづくりを体験することができる。自分で仕上げた鰹のたたきはおいしい。

道の駅「キラメッセ室戸」では、産直市場「楽市」がある。野菜や魚介類など、旬の食材をたくさん取り扱っており、採れたての海産物や野菜が毎日入荷する。それを買い込んで、バーベキューを楽しむ。それに使うのは土佐備長炭である。他の炭との違いを実感できる。ニューサンパレスむろとでは器材の貸出がある。 (「氷室俳句会」主宰)

 

ジオパーク吟行案内(一二)

 

室戸ユネスコ世界ジオパーク(2)
                   尾池 和夫

 

 

 

 

 室戸岬の「食べる」である。高知と言えば鰹のたたき、室戸では鰹を自分でさばいて藁で焼いて食べる「焼きたて絶品カツオたたき」の体験コースがある。さばき方、あぶり方、盛り付けまで丁寧に教えてくれる。鰹は高知の漁師が釣り上げた鰹で、食べる時間も含めて約六〇分、昼食を兼ねて手頃である。天候によって生の鰹が使えない場合には冷凍した戻り鰹を使用する。長靴やエプロンなどは用意してくれるが、包丁を扱うので細心の注意が必要である。

地場どれ新鮮市場「くじらはま」には、朝どれの新鮮な野菜や地場産品が並ぶ。旬の食材の食べ方や調理法などに発見がある。キャンプのための木炭も調達できる。

食べるだけの人には、「ぢばうま八」のメニューがあり、朝どれの魚と野菜で昼食を楽しむ。鰹のたたきは「厚切りの丼」がいい。鯨や翻車魚の料理が珍しい。鯨は竜田揚げで、しゃきしゃきのキャベツを付ける。「ちりめん丼」もいいが、「豪華三食盛り合わせ」の丼がある。また、高知の特産、うつぼの唐揚げを付け合わせることを勧める。

何と言っても絶品は金目鯛の煮付けである。室戸では、昔から鯨漁が盛んだったが、その後、遠洋鮪に主軸が移り、さらに資源保護のための縮小によって、沿岸漁業に移った。目鯛を捕っていたとき金目鯛が掛かっていた。最初は無視していた漁師が、食べてみたらすごく美味しいというので金目鯛の漁に移った。今は室戸と言えば金目鯛である。

室戸の金目鯛の特長は、室戸岬東沖の海底地形のおかげである。西日本一の漁獲量、日戻り漁による鮮度で真鯛より高価である。刺身もいいが、煮付けが最高である。

大正一四年創業という料亭花月の鯨料理が人気である。ミンク、ニタリ、イワシ、ナガス鯨を使った煮付け、たたき、さえずりと尾の身の刺身、竜田揚げなどが美味しい。花月の南の眼下に室津港がある。「花月丸」が四季を通して魚を釣る。船底のカンコと呼ばれる生け簀に入れて持ち帰り、店内の生け簀に移す。花月丸で釣った魚は、真鯛、チダイ、イサキ、ウメイロ、チイキ、カンパチ、ヒラマサ、ハマチ、鯖、鰺、石鯛、石垣鯛、クエ、かさご、シマアジ、アカボ、タカサゴ、メイチ、ヒメイチ、メンドリ、ケンサキイカ、アオリイカなどである。

室戸は土佐捕鯨発祥の地である。鯨資料館では、室戸と鯨の歴史を学ぶ。体感型資料館で、古式捕鯨絵図を デジタル化して捕鯨の様子を見せる。パノラマの勢子舟乗船VR体験もできる。船上でセットを装着すると、パノラマで目の前にクジラが現れる。この鯨館にある歴史年表には、山内家が尾張から招いた尾池組の歴史も登場する。

食材もさることながら、豊富な食材を焼く備長炭のことを紹介したい。吉良川は備長炭で繁栄した地域である。国道から山側に数キロ行くと炭焼きの匂いがする。

 

左のだるま夕日を、右の砂岩泥岩互層の上で待った。写真は筆者による。

 

 

高知で備長炭が生産されるようになって約一〇〇年である。土佐備長炭は、温暖な地方の海岸部から山の斜面に生えている馬目樫を炭材として使用する。窯出しは二週間、長い時は一日十数時間かけて行う。堅くしまってひび割れが少なく、斧などで切断すると断面が甲殻状で、叩くと澄んだ金属音がする。二〇一四年、備長炭の生産で五一年ぶりに高知県が一位になった。

 

数年前になるが、旅行会社の方たちと新しい旅行の形を議論しながら、私は室戸岬を訪れた。ジオパークガイドを土佐弁で行う和田美紗子さんの案内で、鯨資料館の二階にあるジオパーク・ギャラリーで海底地形を見ながら、巨大地震を繰り返す地域の未来の地形を予測した。

備長炭で栄えた吉良川の町並を歩いて、白壁に多層の水切り屋根がある民家を見た。津呂山(標高二五八メートル)の展望台からは、「地球が丸いがが実感できるが」と和田さんの土佐弁を聴いた。日の入りに合わせて岬の先端へ下り、和田さんが運んできたお茶で暖まりながら日没を待った。昔、巨大地震による乱泥流でできた砂岩と、地震と地震の間の堆積でできた泥岩との互層が、地殻変動で鉛直に立ち上がって陸上に現れた荒磯に登って待つ。一六時四五分、太陽が海に接する直前、だるま形になった。その夜、夕日に乾杯し金目鯛や鰹のたたきと清酒土佐鶴で議論が弾んだ。

着地型の旅行企画を課題とする旅行で、専門用語を用いない説明で現地を体験しつつ理解し、しかも科学的に正しい知識を得るという旅を、生涯学習の時代に合わせる旅行商品にしようというのが、この時の課題であった。

 室戸市は人口約一万三千、二〇一九年に市制六〇周年を迎えた。市長の植田壯一郎さんは、室戸のジオパークを推進してきた中心人物の一人である。「室戸は遠い」という地理的条件を越えて、人が「住みたい」と思う室戸市を目指し、活気溢れる室戸市を牽引する。(「氷室俳句会」主宰)