『幸雨』連載4-6 2019年4月-6月

ジオパーク吟行案内(四)

  糸魚川ユネスコ世界ジオパーク(1)
                   尾池和夫

 

 伊豆半島は、本州にもっとも新しく加わった大地であるが、逆にもっとも古い部分は日本海側にある。フィリピン海プレートに伊豆半島が運ばれて来て本州にくっつき始めたのは今からざっと一〇〇万年くらい前で、四六億年の地球の歴史から見ると、五〇〇〇分の一くらいの短い歴史である。日本海が完成したのは一六〇〇万年前であるから、伊豆半島の歴史よりはかなり古い。

 伊豆半島に対比して日本海側のジオパークを紹介したい。たくさんあるが、まずはジオパーク活動の草分けと言える糸魚川ユネスコ世界ジオパークである。

二〇一九年一月五日から、「究極の糸魚川翡翠を新たに展示!」というキャッチフレーズとともに糸魚川市のフォッサマグナミュージアムで「翡翠展」という特別展が開催され、糸魚川の最上質のヒスイで作られたペンダントと指輪が展示された。これは、糸魚川市内在住の井合作蔵さん所蔵で、二〇一六年一二月の糸魚川駅北大火に見舞われたときにも無事だったものである。二〇〇四年、東京上野の国立科学博物館で開かれた「東洋の至宝翡翠展」以来の一般公開だった。

糸魚川ジオパークのあゆみを簡単に紹介する。一九八七年、「フォッサマグナと地域開発構想」が策定されて、翡翠やフォッサマグナなど、特徴的な地質資源を地域振興に活用することが決まった。その構想をまとめた冊子の表紙が、糸魚川―静岡構造線の断層露頭の写真であった。次いで一九九〇年、この断層露頭が整備され、これを見学するための糸魚川市内の見学地を「ジオパーク」と呼ぶことが決まった。この「ジオパーク」という言葉が、世界に先駆けて新しく生まれた言葉であった。

一市二町が合併して生まれた新しい糸魚川市で、二〇〇七年、世界ジオパークを目ざす意思表明がなされ、二〇〇八年の日本ジオパーク委員会の発足を迎えた。そして、糸魚川、洞爺湖有珠山、アポイ岳、南アルプス、山陰海岸、室戸、島原半島が日本ジオパークに、はじめて認定されたのである。二〇〇九年には日本で最初の世界ジオパークとなった。その後も、糸魚川ジオパークの活動は地元の方々の努力で発展を続け、二〇一八年には、ユネスコ世界ジオ パークの四年ごとに審査にも合格している。

地質や文化や歴史を学ぶ場所を「ジオサイト」と呼ぶが、糸魚川市内には、このジオサイトが二四か所指定されている。それらは、さらに、ヒスイに関係のあるジオサイト、糸魚川―静岡構造線とフォッサマグナに関係するジオサイト、山間地のジオサイトの三つのグループに分けられている。

 

親不知の断崖と日本海の荒波

ヒスイに関係するジオサイトの旅は、芭蕉ゆかりの市振海岸から始まる。今から約一億年前、地球の歴史では中生代白亜紀の頃の火山活動で生まれた岩石が、糸魚川の海岸にある。実は糸魚川という名の川は存在しなくて、山から土石を運んでくるのは姫川という川である。海岸には海に迫る山々から流出したさまざまな岩石がある。

 

北陸道の市振宿の東のはずれにあった海道の松は、高さは約二〇メートル、樹齢約二三〇年といわれており、親不知の難所の目印であったが、二〇一六年一〇月六日の夜、台風一八号の強風で倒れた。

芭蕉が泊まった桔梗屋があった場所も重要なジオサイトであり、芭蕉の句碑が市振の長円寺にある。糸魚川出身の文人である相馬御風の書である。宿そのものは一九一四年の大火で消失した。

玉ノ木地すべりの跡では、一九八五年二月一五日の夕方に発生した大規模な地すべりで、一〇人の命が失われたことを学ぶ。関所の碑と関所榎がある。関所は一六二四(寛永元)年頃に、幕府の命令で設けられた。通行検問の他、海上監視の遠見番があった。関所は明治二年に廃止されたが、目印の榎は、市振小学校の校庭の真ん中に今も残っている。

親不知海岸の断崖は難所で知られる。各時代の異なる四つの道路の模型で、崖に道を切り開いた苦労をしのび、親不知レンガトンネル、勝山城址から難所の断崖を見る。栂海新道起点から一気に標高二四一八メートルの朝日岳へ昇る登山道では、海岸から高山帯までの植物の移り変わりを見ながら、さまざまな高山植物に出会うことができる。

 

 

ジオパーク吟行案内(五)

  糸魚川ユネスコ世界ジオパーク(2)
                   尾池和夫

 

青海海岸は、姫川と青海川の間にある海岸で、この二つの川が、ヒスイなどを運んでくる。台風の跡などには海の深い場所から石が巻き上げられて海岸に打ち上げられるから、多くの人びとが下向いて海岸を歩く。

寺地遺跡は、縄文時代中期から晩期の集落跡で、ヒスイの玉作りの様子をうかがうことができる。ヒスイ原石や玉類の未製品などが出土し、ヒスイ工房も確認された。ラベンダービーチは、ラベンダー色のヒスイが見つかることからこの名が付けられた。石を見つける絶好の場所である。田海ヶ池(とうみがいけ)は、中心に湧き水があり、水生植物の種類が豊富で、およそ四八種類のトンボが確認されたことがある。

糸魚川海岸は、ヒスイ海岸の愛称を持つ。展望台からは夕日を見る。水平線の左に能登、右に佐渡を見る。振り返ると北アルプスの山々が見える。天津神社は通称「一の宮」は地元の神で、奴奈川姫を祀る本殿「奴奈川神社」と並んでいる。重要無形民俗文化財の舞楽がある。奴奈川姫はヒスイをめぐって出雲の大国主命と結ばれた。

青海川ヒスイ峡へ行くと、天然記念物指定範囲の上流側から見学できる。河床に降りるとヒスイ原石を見ることができる。指定範囲で岩石の採取は法律で禁止されている。急な増水と熊にも注意が必要である。青海川流域には、ヒスイ、高圧型変成岩(結晶片岩)、蛇紋岩、稀産鉱物がある。約五億年から約二億年前のプレート沈み込み帯深部で起こった地質現象を知る手がかりである。ヒスイの色、変成岩のしま模様の変化、青海石、奴奈川石、糸魚川石などの新鉱物の存在から地球の歴史を知る。

ヒスイの原石は盗掘にあう。穴のある原石が博物館などへ運ばれて保護されている。

金山谷をさかのぼると、青海石、奴奈川石を含む世界唯一の特殊なアルビタイト(曹長岩)がある。この岩石には、リューコスフェン石、ベニト石、ストロンチウム燐灰石が含まれ、日本ではここ以外では発見されていない。また、青海川からは、上流の金鉱床(橋立金山)から流れてきた砂金を探すことができる。

小滝川ヒスイ峡は、国の天然記念物「小滝川硬玉産地」である。一九三九年に確認された日本最初のヒスイ産地である。このヒスイの発見は、考古学や宝石学の分野へ大きな影響を与えた。昭和初期までは、日本の遺跡から見つかるヒスイも外国産だと考えられていたのが、日本各地の遺 跡から出土するヒスイの由来を決定した、たいへん重要な発見であった。

 

 

青海川ヒスイ峡ジオサイト

写真提供:糸魚川ジオパーク協議会

 

 

明星山は、約三億年前の珊瑚礁が移動してきた石灰岩の山である。小滝川ヒスイ峡にそそり立つ南壁は、小滝川から約四五〇メートルの高さがあり、上級者向けのロッククライミングの名所である。明星山には、新種のカタツムリで、絶滅危惧種でもあるムラヤママイマイや、風雪に耐えた樹皮で盆栽として人気のある真柏「ミヤマビャクシン」が見られる。岸壁と清流と植物の四季の変化が、この場所の大きな魅力である。

 

赤禿山の地すべりで生じた高浪の池には「浪太郎」と呼ばれる巨大魚が住んでいると伝えられている。池の後にある小滝炭鉱跡は、明治時代から一九五一年まで石炭の採掘が断続的に行われていた。坑口や選炭所の跡が残っている。

小滝川支流の土倉沢には黒色の石灰岩があり、この石は約三億年前の海底の珊瑚礁で、さまざまな化石が発見されており、二〇〇四年には日本最古級の鮫の歯の化石が発見された。

野外から移動してフォッサマグナミュージアムを訪れてみよう。一九九四年に開館した石の博物館である。常設展示室で、ヒスイや日本列島が誕生した際の大地の裂け目「フォッサマグナ」などを中心に学ぶことができる。博物館ではヒスイだけでなく、手のひら以下の石の鑑定もしてくれるが、人気で年一万人を越えており、学芸員の業務との両立が難しいというが、海岸でやっと見つけた石を手に、学芸員に鑑定してもらうことの楽しみを体験できるよう、ぜひ続けてほしいと私は願っている。

日本の「国石」が二〇一六年、日本鉱物科学会の総会で投票が行われ、糸魚川のヒスイに決まった。糸魚川のヒスイは約五億二〇〇〇万年前にできた、世界最古のヒスイと言われている。また、糸魚川では五五〇〇年前の縄文時代にヒスイの大珠やまが玉などの装飾品が加工されていた。これが世界最古のヒスイ文化だと言われている。ヒスイには希少鉱物が含まれており、ヒスイを含む岩石から、糸魚川石、蓮華石、松原石などの新鉱物が発見されている。

 

 

ジオパーク吟行案内(六)

  糸魚川ユネスコ世界ジオパーク(3)
                   尾池和夫

 

 糸魚川には地球を覆う大陸プレートの中でも最大級の二大プレートが出会い、押し合っている場所がある。糸魚川-静岡構造線である。ほぼ南北に走るその構造線が西の境界線をなす地域をフォッサマグナと呼ぶ。

 日本列島は、今から一六〇〇万年前に、ユーラシア大陸の西から別れた。日本海の拡大によって今の位置に来た後、東北日本と西南日本が東西に離れて、その間に海底の分厚い堆積層が発達した。

その後、太平洋プレートに押されて二つの島は接近し、海の堆積層を圧縮して押し上げた。それが今のフォッサマグナ地域の山地である。フォッサマグナ(Fossa magna)は、地質学では東北日本と西南日本の境となる大地溝帯と説明されるが、見た目には高い山地である。西の境が糸魚川-静岡構造線であり、東縁は諸説あって明瞭ではない。

糸魚川-静岡構造線の東を東北日本、西を西南日本と呼ぶ。西南日本の飛騨山脈は大部分が五億五〇〇〇万年前から六五〇〇万年前の地層である。東側の北部フォッサマグナにあたる上越の頸城(くびき)山塊付近は、大部分が二五〇〇万年前以降の堆積物や火山噴出物である。この大規模な構造の差は、通常の断層運動などでは起こらない。地球規模の大地殻変動があったことを意味している。

フォッサマグナの地層が褶曲していることは、アルフレッド・ウェゲナーの『大陸と海洋の起源』において、陸地の分裂と衝突の証拠として紹介されている。一方、名付け親のナウマンは、フォッサマグナは、伊豆地塊が日本に接近して日本列島が割れた「裂け目」と説明した。原田豊吉は富士火山帯説を唱えて激しい論争となった。

北部フォッサマグナでは、第三紀層の褶曲でできた丘陵地形が際立ち、上越地方などでは、なだらかな丘の並びに見える。この褶曲構造の地下に天然ガスや石油が埋蔵されている。フォッサマグナ南部には、フィリピン海プレートに運ばれて来て衝突した丹沢山地などの地塊が含まれる。

フォッサマグナの中央部を南北に火山列が並ぶ。新潟焼山、妙高山、草津白根山、浅間山、八ヶ岳、富士山、箱根山などである。フォッサマグナの圧縮による断層にマグマが貫入して貯まっている。

 以上が、長い物語を短くした糸魚川-静岡構造線の予備知識である。糸魚川ジオパークのガイドさんたちは、この物語を理解して、さまざまな工夫をしながら構造線の説明をすることになる。

 

マグニチュード4以上、21世紀初めから2019年2月までの地震分布。赤色は浅い地震、緑色は深い地震。北極は図の上端に相当する。

 

 

 地球儀を北極側から見ると、大西洋、北アメリカ大陸、太平洋、ユーラシア大陸がある。陸の二大プレートの境は、アイスランドを含む大西洋の中央部を南北に走る細長い海嶺となっている。そこで二大プレートは離れていくように動き、細長い浅い地震の分布ができる(図の左側)。つまり北極側から見て、北アメリカプレートは時計回りに、ユーラシアプレートは反時計回りに廻るように移動している。その境界線は北極圏を通り、北海道の西側を南下して、新潟沖から富山湾、そして糸魚川-静岡構造線へとつながる。そこでは二大プレートは押し合っていることになる。大西洋の海嶺では中規模の浅い地震が東西に引っ張る力で発生する。東北日本の西側の境界では、新潟地震などの大規模地震が東西に圧縮する力で発生している。境界線は続いているが、引っ張りから圧縮に変わる東シベリアあたりでは、力が働かないので地震がなく、境界線が不明瞭である。

 

以上の予備知識をもとにして、いよいよ、二大プレートが出会って押し合っている現場のジオサイトを見学する。

フォッサマグナパークでは、断層露頭が見られる。糸魚川-静岡構造線を人工的に露出させた公園であり、断層破砕帯をはさんで二大プレートを見ることができる。二〇一八年八月にリニューアルして公開した。断層を境にして、向かって左側が西南日本の地塊、つまりユーラシアプレートの端、右側が東北日本の地塊、つまり北アメリカプレートの端である。

構造線に沿って塩の道がある。地すべりや地形の凹地があり、なだらかな低地ができた。この低地を結んで、塩の道ができた。越後から海産物が、信州から煙草や穀類が運ばれた。関所跡や茶屋跡、歩荷宿跡などが見られる。

上杉謙信から武田信玄への「義塩の故事」がある。その古道として知られる塩の道の、糸魚川市山口から白池までの約二・七キロが国の史跡に指定されている。当時の道はよく保存されており、道標、石仏、茶屋は「風景街道」にも登録されている。途中に車石と呼ばれている日本最大級、直径約一二メートルの枕状溶岩がある。塩の道の南部は豪雪地帯で、冬期には見学ができない。