『幸雨』連載1-3 2019年1月-3月

ジオパーク吟行案内(一)

日本のジオパーク

                     尾池和夫

 

 ジオパークとは、大地の仕組みを学ぶ公園であり、大地に支えられて暮らしている人々とともに、その地域の大地の仕組みを愉しみながら学ぶ場所である。日本列島は、中緯度にあって、四季折々の自然の移ろいにしたがった暮らしが歴史の中で整ってきた。そのような自然と生活に感動しながら歳時記が編集され、名句が生まれた。

大地の恩恵を、意識するか意識しないかにかかわらず、地域の歴史は大地の仕組みに影響を受け、大地の仕組みによって築きあげられてきた。そのことを、ジオパークになることによって、その地域の人々自身があらためて深く認識し、暮らしや歴史を示しながら具体的に大地の恩恵を語り伝えることが出来るようになる。地域の人々自身がガイドになって、そこを訪れた人々と一緒に愉しむとき、ジオパークの役割が生きてくる。

二〇〇八年、日本ジオパーク委員会が発足し、日本のジオパーク申請を審査する制度が出来て以来、ジオパークを育てる活動が地道に行われ、二〇一八年九月二〇日現在、四四か所の日本のジオパークが生まれた。その中に、ユネスコ世界ジオパークと認定された地域が九か所、日本ジオパークと認定された地域が三五か所ある(●のページ参照)。

広辞苑第七版に「ジオパーク」の見出しが登場したことは、この仕事を進めてきた私にとってうれしいことの一つであった。自分の取り組んできた仕事が新しく辞書に載るということは滅多にない。

さっそく新しい辞書を読んで、少しがっかりした。説明を訂正したいのである。広辞苑では「(geologyとparkとの合成語)地質学的に重要で景観に優れた地形を有する地域。保全や研究・教育、観光資源としての活用を目的として、世界ジオパーク‐ネットワークが認定。国内では日本ジオパーク委員会が日本ジオパークを認定する」とあるが、ジオパークの「ジオ」は大地を司る神、「ガイア」のことであり、単に「地質学的に重要」だけではない。

日本ジオパークネットワークのウェブサイトからジオパークの説明を引用しておくと、「ジオパークとは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合

わせた言葉で、「大地の公園」を意味し、地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所をいいます」とあり、さらに「大地(ジオ)の上に広がる、動植物や生態系(エコ)の中で、私たち人(ヒト)は生活し、文化や産業などを築き、歴史を育んでいます」と続く。山や川の成り立ちと仕組みを知れば、年月をかけてつくられてきた地球の活動なしに私たちの暮らしはないということがわかる。

それぞれのジオパークでは、これぞ見どころという場所を「ジオサイト」に指定してあり、地域の魅力を知り、利用できるよう、それを保護する活動を行っている。

訪問するときには前もって地域のジオパーク協議会に連絡し、ガイドを頼んでほしい。それによって今まで気づかなかった大地の営みや自然を、さらに深く愉しめることになる。また、言うまでもないが、環境の改変につながる動植物や岩石の採取や破壊は厳に慎んでほしい。他の地域産の岩石や鉱物、化石類を販売する行為も、ジオパーク活動では認められていない。

ユネスコ世界ジオパークは、第三八回ユネスコ総会で正式事業化が決定され、ユネスコの国際地質科学ジオパーク計画(IGGP)の一事業として実施されており、二〇一七年五月現在、三五か国、一二七地域が認定されている。

日本ジオパーク委員会は、ジオパークを目指す地域が、持続可能な地域社会の実現のために、その地域にあったやり方で、住民、行政、研究者などの関係者がともに考え続けているか、また、そのために、これまでのやり方を変える覚悟があるかということを、基本的な審査基準としている。

また、日本のジオパークもユネスコ世界ジオパークも、それぞれ、四年に一度の厳しい再審査を受けることによって、その質が高く保たれる仕組みになっている。そのことによって、地域の人たちが継続的に活動しているというのが大きな特長となっている。日本ジオパーク委員会が行う再認定審査では、地質遺産の保全、活用の仕組みと取り組み、前回審査時からのジオパーク活動の進展などについて審査する。これは、国際地質科学ジオパーク計画の定款とガイドラインの考え方に準拠した方針である。

ジオパークでは、地形や地質と深くかかわる暮らし、歴史、食べ物などを五感で感じ取ってほしい。私は、ジオパークの基本を「見る、食べる、学ぶ」と言い続けてきた。これに、大地を理解し、大地を見つめて、「詠む」と付け加えたいというのが、このシリーズの大きな目的である。

(おいけかずお 氷室主宰、俳人協会名誉会員、京都造形芸術大学学長、静岡県公立大学法人理事長、日本モンキーセンター理事長などを兼任。二〇一八年三月まで一〇年間日本ジオパーク委員会初代委員長を務めた。著書に『四季の地球科学』〈岩波新書〉など。句集に『大地』『瓢鮎図』〈角川書店〉)

 

 

ジオパーク吟行案内(二)

  伊豆半島ユネスコ世界ジオパーク(1)

                    尾池和夫

 

 吟行案内を書くからには、一度は自分で体験しておくことが必要だと思い、二〇一八年一〇月一四日と一五日、一泊二日の吟行会を氷室俳句会の主催で実行した。伊豆半島ユネスコ世界ジオパークの紹介を、その体験から始めたい。

 まずこの時期を選んだ最大の理由は、ジオパークの重要な要素である「食べる」ということにあった。少なくとも私の動機がそれであった。目的の食材は、九月一七日に解禁となる伊勢海老である。実際、夕食に一人一匹の伊勢海老が出てきた時には皆が歓声を上げた。この時の参加者は一八名、海老類のだめな人のため別メニューを用意したが、結果は全員伊勢海老を望んだ。さらにすすめ上手な宿の主人のおかげで二人に一個の鮑を付けることになった。

 伊勢海老と鮑を堪能して句帳を出した頃、私が伊勢海老は新年の季語、鮑は夏の季語と説明すると、皆さん句帳を閉じて、ひとしきり季語談義が続いた。

 伊豆半島では初夏に鮑や栄螺が解禁となり、秋に伊勢海老が解禁を迎える。伊勢海老は九月から翌年五月初めまで味わうことができ、とくに冬の荒波の時期が一番美味い。この期間外は産卵の時期にあたるので禁漁である。伊勢海老はおもに太平洋側にいて、三重、千葉、静岡、和歌山などの水揚げ量が多い。下田では毎年九月二〇日から一二月二〇日まで伊勢海老祭を開催する。

 この海老は、京に上がるものを伊勢海老、江戸に上がるものを鎌倉海老と呼んでいた。伊勢志摩、鎌倉でたくさん獲れたことから地名が名前に付いたが、伊勢神宮に奉納される機会が多く、全国に伊勢海老の名が知られるようになったという。

 氷室俳句会の吟行では、松崎の「御宿しんしま」に宿泊して伊勢海老を食べた。この宿を選んだ重要な理由がある。この宿の主人、佐野勇人さんが、伊豆半島ジオパーク推進協議会認定ガイドで、全国的に見ても積極的にジオパーク活動を進めている名ガイドの一人であるのが、大きな理由である。また、同時に彼は、株式会社伊豆バスを経営しており、交通機関の少ない西伊豆の旅には欠かせない貸し切りバスと組み合わせて、旅全体の設計ができるという理由もある。

 今回のコースでは、一日目、東海道新幹線三島駅北口に集合してバスに乗った。この駅は新幹線から出たらすぐバスに乗れる。三島市立公園楽寿園と韮山反射炉を、それぞれ当地のガイドの説明で見学し、修善寺道路から山を下りて西伊豆の黄金崎に着くと、ガイドの佐野さんが、夕食の下ごしらえを済ませて待ち受けていた。馬の姿の黄金崎から詳しい説明が続き、浮島(ふとう)海岸、堂ヶ島を見て宿に夕方着いた。伊勢海老と鮑、釣り客が持ち込んできた間八などの夕食の後、海鼠壁の続く松崎の街を歩いた。

 二日目は、バスで龍宮窟、サンドスキー場、了仙寺とペリーロード、白浜神社、昼食は隠れ家のような店で済ませた後、河津七滝(ななだる)というコースである。滝への道で私が椎の実を拾いながら、皆に生のまま味見してもらって時間をとったので、予定の浄蓮の滝は省略し、東京ラスク伊豆ファクトリーに立ち寄り、三島駅北口に一六時半に着いて解散した。

 今回の主役の伊勢海老のことに戻るが、伊勢海老の漁は刺し網漁である。刺し網は漁師が自分で編む。横長で細糸の網を夕暮れに設置して漁を行う。岩礁の伊勢海老の棲み家近くで、海老の群が移動する道筋を予想して網を張り、翌朝未明に引き上げる。大漁はいいが、伊勢海老を刺し網から外す作業はたいへんである。満月の時には漁を行わない。月明かりの中では海老に網が見えるのである。

 伊勢海老の食べ方はいろいろである。鬼殻焼、伊勢海老天丼、活け造りなどがある。「いけんだ煮」は、須崎地区の郷土料理で、煮え立つ鍋の中に伊勢海老、金目鯛などの磯ものをたっぷり入れる。「やわらか伊勢海老の唐揚」は、脱皮直後の柔らかい伊勢海老の唐揚を殻ごと食べる数量限定メニューである。今回の吟行では、伊勢海老を夜は刺身で、翌朝の味噌汁には殻の頭が碗からはみ出しているという食べ方であった。

写真説明)黄金崎(別名「馬ロック」)。地熱地帯の温泉水によって岩石が変質し、夕陽に黄金色に輝く。晴れると遠く富士山が見える。佐野重長撮影

 

 

ジオパーク吟行案内(三)

  伊豆半島ユネスコ世界ジオパーク(2)

                    尾池和夫

 

 伊豆半島ユネスコ世界ジオパークは、「南から来た火山の贈りもの」という惹句を掲げている。そのような伊豆半島の自然と、そこに住む人々とのつながりを愉しむことのできるジオパークである。

 二〇一四年九月、日本ジオパークネットワークのメンバーとして伊豆半島地域が認定され、さらにユネスコ世界ジオパークの仲間入りを目指して粘り強く活動して、二〇一八年四月、ユネスコによって世界ジオパークネットワークの一員として認定された。

 伊豆半島ジオガイド協会は、個人や団体にジオツアーの情報を提供し、ガイドを必要とする方々にガイドを紹介する。この協会は伊豆市修善寺の修善寺総合会館ジオリア内にあり、休館日の水曜日でもファックスや電子メールで問い合わせができる。ジオリアにはさまざまな展示もあり資料も置いてあって、伊豆半島の全体を把握できるようになっている。

 日本列島の本州島は東北日本と西南日本の構造の合体である。東北日本は北アメリカプレートの端に属し、西南日本はユーラシアプレートの端に属している。これらのプレートは二つの大きな陸のプレートである。それらが出会う境界線が本州を南北に横断しており、糸魚川―静岡構造線と呼ばれる大規模な継ぎ目となっている。

 しかし、伊豆半島だけは、これら二つの陸のプレートには属さず、フィリピン海プレートに乗っている地塊である。はるか南にあった火山の島々や海底火山などが、フィリピン海プレートの北上に伴って、火山活動を繰り返しながらやってきて、本州に次々と衝突した。そして現在のように、本州島の一部となったのである。

 伊豆半島の全体で、今でも火山活動や地殻変動が続いている。それがたくさんの温泉を生み、美しい駿河湾や変化に富んだ陸の地形を生み出している。さまざまな地質時代の、さまざまな大地の営みを、伊豆半島ジオパークのあちらこちらで学びながら、その恵みを愉しむことができる。この多様な大地の地質や地形の構造が、このジオパークの大きな見所である。それが、繰り返し訪問しても新しい内容に触れることができるという魅力であり、その案内役がジオガイドである。

 フィリピン海プレートの北端は、本州島の下へ沈み込んでおり、この沈み込みの場所が、南海トラフや駿河トラフと呼ばれ、そこに東海地震や南海地震という巨大地震が繰り返し起こっている。伊豆半島はそのフィリピン海プレートに乗っているが、多数の火山によって暖められて軽くなっており、本州の下に沈み込むことができない。その結果、この半島は本州に衝突して、本州を水平方向に北へ強く押すことになり、丹沢山地や富士川ぞいの地層を、その圧縮によって激しく褶曲させ、赤石山地を隆起させたりしているのである。

 

城ヶ崎海岸が波によってポットホールになり、球が残って伊東市の天然記念物になった。

 伊豆半島での火山活動の歴史を少したどることとしたい。九万年前以降、伊豆半島東部のいたるところで火山噴火がおきていた。今の河津町の鉢ノ山や登り尾南火山が噴火し、河津七滝(ななだる)を造った熔岩流が噴出した。東伊豆町では堰口火山が噴火し、熔岩流が白田川に流れ込み、火山礫が熱川の台地を厚くおおった。天城湯ヶ島町では鉢窪山や丸山が噴火し、そこから流れ出た熔岩流が狩野川に流れ込んで浄蓮の滝がつくられた。このように噴火の歴史は続く。

 

 五〇〇〇年前には大室山が噴火し、五億一〇〇〇万トンの熔岩が流出した。この熔岩流がつくった台地が現在伊豆高原と呼ばれている場所である。この熔岩流は海に流れ込み、現在の城ヶ崎海岸をつくった。三二〇〇年前には、天城山の山頂付近で爆発的な激しい噴火が始まり、広い範囲に軽石の雨を降らせ、何回も火砕流が発生した。二七〇〇年前、天城山の北東斜面で噴火が始まり火山列ができた。

 そしてこの後、およそ二七〇〇年の間、伊豆半島は静かであった。そこに住む人々は伊豆での噴火を体験することなく過ごし、火山のもたらす恩恵を愉しんでいた。一九八九年、手石海丘の噴火があり、伊豆東部火山群が活火山であることが再認識された。手石海丘の噴火は、伊東沖の群発地震活動や伊豆東部の地殻の異常隆起現象と密接に関連していることが知られている。

 伊豆半島は火山地帯であるばかりでなく、たくさんの活断層が分布しており、活発な地震活動や地殻変動が見られる場所である。一九七四年伊豆半島沖地震、一九七八年伊豆大島近海地震、一九八〇年伊豆東方沖地震など、被害をもたらす地震も起きた。

 

 

ジオパーク吟行案内(三)

  伊豆半島ユネスコ世界ジオパーク(2)

                    尾池和夫

 

 伊豆半島ユネスコ世界ジオパークは、「南から来た火山の贈りもの」という惹句を掲げている。そのような伊豆半島の自然と、そこに住む人々とのつながりを愉しむことのできるジオパークである。

 二〇一四年九月、日本ジオパークネットワークのメンバーとして伊豆半島地域が認定され、さらにユネスコ世界ジオパークの仲間入りを目指して粘り強く活動して、二〇一八年四月、ユネスコによって世界ジオパークネットワークの一員として認定された。

 伊豆半島ジオガイド協会は、個人や団体にジオツアーの情報を提供し、ガイドを必要とする方々にガイドを紹介する。この協会は伊豆市修善寺の修善寺総合会館ジオリア内にあり、休館日の水曜日でもファックスや電子メールで問い合わせができる。ジオリアにはさまざまな展示もあり資料も置いてあって、伊豆半島の全体を把握できるようになっている。

 日本列島の本州島は東北日本と西南日本の構造の合体である。東北日本は北アメリカプレートの端に属し、西南日本はユーラシアプレートの端に属している。これらのプレートは二つの大きな陸のプレートである。それらが出会う境界線が本州を南北に横断しており、糸魚川―静岡構造線と呼ばれる大規模な継ぎ目となっている。

 しかし、伊豆半島だけは、これら二つの陸のプレートには属さず、フィリピン海プレートに乗っている地塊である。はるか南にあった火山の島々や海底火山などが、フィリピン海プレートの北上に伴って、火山活動を繰り返しながらやってきて、本州に次々と衝突した。そして現在のように、本州島の一部となったのである。

 伊豆半島の全体で、今でも火山活動や地殻変動が続いている。それがたくさんの温泉を生み、美しい駿河湾や変化に富んだ陸の地形を生み出している。さまざまな地質時代の、さまざまな大地の営みを、伊豆半島ジオパークのあちらこちらで学びながら、その恵みを愉しむことができる。この多様な大地の地質や地形の構造が、このジオパークの大きな見所である。それが、繰り返し訪問しても新しい内容に触れることができるという魅力であり、その案内役がジオガイドである。

 フィリピン海プレートの北端は、本州島の下へ沈み込んでおり、この沈み込みの場所が、南海トラフや駿河トラフと呼ばれ、そこに東海地震や南海地震という巨大地震が繰り返し起こっている。伊豆半島はそのフィリピン海プレートに乗っているが、多数の火山によって暖められて軽くなっており、本州の下に沈み込むことができない。その結果、この半島は本州に衝突して、本州を水平方向に北へ強く押すことになり、丹沢山地や富士川ぞいの地層を、その圧縮によって激しく褶曲させ、赤石山地を隆起させたりしているのである。

 

 

城ヶ崎海岸が波によってポットホールになり、球が残って伊東市の天然記念物になった。

 

 伊豆半島での火山活動の歴史を少したどることとしたい。九万年前以降、伊豆半島東部のいたるところで火山噴火がおきていた。今の河津町の鉢ノ山や登り尾南火山が噴火し、河津七滝(ななだる)を造った熔岩流が噴出した。東伊豆町では堰口火山が噴火し、熔岩流が白田川に流れ込み、火山礫が熱川の台地を厚くおおった。天城湯ヶ島町では鉢窪山や丸山が噴火し、そこから流れ出た熔岩流が狩野川に流れ込んで浄蓮の滝がつくられた。このように噴火の歴史は続く。

 

 五〇〇〇年前には大室山が噴火し、五億一〇〇〇万トンの熔岩が流出した。この熔岩流がつくった台地が現在伊豆高原と呼ばれている場所である。この熔岩流は海に流れ込み、現在の城ヶ崎海岸をつくった。三二〇〇年前には、天城山の山頂付近で爆発的な激しい噴火が始まり、広い範囲に軽石の雨を降らせ、何回も火砕流が発生した。二七〇〇年前、天城山の北東斜面で噴火が始まり火山列ができた。

 そしてこの後、およそ二七〇〇年の間、伊豆半島は静かであった。そこに住む人々は伊豆での噴火を体験することなく過ごし、火山のもたらす恩恵を愉しんでいた。一九八九年、手石海丘の噴火があり、伊豆東部火山群が活火山であることが再認識された。手石海丘の噴火は、伊東沖の群発地震活動や伊豆東部の地殻の異常隆起現象と密接に関連していることが知られている。

 伊豆半島は火山地帯であるばかりでなく、たくさんの活断層が分布しており、活発な地震活動や地殻変動が見られる場所である。一九七四年伊豆半島沖地震、一九七八年伊豆大島近海地震、一九八〇年伊豆東方沖地震など、被害をもたらす地震も起きた。