尾池和夫の記録(333)京都の地球科学(351、352、353)静岡の大地(33,34,35) 

  京都の地球科学(三五一)    2023年7月号
   静岡の大地(三三)
                       尾池和夫
 京都新聞の「天眼」に「地下水と湧水の文化」という文章を書いたら、いろいろと反応があって取材も受けた。文章の趣旨は、京都盆地は一二〇万年前からの活断層運動によって形成され、地下水が蓄えられていて茶道が生まれ「変動帯の文化」と私が呼ぶさまざまな恩恵があったということから始まる。
 静岡には南アルプスの山岳地帯があり、川の伏流水や地層からの豊かな湧水による文化が発達していて、それも「変動帯の文化」と呼ぶことができる。私が住む静岡市葵区は静岡県の最北端にまで及び、北の端に井川地区がある。昔から湧水を井と呼び、流れを井水と呼んだ。大井川は「偉大な水の流れ」の意味であり、その名は『日本書紀』にもあって、江戸時代にはすでに全国に知れ渡っていた。
 その上流に井川がある。小中一貫校の静岡市立井川小中学校は二〇二三年三月にも二人の卒業生を送り出したが、その三月に、八、九年生の研究発表会があり、私も参加した。九年生の海野要(うんのかなめ)さんが、六年の時から研究してきた「湧き水」の研究成果を発表した。湧水についてウェブサイトで研究成果を公開しており、湧水を大切にしてきた地域の人たちの暮らしを見ることができる。
 リニア中央新幹線のトンネルが井川の下に掘られた場合、大量の水がトンネルに抜けて大井川の水量が減ることについて議論が続いているが、私はその大量の地下水の流出で、真上にある井川の豊かな湧水が枯れてしまうことを心配する。丹那トンネルの工事による大量の地下水の移動が北伊豆地震を誘発することになった可能性があると以前に書いた。今、南アルプスの微小地震が異常に増加しており、トンネル工事が日本一発生確率の高い活断層に地震を誘発する可能性がある。また丹那トンネルの上の山葵田が枯れて今では牧場になっているという歴史も井川で再現される可能性がある。
 東海道新幹線にはよく乗るが、丹那断層を抜けるとき、一九三〇年にずれた断層のことは心配しないが、富士山の噴火が迫っていることを意識する。名古屋と京都の間では桃山丘陵や音羽山のトンネルで大規模にずれる心配があるので、無事通り抜けるとほっとする。山陽新幹線は一九九五年の大地震が早朝で、列車は六甲山の中を走っていなかった。大地震の後、早くトンネルの中のずれた場所を調査させてほしいと強く望んだが拒否され、改修工事が終わってから「どうぞ」と言われ、結局学術的な資料は得られなかった。
 そもそも地球にプレート運動が発生した原因は地表に豊富な水があったからである。水が大陸の岩盤に浸み込んで破壊が発生し大断層になり、落ち込む岩盤がプレート運動の元となった。そして長い歴史の末、地下水をたっぷり含む日本列島が誕生した。地下水を軽率にいじってはいけない。小豆島にはビートたけしと京都芸術大学のヤノベケンジとの合作による、八メートルの大きな井戸の神様が怒りを込めて水を吐く「アンガー・フロム・ザ・ボトム」(美井戸神社)がある。それは地下水を汚してはいけないという日本人の暮らしから得られた貴重な知恵を伝えている。
 リニア新幹線は大部分が活断層帯を掘り抜くトンネルで設計されており、地下水に対して真っ正面から挑戦する計画になっている。鉄道工事の際、井戸の神様の怒りに触れないようにと祈りつつ、静岡県立大の研究会では地球科学の視点から、南アルプス地域の微小地震の異常な増加現象が何を意味しているかという議論を続けることにしており、また、私は井川地区の湧水の現状をいま一度しっかり視察しておきたいと思っていると「天眼」の文章を締めくくった。
  よき清水あふるる音の遠くまで      金久美智子
 井川小中学校の海野さんが湧き水を研究するきっかけは、おじいちゃんがお酒を飲む時に、井川の湧き水を使っていたことである。井川の本村から離れた場所にある、明神沢の湧き水をわざわざ汲んできて使っていた。井川には、複数の場所に湧き水があるが、明神沢の水にこだわって使っていたことから、他の湧き水と何が違うのかに興味を持ったという。
 六年生から九年生まで、井川地域の湧き水の研究を進めた。六年生の時は、地元井川の湧き水のおいしさと安全性を知ってもらうため、水質検査や飲み比べの研究を報告した。七年生では、湧き水と水道水でお米を炊いたり、豆腐を作ったりして比較して報告した。八年生の時、湧き水を使う人たちの思いを取材して報告した。そして今回は湧き水マップなどを掲載したウェブサイトを作成して発表した。井川の本村、田代、小河内地域、それらの地域よりも更に大井川の上流地域と広域にわたっている。写真、水温、硬度、湧き水の使用例を紹介している。
 井川蒸留所では十山株式会社が「自然環境の魅力やウイスキーをはじめとする商品、サービスなど一〇を超える極み(高峰)を目指すという想いを込め」て仕事している。十山株式会社は、そのウェブサイトによると「二〇二〇年四月に特種東海製紙株式会社の社有林管理部門であった南アルプス事業部が社有林の自立した経営を目的に分社化し、誕生しました。「十山(じゅうざん)」という社名には、社有林内に赤石岳などの三〇〇〇メートル峰が一〇座あること、当社は、井川山林に二四四三〇ヘクタールの社有林を有し、一団地としては国内最大の広さを誇ります」とある。
  わが影に来て影添ふや岩清水        中村苑子


  京都の地球科学(三五二)    2023年8月号
   静岡の大地(三四)
                       尾池和夫
 井川蒸留所で用いている湧水が「木賊湧水」で、南アルプスの大自然という熟成環境、ウイスキーづくりに欠かせない、樽のための木材資源とともに、南アルプスの森林土壌で?過されたこの湧き水が、最高の仕込み水になると考えたという。
 原酒を熟成するたまの樽には、この地に自生する水楢を使用する。そして、南アルプスの霧がたちやすく、冷涼で湿潤な環境のなかで原酒を眠らせて熟成させる。このように、南アルプスはウイスキー造りに最適な環境があるとして、この井川蒸留所の仕事が始まった。
 ここで大きな意味を持っている自然環境に、この地域の地下水が深く関連していることはまちがいない。その場所が、今リニア新幹線のトンネル工事で、水涸れの心配のことが議論されている大井川上流の田代ダムのすぐ近くであることも、議論の視野におくことが必要ではないだろうか。
  流れ来て清水も春の水に入          蕪村
 あらためて地形図を見ると、大井川の北端には、東俣、西俣があり、それらが二軒小屋で合流する。そこに田代ダム湖がある。さらに下流に行くと井川蒸留所、その南に木賊堰堤がある。さらに下流に行くと、大井川は赤石ダムのある赤石沢と合流する。そして中部電力赤石水力発電所、畑薙橋があり、畑薙湖である。畑薙第二ダム、畑薙第一ダムを経て、割田原縄文遺跡があり、井川湖、湖畔の井川の町並、井川小中学校、そして井川駅である。この井川駅までは以前、静岡県島田市に本拠を置きつつ大井川流域を基盤とする大井川鐵道株式会社の大井川本線、井川線の二つの鉄道路線の旅で紹介した。
  山人の十指の掬す岩清水          加古宗也
 井川蒸留所の見学は、予約して十山の車で迎えてもらい、専用の山道を行くことになる。予約した日に私は別の予定ができて参加できず、静岡県立大学の教職員が見学して取材と撮影をしてくれた。以下は、白樺荘に一泊して視察したその方たちからの報告である。
 梅雨入りの発表の翌日であいにくの天気だったが、十山株式会社の平井さんの案内のもと、朝七時四〇分に白樺荘からスタートした。沼平ゲートから一般車両進入禁止のため通行許可証を準備してくれた。ゲートに入ると、まずタイヤを洗う桶を通過する。外来種を入れないためだと説明を受けた。それからヘルメットも着用するよう促された。
 だいぶ舗装は進んでいるが、ガードレール・カーブミラー・電柱は倒れていたり、折れていたりしていた。落石も多かった。東北大震災の時に落ちてきた石だと、カマクラくらいの大きさの石を指さして教えてくれた。今これが落ちてきたらと思うと早く通過して欲しいと願った。舗装されていない道は、どうせ崩れるから最後に舗装するとのことだった。
 通称、赤崩と呼ばれるところにかかる橋は、橋の下直ぐ近くまで土砂がたまっていた。六〇分ほど走り続けると椹島ロッジに到着した。このロッジはJRの工事作業の詰め所にもなっており、人の出入りが多かった。登山客への宿泊も行っている。また南アルプスみらい財団のベースにもなっており、南アルプスに関する資料の展示がされていた。
 少しはなれたログハウスには山岳写真家の白旗史朗の写真館があり、ファンにはたまらない場所であろうと思った。そこから一五分ほど行くと「この先私設道路につき一般車両進入禁止」の看板があり、橋の門を解錠して進むと井川蒸留所についた。車両は禁止だが「管理釣り場」ということで、とくさ堰堤から二軒小屋まで渓流釣りができるようだ。白樺荘から約二時間の道のりだったという。
  かちわりの形整へハイボール        尾池和夫
 モルトウイスキーの製造工程を、以前私がくわしく見学したことのあるサントリーの説明から引用して紹介しておきたい。
 ウイスキーが製品として完成するまでには、原料、仕込みの糖化、発酵、蒸溜、熟成と貯蔵、ブレンドの工程がある。
 まず製麦(麦芽)原料の大麦には、モルトウイスキーづくりに適した性質をもつ二条大麦が使われる。酵母は糖分をアルコールに変えることはできても、大麦の澱粉をそのままアルコールに変えることはできない。そのため糖化という工程が必要である。その前に糖化の役目を担う酵素を大麦自身の中で作らせる。まず発芽した麦を乾燥させて麦芽を作る。
 水はウイスキーの品質を決める大きな要素の一つである。ウイスキーにとって良い水は、異味、異臭がなく、飲んで美味しい水である。それとともに発酵の工程で重要な役割を果たす酵母の生育に好ましい適度なミネラル分がバランス良く含まれることが大切である。ウイスキー蒸溜所の立地の選定に、土地の水質の良さが求められるのである。サントリーが山崎の地を選んだのには有馬高槻構造線の存在が大きく関係していることは以前論じた。
 製麦で作った麦芽を粉砕し、温水した仕込み水と呼ばれる水と混ぜてお粥状態にする。ここで麦芽中の酵素が働き、澱粉を糖分に変える。これを?過して麦汁を作る。これが仕込み(糖化)である。
 次に発酵の工程である。麦汁をアルコール分約七パーセントの発酵液に変える工程を発酵という。発酵中の麦汁に酵母を加えると、酵母は麦汁中の糖分を分解し、アルコールと炭酸ガスに変え、ウイスキー特有の香味成分をつくる。


  京都の地球科学(三五三)    2023年9月号
   静岡の大地(三五)
                       尾池和夫
 ウイスキーは、酵母の種類や発酵条件によって香りなどに特長が出る。約六〇時間で発酵は終了する。この発酵液を「もろみ」と呼ぶ。この段階でのアルコール分は約七パーセントである。蒸溜発酵の終わったもろみを銅製のポットスチルと呼ばれる単式蒸溜器にいれて二度蒸溜する。その一回目を初溜、二回目を再溜と呼ぶ。それによてアルコール濃度を六五ないし七〇パーセントに高める。この生まれたばかりのウイスキーをニューポットと呼ぶ。
 仕組みとしては、アルコールが約八〇度で沸騰する性質を利用し、つまり沸点の違いを利用し、蒸気を発生させて、冷却、液体化させ、アルコールや香気成分などの揮発成分だけをとり出すわけである。サントリーではさまざまなタイプのモルト原酒をつくるため、蒸溜釜の形と大きさ、そして蒸溜方法と加熱方式を使い分けている。
 貯蔵庫蒸溜で出来たニューポットを樽の中で長期間じっくり寝かせる。これが貯蔵という工程である。そして三年、五年、一〇年と経過していく。ウイスキーの琥珀色、奥深い味わいの秘密が、この貯蔵、樽熟成にある。
 樽は樽材、内面の焼き方、大きさなどの違いによってさまざまな種類があり、樽材にはホワイトオーク、スパニッシュオーク、ミズナラを使う。樽の大きさでは、パンチョン、シェリー樽は約四八〇リットル、ホッグスヘッドは約二三〇リットル、バーレルは約一八〇リットルなどがある。これら多様な樽で ウイスキー原酒は長い眠りにつく。貯蔵環境、つまり気温、湿度によっても熟成の度合いが微妙に変化し、複雑な反応を見せ、多彩なウイスキー原酒が生まれるのである。
 樽熟成のメカニズムは、まだ科学的には解明されていない部分もあり、「時の技」という言葉で神秘的に語られ、そのロマンが、より味わいを深める理由である。樽で熟成されたモルトウイスキーは、麦芽の種類、酵母の種類、蒸溜方法、樽の種類、貯蔵場所、貯蔵年数など、さまざまに組み合わされ、掛け合わされ、多岐にわたることになる。製品化する時は、これらの中から、数十種類のタイプに分け、樽からウイスキーを取り出していく。
 モルト原酒同士を混和することを、ヴァッティングと呼ぶ。山崎一二年の場合、山崎蒸溜所で蒸溜され、すべて一二年以上貯蔵された山崎モルト原酒だけでつくられている。ちなみに熟成年数表示は、使用されたモルト原酒の中での最低年数を示しており、ヴァッティングされるモルト源酒の平均熟成年数はもう少し高くなる。
 ブレンデッドウイスキーの場合、モルト原酒と麦以外の原料で作ったグレーン原酒をブレンドする。個性の強いモルト原酒と、個性の穏やかなグレーン原酒が、新たなハーモニーを生み、ブレンデッドウイスキーの香味が仕上がる。
 以上、先月から続けてモルトウイスキーの製造工程をサントリーの説明から引用して紹介した。寿屋(現サントリー)創業者、鳥井信治郎が、一九二三(大正一二)年、日本初の本格ウイスキーづくりを目指して山崎蒸溜所の建設に着手してから、今年で一〇〇年である。同じく関東大地震からも、この九月で一〇〇年である。どちらも記念する催しが行われるであろう。
 山崎の地がウィスキーのために選ばれたのは、有馬―高槻構造線活断層の破砕帯から採取される地下水の水質が理由である。その山崎の地を芭蕉も訪れている。芭蕉は一六八八年、山崎に来た。奥の細道へ旅立つ二年前である。芭蕉は山崎宗鑑、千利休らを慕っていた。侘び寂びの精神に影響を受けた。宗鑑も利休も山崎に縁がある。俳諧の始祖とされる山崎宗鑑は山崎に暮らし、元は武士であった。将軍足利義尚につかえていたが一四八九年頃出家し、山崎に暮らした。山崎の油商人の後援で連歌の会を開いたり俳句の手ほどきをし、晩年『新撰犬筑波集』を出版した。山崎には芭蕉の句碑がある。
  ありがたき姿おがまむ杜若           芭蕉
 話題を大井川に戻すことにする。大井川の上流の井川地域を中心に、最近、生物生態学者の湯本貴和さんが調査に入って、その様子をフェイスブックで発信してくれている。それがとても興味深い。湯本さんは井川へ訪問したときのその興味深い記録を、七月二九日朝の八時二四分から一〇時三五分にかけての二時間あまりで一気の発進したので、それを読んでいて私は松尾大社の四年ぶりの会に遅れそうになった。
 湯本さんは「南アルプスみらい財団」の方たちと井川を訪れた。大井川鐵道は以前紹介したが、今、大井川本線 (金谷~家山間)は平常通り運転しており、大井川本線 (家山~千頭間)は二〇二二年の台風一五号による被害のため、バス代行運転を行っている。家山?千頭間のバス乗車定員は四〇名である。
 湯本さんたちは地域おこし活動をしている金原みつみさんの案内で、井川小中学校の環境教育について視察した。この学校は静岡市の小中一貫教育の先駆校として、小中学生が一緒に学び、地域の人びとに支えられて活動に取り組む姿が見られる。九年間積み重ねていく教育のよさが実感できる。
 「ふじのくに地球環境史ミュージアム」の岸本年郎さんの案内で、湯本さんたちは田代にある民宿に泊まった。その民宿の方は猟もしており、熊の胆がたくさん成型されて干されているという。写真には十数個の熊の肝がぶら下がっていた。
  熊撃のはにかんでゐる春炉かな       茨木和生