尾池和夫の記録(331)京都の地球科学(345、346、347)静岡の大地(27,28,29) 2023年1月-3月

  京都の地球科学(三四五)    2023年1月号
   静岡の大地(二七)
                       尾池和夫
 狩野川放水路の海への出口、口野放水路の信号から県道一七号線に入って駿河湾の北に見ながら真西へ向かう。そこから西浦に沿って細かく入り組んだ地形が小さな湾を作っており、それぞれの特徴を出した小さな港がたくさんある。ヨットの停泊地、大きな旅館がある港、淡島へ渡る港、養殖の筏の多い港などがある。道を隔てて陸側はすぐ山地になる地形で、斜面に蜜柑畑が多い。西浦みかんの産地である。沿道に大きな販売所がある。
 西浦みかんは沼津が誇るブランドみかんである「西浦みかん」の中でも「寿太郎温州」は、一九七五(昭和五〇)年、沼津市の山田壽太郎氏が「青島温州」の枝変わりとして発見したものである。糖度の高さ、酸味と甘みのバランス、濃厚な風味が自慢で、一二月に収穫したのち、貯蔵庫で温度と湿度を一定に保ち、一か月から二か月間熟成させ、甘さを引き出した高糖度系の本格貯蔵みかんで、出荷は毎年二月初めから三月中旬頃になる。沼津市のみかん栽培面積の五割を占める。
 大瀬崎へ降りてみる。有料駐車場にはたくさん車が止まっている。半島の先に神社があり、神池がある。大瀬明神の神池(おせみょうじんのかみいけ)は、突き出した大瀬崎の先端にあって、最長部の直径がおよそ一〇〇メートルの池で、国の天然記念物である「ビャクシンの樹林」に囲まれてはいる。
 この池は伊豆七不思議の一つで、海から最も近いところでは距離が二〇メートルほどであり、標高は一メートルほどしかなく、海が荒れた日には海水が吹き込む。それにもかかわらず淡水の池で、鯉、鮒、なまずなどの淡水魚が生息している。富士山から伏流水が湧き出ているとする説もあるが、海水面の上下に従って水面の高さが変わるとも言われている。淡水池であることの仕組みはまだ解明されていない。
 神域であり、古くから池を調べたり魚や動植物を獲ったりする者には祟りがあるとされている。池の水が層状になっていると機材や人が池に入ると環境破壊となる恐れが強い。さらに、透明度が低く池の底の観察が難しい。このように、さまざまな理由があって調査はなされていない。水深も不明のままである。遠隔での調査の手法が活用される絶好の舞台になるであろう。
 大瀬崎からの帰り道、高嶋酒造に立ち寄る。沼津の銘酒「白隠正宗」を造る酒蔵である。富士山からの深層水を仕込み水に使い、純米にこだわって造る日本酒で、沼津を誇る地酒として人気を集めている。純米のみで造られている白隠正宗は、酒粕や甘酒も美味しい。仕込み水として使われている深層水は、酒蔵の脇に無料で開放してくれている。その美味しい水をポリタンクに汲みにくる人たちが列を作っている。私が行ったときには料理人のような男性がたくさんポリタンクを並べて水を溜めていた。
  ねむ咲いて地下水脈の音ひびく      坪内稔典
 伊豆半島を北へ流れる狩野川の支流に、北から流れ込んでいる支流がある。それが黄瀬川で、前に鮎壺の滝などにも触れた。その黄瀬川の上流部までを見る目的を兼ねて、二〇二二年一〇月二九日土曜日に、小田原の先の国府津から沼津へ御殿場線の旅をした。
 御殿場線は、神奈川県小田原市の国府津駅から静岡県御殿場市の御殿場駅を経て静岡県沼津市の沼津駅に至る東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(幹線)である。一八八九(明治二二)年に東京と大阪を結ぶ鉄道の一部として開業した。東京と大阪を結ぶ鉄道線が一九〇九年に東海道本線と命名された。一九三四(昭和九)年一二月一日の丹那トンネルが開通により、東海道本線は熱海駅経由に変更され、この国府津駅と沼津駅の間は御殿場線となった。
 御殿場線には、トンネルや橋脚などに過去に複線であった面影が残っているが、これらは第二次世界大戦中に不要不急線に指定され、レールなどの資材が回収された結果である。大幹線である東海道本線から一つのローカル線になったが、一九九二年には事故の際に東海道本線のバイパスとしての役割を果たした。JR東海が管轄する在来線として最東端の路線であり、唯一関東地方(神奈川県)に乗り入れている路線である。定期券以外では国府津駅を跨いだICカードの利用はできない。路線距離(営業キロ)は六〇・二キロ、軌間は一〇六七ミリ、駅の数は起終点駅を含めて一九である。最高速度は時速一一〇キロである。全線がJR東海静岡支社の管轄であり、国府津駅構内はJR東日本横浜支社の管轄であるため、この駅の構内にある第一場内信号機が線路上の会社境界である。
 まず沿線の概要である。国府津駅を出て東海道本線から離れて内陸に入る。東側つまり右側に曽我梅林を見ながら下曽我駅に着く。酒匂川沿いを北上し小田急電鉄小田原線の上を通過し松田駅に着く。酒匂川との距離が近くなり、国道二四六号、東名高速道路と並行し、時には交差して走る。カーブと急勾配が県境を越えて続き、ほぼ最高点が御殿場駅で、沼津駅を除いて線内最大の駅である。そこからが黄瀬川に沿って走る区間となり、富士山の東麓斜面を走る。車窓右側、つまり西側に富士山が見え、御殿場駅近辺では間近にあって、宝永火口が正面に見える。最大勾配が一〇〇〇分の二五の急勾配が続く途中にある富士岡駅と岩波駅には、東海道本線時代のスイッチバックの跡がある。
  どの雲となく近づきて春の富士      廣瀬直人


  京都の地球科学(三四六)    2023年2月号
   静岡の大地(二八)
                       尾池和夫
 二〇二二年一〇月二九日の私の行程に沿って、もう少し詳しく述べる。当日は新幹線小田原で降りた。小田原城址では大きなイヌマキの樹に赤い実があり甘い味を楽しんだ。東海道線で上り二駅目の国府津駅で降り、国道一号線に沿って西へ歩いて一五分くらいの場所の南側に鰻屋「うな和」がある。すでに満席の知らせが出ていて「次は一七時三〇分に」と書いてあるが、予約してあったのでふっくらと焼き上げた美味しい鰻重を味わうことができた。
  鰻笊二つ重ねし生簀かな         後藤夜半
 国府津駅から御殿場線に乗った。出発点の国府津駅の前には一三〇年続く駅弁屋がある。東華軒という店で、東海道線の数ある駅弁屋のなかで最も歴史の古い店である。国府津駅が開業した翌年、一八八八(明治二一)年に東海道線で初めての駅弁として認可され、竹の皮に包んだおにぎりや押寿司を売った。店の始まりは鉄道工事の工夫のための弁当だった。今、東華軒の鯛めしは長い八角形の箱に勢いよく跳ねる大きな鯛が目立つ。小鯵押寿司は長方形の箱に八個の小鯵の押し寿司と二個の紫蘇巻きが入っていて、この紫蘇巻きが口直しに美味しい。
 国府津駅を出て間もなく線路がまっすぐ伸びる区間が松田駅まで続く。東側に山地が続き、西側には箱根火山の外輪山が続く。箱根山の火山活動期は、古い方から順に、古期外輪山、新期外輪山、中央火口丘の三つに大別される。箱根火山の活動は約四〇万年前に始まり、噴火を繰り返し、約二五万年前には古箱根火山と呼ばれる標高二七〇〇メートルに達する富士山型の成層火山が形成された。その後も噴火を繰り返し、約一八万年前に空洞化した地下に山の中心部が陥没して大きなカルデラが誕生した。このとき周りに取り残された海抜一〇〇〇メートル前後の山々が古期外輪山である。金時山は古箱根火山の山腹から出た側火山である。
 約一三万年前から再び火山活動が活発になり、カルデラ内に小型の楯状火山ができた。約五万二〇〇〇年前、この楯状火山が破局噴火し、再び陥没して東部から南部に半月形に取り残されたのが新期外輪山である。この噴火の火砕流で堆積した火砕物が東京軽石や箱根東京軽石と呼ばれている。
 約五万年前、カルデラ内で再び火山活動が始まり、先神山が形成されてさまざまに変遷した後、熔岩ドームの形成と熔岩ドーム崩壊型火砕流の様式になり、中央火口丘群を形成した。火砕流でカルデラ湖が誕生した。マグマ噴火は、約八〇〇〇年前の神山山頂付近、約五七〇〇年前の二子山熔岩ドーム、約三二〇〇年前の神山の噴火がある。約三〇〇〇年前、神山北西斜面で山体の多くを崩壊させる大きな水蒸気爆発が発生して大涌谷が生まれた。そして早川の上流部が堰き止められて芦ノ湖が誕生した。
 松田駅までの東側の山地は国府津―松田断層の逆断層運動で隆起している。この断層は相模トラフの延長線上にあり、プレート境界から分岐した断層である。相模トラフから沈み込むフィリピン海プレートの北縁部に位置し、日本の活断層の中では地震の発生確率が相対的に高いグループに属する。今後数百年以内に、変位量一〇メートル程度、マグニチュード八程度の規模の地震が発生する可能性がある。国府津―松田断層の最新活動時期は西暦一一五〇年から一三五〇年の間であると推定され、一二九三年の鎌倉大地震の起震断層の一つである可能性がある。過去約六〇〇〇年間に約二〇メートルの上下変位があり、三〇〇〇年間で四回あるいは五回の大地震発生が確認されている。
 トンネルと鉄橋が交互に現れて酒匂川(さかわがわ)の渓谷を縫っていく。山北駅東側にある樹齢約五〇年の染井吉野約一三〇本の桜並木は、神奈川県の「かながわのまちなみ一〇〇選」に選ばれている御殿場線沿線で最大の桜並木である。谷峨(やが)駅は山間の駅で、開業当初は薪や炭を発送する駅であったが現在は旅客のみを扱う小さな無人駅ある。
 駿河小山駅は金太郎が生まれた故郷の町にある。昔の教科書で有名になった。小山町総合文化会館ではさまざまな催し物があり、私が御殿場線に乗った日の前日には五日間にわたって「地域防災指導者養成講座」が開催されていて、地震防災で活躍してきた川端信正が講師を務めていた。足柄駅の駅舎は隈研吾の設計で、地元の木材を使った建築である。鉄道マニアはそれを撮影するためにやって来る。駅舎には図書館や役場の分室が置かれているが、この駅も無人駅である。
 御殿場駅で途中下車したが駅前はビルばかりで西の方が見えない。富士山には厚い雲がかかっていてまったく見えなかった。喫茶店に入ると「御殿場」と書いた美しい富士山の写真集になったポスターが張ってあった。御殿場ハムを売る店でハムを買った。南御殿場駅、富士岡駅とだんだん窓から富士山の裾野と斜面の灯りが見える。左側に愛鷹山の姿が現れる。沼津に近づくと、三島駅から撮した私の名刺の写真と同じような景色となる。沼津駅で降りると向かいに「国府津行」と書いた電車が止まっているので東海道線かと間違えて一度乗り、慌てて東海道線に移り、三島駅に着いた。三島の自動改札機は重ねた切符を判定できない。駅員が一人だけの出口で前の人の手続きをゆっくりやっているのを待って出た。ひかりの自由席はほとんど満席だったが何とか座って静岡駅まで帰った。帰宅して三島駅で買った「ちらし寿司弁当」を食べた。
  霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き        芭蕉


  京都の地球科学(三四七)    2023年3月号
   静岡の大地(二九)
                       尾池和夫
 静岡県立大学の学長室からも富士山が見える。毎日出勤するとまず富士山の姿を確かめてから仕事を始めるのが習慣になっている。雲の流れが速いので見ているうちに様子が変わる。また、富士山の現在の姿をカメラで撮して公開しているウェブサイトが多く、それらも時々見ている。
 古来、富士山を描いた画家は葛飾北斎をはじめたくさんいる。近代では横山大観である。島根県安来市の足立美術館には、大観の初期から晩年に至るまでの作品が一二〇点余り所蔵されていて、別名「大観美術館」と呼ばれる。私が毎日見ている富士山は、かなりの頻度で山頂の見えない富士山であるが、画家の描いた富士山は必ず山頂がある。
 富士は季語にも多く登場する。「初富士」は新春の季語で、元旦に富士山を眺めて詠む。「春の富士」は春の季語で、雪がまだ残る富士山を詠む。「富士の雪解」は夏の季語である。五月になると富士山も雪解けがすすみ、六月になると麓からは雪は見えなくなる。「五月富士」は夏の季語で、陰暦五月の富士山である。梅雨に入り、雪が消える。「夏富士」は夏の季語である。「赤富士」も夏の季語で、晩夏になると、東京方面から見る朝の富士山が赤く染まって見えるのを詠む。葛飾北斎が描いた「凱風快晴」も赤富士である。「富士垢離(ふじごり)」は夏の季語で、富士講の修験者が、富士山に登る前に行う水垢離である。「富士詣」も夏の季語で、陰暦六月一日から六月二一日の間に、富士講をつくり富士山頂の富士権現社に参詣することを言う。「駒込富士詣」は夏の季語で、六月三〇日から七月二日にかけて行われる東京の駒込富士神社の山開きである。
 かつては土産の駒込茄子が名物で、周辺に鷹匠屋敷があった。「一富士二鷹三茄子」は、川柳〈駒込は一富士二鷹三茄子〉から広がっていったと言われる。「浅草富士詣」は夏の季語で、七月一日に、富士山の山開きに合わせて浅草浅間神社の例大祭が行われる。「富士の山洗」は秋の季語で、富士山麓で富士閉山の陰暦七月二六日に降る雨を言う。
 「富士の初雪」は秋の季語である。九月中旬に雪が降る。「富士の笠雲」は冬の季語である。強い風が富士山にぶつかる時にできる笠のような雲で、笠雲が現れると天気が崩れる。「富士薊」は冬の季語で、キク科アザミ属の多年草である。富士山周辺に多い。
  どの雲となく近づきて春の富士      廣瀬直人
 富士の初冠雪とは、その年の山頂の一日の平均気温が最も高い「最高気温日」を観測して以降に、「山の全部または一部が、雪または白色に見える固形降水(雹など)で覆われている状態を下から初めて望観できたとき」と定められている。この富士山の初冠雪を観測して発表するのは甲府地方気象台である。だから麓や静岡県側から雪が見えても甲府地方気象台から見えていないと初冠雪は発表されない。以前は河口湖測候所も同様に観測、発表していたが、二〇〇三年九月に河口湖測候所の有人業務が終了して甲府地方気象台に一元化された。
 甲府気象台による初冠雪の平均日は一〇月二日、二〇二一年の初冠雪観測日は九月二八日であった。二〇二二年九月三〇日(金)の富士山頂の最低気温は摂氏マイナス二・四度まで下がり、八時〇〇分、富士山の初冠雪が発表された。平年よりも二日早く、昨年よりも二日遅い観測となった。これが確定するのは年が明けてからである。
 富士山の地下ではマグマ溜まりが活動している。大規模な噴火が起きた場合に流れ出す溶岩の量は従来想定のおよそ二倍の一三億立方メートルに達すると推計され、火口周辺の山梨県富士吉田市や静岡県御殿場市だけでなく、北東に四〇キロ以上離れた山梨県上野原市や相模原市、南東側の神奈川県小田原市、南側の静岡市清水区など、三つの県の七市五町に到達すると言われている。
 小山真人氏(静岡大学防災総合センター教授)の解説から引用すると、富士山の宝永噴火は開始から終了までの一六日間に、マグマ量に換算して七億立方メートルの火山灰を風下に降らせた。大規模で爆発的噴火だった。富士山が過去に起こした噴火は多種多様であり、必ずしも次の噴火が宝永噴火に類似するとは限らない。
 富士山に起こる別種の大規模災害として「山体崩壊」がある。文字通り山体の一部が麓に向かって一気に崩れる現象である。最新のものは二九〇〇年前に東側の御殿場を襲った「御殿場岩屑なだれ」がある。そのときの土砂の量は、宝永噴火を上回る約一八億立方メートルであった。
 富士山の手前、つまり沼津側に愛鷹山がある。四〇万年ほど前から愛鷹山や小御岳(こみたけ)や箱根山などの火山が噴火を始め,大量の土砂を地表にもたらし始めた。一〇万年ほど前、小御岳と愛鷹山の間で新しい火山が噴火を始め、富士山の誕生となった。富士山は、一〇万年ほど前に誕生した火山で、富士山誕生以前の五〇万年前くらいの時点での駿河湾は今よりずっと奥が深い湾で、海岸線も今の位置よりずっと北にあった。現在の富士山の地下には、かつての駿河湾の一部が隠れている。その後駿河湾を埋め立て、今ある富士山麓の広大な平坦地を作り出した。小さな火山であった富士山は噴火のたびに成長し、小御岳の大部分と愛鷹山の北半分を埋めて、それらよりも高くそびえ立つ立派な火山に成長した。
  この道の富士になり行く芒かな     河東碧梧桐