尾池和夫の記録(239) 我が家の「おせち」  2003年5月22日
                          尾池和夫

 わたしの父は高知県の山村である、香美郡香北町の出身である。若くして亡くなったので、わたしを育てたのは祖父母と母であり、したがってわたしにいろいろの伝統を伝えたのは、主として祖父母であり、その教えを一所懸命に伝えた母であるといえる。
 わたしが祖父母たちと住んでいた家は、今は香北町であるが、その頃は在所村谷相という名の、文字通り谷相の村であった。わたしのいた家は谷の上流域にあり、その下流域が中谷、さらに下流が横谷と呼ばれていた。わたしの入った小学校は在所村第三小学校という名で、家から少し下流へおりた所にあった。
 この村は平家の落人が住みついた村と祖父から聞いた。シラクチカズラのつるを編んだ吊り橋、平家の落人が考案したといわれている、かずら橋ですっかり有名になった祖谷から、さらに四国山脈を越えて土佐の山間部まで落ちのびた人たちであろう。もう少し谷を下ると物部川の本流に合流して、まもなく太平洋へ出るという場所である。
 ところで、その谷相で年越しの行事として守られていたことの中で、食べ物に関することをよく覚えていて、わたしの家では今でもその伝統を守っている。母も亡くなった今、伝えるのはわたしたち夫婦の役目になった。平家の落人が伝えたのか、土佐の山間部で生まれたのかは知らないが、伝統には何かの意味がこめられているのは確かであるから、絶えないように伝えたいと思っている。
 年越しには、まず大晦日の夕食に「おせち」を食べることから始まる。除夜の鐘を聞くときには年越しそばを食べ、元日の朝には屠蘇を祝い、重箱の正月料理をいただき、雑煮を食べる。
 成人するまでは、何の疑いもなく、この伝統にしたがって年越しをしていた。疑問がわいたのは、結婚して葉子が「えっ」とびっくりしたことがきっかけである。それで、よその家では「おせち料理」というのが、元日の朝食べる重詰めの料理のことだということに気づいた。うちではなんで大晦日の夕食が「おせち」なのだろうかという疑問は、ずっと続いたままだった。
 我が家に伝わる「おせち」の内容は、要するに煮しめである。具は七種類と決まっている。まず中心になるのはブリの切り身である。あとは大根、人参、牛蒡、昆布、こんにゃく、里芋である。これらをすべて食べなければならない。祖父たちはこの「おせち」をたくさん作っていたので、新年になっても残りものを何回も食べさせられて困った。
 わたしも五八歳になり、母も亡くなってしまってから、やっとこの「おせち」の疑問に明快な答えが得られた。別に一所懸命に調べたわけではないので、解決するのが遅くなったのだろうと思う。
 それは一九九八年の年末であった。夕方、都ホテルでの、東宇治文化の会の忘年会に出席するために、三条通りを歩いていて、通りがかりの小さな喫茶店に入った。そこのカウンタに雑誌「サライ」の一九九九年一月号が置いてあった。それをめくっていて『各地に残っていた「おせち」の源、大晦日の祝い膳』という特集を見つけた。『一年間無事で過ごせた感謝の念と、新しい年を迎える祝いを兼ねて、大晦日に家族で揃ってごちそうを食べる・・・。現在の「おせち料理」の原形ともいえる、各地の古き良き習慣と食文化を紹介する』とあった。
 まず重要なことは、江戸期以前、日本では一日が日暮れから始まったということである。農耕民族の一日は月の出る夕暮れから始まったのである。したがって新しい年も大晦日の夕方から始まる。だから、新しい年を司る歳神様を迎える行事は、大晦日の夕食から始まるのである。その行事が、節句のうち最も重要な年越しのときの料理として「おせち」と呼ばれるようになった。
 今、多くの家庭で食べる年越しそばは、きちんと食事をとる時間がない商家の大晦日の習慣で、江戸時代に広まったものであるという。
 伝統食にくわしい松下幸子さんによると、「年取り膳」の特徴の一つは、その地方に固有の典型的な形があげにくいことだという。同じ地域でも家によって内容が異なるのだという。ただ、共通のこととして「年取り魚」という魚が料理に含まれていることがあげられるそうだ。
 「サライ」の特集には、いくつかの実例が紹介されている。米沢市の士族の家の膳は、海の幸をぜいたくに使っている。長野県の大鹿村では天然鰤を使う。大阪での年越しは除夜釜で楽しむ一服の茶とともにいただく点心である。沖縄県知念村の「年取り振る舞い」の主役は豚肉である。裕福な家では一頭丸ごと使うという。
 高知県の山間部にある大豊町の「年越し煮しめ」が紹介されている。また、高知女子大学名誉教授の松崎淳子さんの家の煮しめもある。後者の具は、鯨の赤身肉、人参、大根、牛蒡、里芋、糸昆布、こんにゃくである。味付けは薄口醤油と砂糖、鯨は「大魚」である。わたしの家に伝わる「おせち」とほとんど同じである。
 記憶がはっきりしないが、昔はわたしの家でも「大魚」は鯨であったのが、家族の好みに合わせてブリに変わったような記憶も、うっすらとではあるが残っている。それも焼いてから鍋に入れるが、そのようにしたのはわたしの妻、葉子であったような気がする。
 こうして、ようやく年越しの「おせち」のことがよくわかったのだが、この年は喪中で、年越しのお祝いは遠慮することになった。しかし今後は忘れずに、谷相の先祖から伝えられた「おせち」を、葉子と一緒に、子供たちにも、しっかりと伝えておきたいと思っている。