尾池和夫の記録(203) 天眼 京都新聞 第21回(2018年11月11日)-第30回

天眼 第21回  ジオパークの吟行    尾池和夫(地震学者)
 本州から太平洋に注ぎ込む川は多いが、北へ流れる川は、伊豆半島の狩野川だけである。伊豆半島に聳える天城の山々から、湧水や滝や渓谷などの景観を持つ32本の支流を束ね、富士に向かって北へ50キロ流れて駿河湾に注ぎ込む。流域面積は、852平方キロの一級河川で、流域は、沼津市、三島市、裾野市、御殿場市、伊豆の国市、伊豆市、清水町、函南町、長泉町の6市3町である。
 日本ジオパーク委員会の初代委員長を2008年以来10年間つとめ、ようやく2代目委員長中田節也さんに引き継いで、私はこれから日本にできた9地域のユネスコジ世界オパークと、35の日本ジオパークを訪れて俳句を詠むという目的で、ジオパーク吟行を続けることにしている。
 この10月には伊豆半島ユネスコ世界ジオパーク吟行を実行した。冒頭部分は、この吟行の最初の部分の記録である。2日間の吟行は、東海道新幹線三島駅から、バスを仕立てて狩野川に沿って始まる。そして2日目には、狩野川がなぜ北へ流れることになったのかを、理解できるようになって三島駅に戻るのである。
 私はジオパークの目的を「見る、食べる、学ぶ」と言ってきたが、伊豆半島を訪れるのにこの時期を選んだ最大の理由は、ジオパークの重要な要素である「食べる」ということにあった。少なくとも私の動機がそれであった。目的の食材は、9月17日に監禁となる伊勢海老である。実際、夕食に1人1匹の伊勢海老が出てきた時には皆が歓声を上げた。
 この吟行では、松崎の「御宿しんしま」に宿泊して伊勢海老を食べた。それには重要な理由がある。この宿の主人佐野勇人さんが積極的にジオパーク活動を進めている名ガイドの1人であるという理由である。また、彼は旅行会社を持っており、西伊豆では不可欠なバスの旅を総合的に設計してくれる。
 三島駅から徒歩1分の楽寿園では富士の溶岩流の末端を、韮山反射炉では世界産業遺産を見る。黄金崎では夕日に照らされて黄金色に輝く絶景、浮島海岸ではゴロ石の海岸と柱状節理、伊勢海老のご馳走の後は、松崎の夜の海鼠壁が並ぶ街を歩く。
 翌日は龍宮窟で海底火山の地層の浸食を見学し、ペリーロードから仙了寺へ歩いた。白濱神社では2400年以上の歴史と樹齢2000年の巨木の雰囲気を感じた。白浜にはジオ菓子旅行団の鈴木さんが商品のジオ菓子を車で運んでくれた。釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝に七福神が対応するという河津七滝の一部を歩き、天城山中では伊豆半島の北上で隆起した伊豆半島南部の地形を知る。そして天城が高くなって、狩野川が北へ向かわざるを得なくなった伊豆南部の隆起活動を理解するのである。


天眼 第22回  生涯学習の時代と通信教育    尾池和夫(地震学者)
 平成28年5月30日に中央教育審議会の答申の第二部で、「生涯学習による可能性の拡大、自己実現及び社会貢献・地域課題解決に向けた環境整備について」が提言されて、広く生涯学習のことが議論される世の中になっている。ここでいう生涯学習は、あらゆる学習を指している。学校、家庭、社会での学習、文化、スポーツ、レクリエーション、ボランティア活動や趣味、さまざまな場と機会での学習のことを指している。そして、人々が自由に機会を選びながら学ぶことができること、その成果が評価される社会を指して、「生涯学習社会」と呼ぶとされている。
 私のいる瓜生山学園は、このような生涯学習のニーズに応えることができる学園であることを目標としており、2019年4月から、いよいよ本格的に、1歳から96歳が学習する学園という姿を実現する。1歳からというのは、認可保育園こども芸術大学で、1歳児10名を含む定員60名のスタートである。小学校と中学校は義務教育の場にお任せするとして、中学校を卒業すると、京都造形芸術大学附属高等学校の通信制課程が、今年4月に開校する。大学附属の新しい通信制高校(普通科)が始まる。そこを卒業すると京都造形芸術大学であるが、そこにも通信教育部があって、卒業生の最高齢は96歳である。このように、まさに1歳から96歳と言える体制が整ったと言える。大学を出ると大学院へ進学するが、大学院でも多くの社会人学生が学習しており、学位論文の仕上げに忙しい毎日である。
 私も毎年学生たちの相手をして講義を実施しているが、そこでは「自然と芸術」をテーマにしながら、自然科学の最新の知識を学び直しつつ芸術やデザインの分野に活かしてもらえるように心がけている。大学入学の18歳の世代の学生には、これからの21世紀に活躍するためには、必要に応じて学習を繰り返すための能力、つまり生涯学習する能力を身につけて卒業してほしいと願っている。そのためには結局重要なのは基礎学力である。
 江戸時代の終わり頃、日本には全国で1万5千と言われる寺子屋などの教育組織があり、就学率は40%台、江戸では70%以上であったと言われ、日本の教育レベルの高さは相当なものであった。武士には藩校という制度もあった。読み書きを習い武芸を学び四書五経などの儒学を修めた。これらの学習による基礎的な学習能力が、新しい世の中に対処しながら急速に発展する力となったことは間違いない。
 目先だけの選択と集中という近視眼的な政策を排除して、広い分野に視野を持ちつつ、基礎学習の場をしっかりとかためて置くことは、社会にとって常に重要であり、その上に自分の再教育の場を用意しつつ、生涯学習を心がけるということが大切である。これからの世の中にあっては、とくに新しい研究論文を読んで理解しながら、バランスの取れた最新の科学の知識をもとに、新しい技術を正しく取り入れていくことが、持続可能な地球社会の共存のために最も重要なことである。


天眼 第23回  入院退院のくり返し    尾池和夫(地震学者)
 自分のことを「高貴好例者」と称して笑っていたが、最近、老化現象がさまざまな形で具体的に現れてきた。京都大学医学部附属病院に毎月のよう入退院を繰り返しており今まだその最中である。
 昨年末、二つのことが気になってきた。まずは目である。少し見えにくくなってきたように思って眼科を受診して、白内障の手術は早めがいいと聞きますがと訴えると、検査の結果を見て、医師はまだ手術しなくていいと判断し、今後も定期的に調べることになった。
 その次は鼠径ヘルニアである。数年来、右の下腹部に腸が飛び出してくる現象があり、最初の内は押し込んでおいて仕事していた。大学の講義で一時間以上立って話していると、それがどんどん出てきて、ついに痛みを感じるようにまでなった。歩いていても出てくる。そこで、消化管外科の医師に診ていただくと、早めに手当てした方がいいという結論になった。時間経過でも薬剤投与でも治る可能性はないという。放置しておくと押し込んでも入らない状態になって命取りにもなるという。この戻らなくなった状態を嵌頓と呼ぶと、新しい単語を一つ覚えた。手術するのに四日は入院が必要というのでその日程を探して手術の実施が今年の二月なった。
 節分の二月四日に入院したが、かつて自分が任天堂の山内さんと並んで起工式を行った積貞棟の六階に入院できて、とてもうれしかった。四日の昼食には大好物の酢豚が出てきて、これもうれしかった。夕食は鯛の煮付け。五日の八時半に深呼吸して目が覚めて妻に聞くと昼過ぎだった。酸素マスク、二種類の点滴、心電図のケーブル、尿管を付けたままで移動するが、途中の窓からの景色がよかった。夕方には尿管をはずしてもらって点滴しながらではあるが動けるようになって、春節の様子を見た。咳をするとお腹中が痛い。
 四日間で退院して、次の日には約束通り東京へ新幹線で移動し、有楽町の日本倶楽部で講演した。さすがに椅子を用意してもらったが、その状況の説明に、へそからカメラを入れて、その両側の穴から入れたマジックハンドを、モニター見ながら操作して八センチほどのメッシュで下部の穴を覆うという手順を、講演の最初に詳しく話した。結局は医師の判断で左右とも処置をして、今日は東京という話に、78歳の私と同年代の皆さんが一番関心を示していた。講演の主題は、2038年の南海トラフの巨大地震の発生を、それを予測した自分の目で確かめたいので、老化現象を修復して100歳を迎えたいというものである。
 その後、体重が増えて心房細動がひどくなり、ついに三月八日の早朝、救急外来を訪れ、緊急入院して心不全の手当をすることになってしまった。頻脈を点滴で抑え、利尿剤によって体重が八キロ減って浮腫がなくなり、一一日には正常洞調律になって、一二日に退院し、卒業式には式辞や祝辞を述べることができた。今回は「洞調律」という単語を新しく覚えた。
 四月にはまた入院して、心房細動を防ぐために、カテーテルアブレーションを実施するという予約をしてある。四月初旬には入学式の式辞と祝辞がたくさん予定されており、それを済ませての入院であるが、また続きをここでも報告させていただきたいと思っている。


天眼 第24回  心臓のアブレーションと新元号    尾池和夫(地震学者)
 前回、2月と3月の入院のことを紹介して、さらに4月の入院の報告を書くと述べた。いくつかの入学式の式辞や祝辞の後、4月11日に京都大学医学部附属病院に予約入院し、12日に心臓のアブレーション治療を受けた。心臓の2か所を焼いて終わり、16日に退院してすっかり元気になって活動している。つまり心房細動がひどくて心不全で3月に呼吸困難になった原因がなくなったのである。この治療法の成功率は、80パーセント程度だというが、今のところ成功の方に入っている。ただし、酒を呑んでどうなるかは確認していない。
 その間、元号が令和に変わった。入院中にこの元号のことをいろいろ調べていたので、そのことを記録しておきたい。まず、張衡の『歸田賦』のことである。入院中に中国の友人から教えてもらった。
 張衡は後漢の政治家、天文学者、数学者、地理学者、発明家、製図家など、広い分野で優れた才能を発揮した人であり、文人としても優れていて賦や絵画の名品を残した。私が1974年に初めて中国を訪ねたとき、北京の歴史博物館で張衡の像と彼の発明による候風地動儀の模型を見た。張衡は、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風儀と呼ばれる風向計なども発明したが、何と言ってもこの候風地動儀(132年)、つまり地震計が興味深い。2メートル以上ある背の高い壺の形で、微弱な揺れで中の柱が倒れると竜が口を開け、玉が下の蛙の口に落ちてガランと大きな音を出す。
 ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の揺れを感知した。人々は揺れの体感がなかったので疑っていたが、数日後、甘粛からの使が来て、地震の発生を報告し、地動儀の正確さが確認されたという。
 文人としての張衡は賦の名手であった。その作品の中に『歸田賦』がある。6世紀、梁の昭明太子編纂の『文選』の巻十五の「志」の部に収められている。帰田というのは、官職を辞し、郷里の田園に帰って農事に従うことである。その中に「於是仲春令月、時和氣清、原隰鬱茂,百草滋榮」とある。そこに「令和」の字がある。もちろん大宰府の大宰帥であった大伴旅人もこれを読んでいたと思う。その大伴旅人による「梅花の歌の部」の序文が「令和」の典拠とされた。
 一方、菅原道真はこの張衡の地動議のことを学んでいたことが官吏の登用試験の解答からわかっている。道真は後に、左大臣藤原時平の讒訴によって大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没したのであるが、道真は宇多天皇に重用されて、寛平の治を支え、醍醐朝には右大臣に登用され、その在任中に、「地震」というカタログを編集した。
 彼の登用試験の直前、869年(貞観11年)に三陸沿岸の大津波を起こした貞観の巨大地震があった。その前には富士山の噴火もあり、今の青木ヶ原樹海の場所ができた。そして887年(仁和3年)には五畿七道を揺るがす南海トラフの巨大地震が起こった。南海トラフの巨大地震の歴史を見ると、仁和、康和、昭和など和がつく元号のときが多い。次は2038年ごろと予測されているから、やはり東北の巨大地震のしばらく後、令和の時代にも南海トラフの巨大地震が起こることになるのだろうかと思う。

天眼第25回  2019年8月25日  大学の基本理念とは   尾池和夫(地震学者)
 京都五山の送り火の日、瓜生山学園では十三重石塔前に教職員が集まり、僧侶の読経で法要を毎年行う。その焼香を済ませた後、大学の歴史をあらためて思い返してみた。
 日本の大学には、国立、公立、私立の3つがあり、私はそれぞれに関わってきた。京都大学第24代総長をつとめ、今は奈良女子大学の経営に関わる。公立では、静岡県公立大学法人理事長、高知県公立大学法人理事をつとめ、私立では学校法人瓜生山学園京都造形芸術大学の学長を務めている。それぞれの特長を大切にして活かすことを考える。現在、国立大学は予算の削減で危機に立たされている。公立大学は自治体の方針で特徴が決まる。私立大学は学校法人が経営するが、高等教育を担うので国の交付金が支出される。
 京都大学では国立大学法人への移行のときを担当した。法人化に備えて学内の委員会で基本理念が策定されたとき、ありがたいと思ったのは、京都大学に「自由の学風」という、外部から認められた言葉があったことである。
 私は「京都市立芸術大学のあり方懇談会」の座長を務めたことがある。公立の強みを活かすために、将来とも財政的な圧迫のないようにと市長に強く申し入れた。公立大学では、例えばこのように「京都市立」という明確な言葉が大学の名前に入っていて、そのこと自体が揺るぎない設立理念を物語っている。この大学の歴史の中では「美術」から「芸術」に名称が変わったりしたが、この「京都市立」だけは他の大学に真似のできない強い言葉であり、受験生はそれをよく理解していて進学先に選ぶ。
 私立大学には一般に設立の理念がある。2013年、京都造形芸術大学の学長に私が就任した直後、「藝術立国之碑」が学園内に建立された。そこには「天地人」の思想が表現されていると私は解釈している。1977年、初めての入学式で式辞を述べたのは、私が京都大学に入学したときの総長と同じ平澤興であった。その時、大学の名は「京都芸術短期大学」であり、創設者の徳山詳直は、この「短期」を外すことに熱意を抱いていて、1991年、開設時の造形芸術学科の名を取り込んだ「京都造形芸術大学」という4年制大学に転換した。そして今では、17学科を持つ大学となった。
 初めての外国人留学生を京都芸術短期大学に迎えたのは1980年であった。自ら西安へ出迎えに行った徳山詳直は、洛陽から上海に向かう列車の食堂で入学式を行った。「芸術で人類の平和に貢献する」という徳山詳直の言葉を、その時の留学生の一人である党晨は鮮明に覚えている。この理念は「藝術立国」と「京都文藝復興」に残されており、「京都」と「芸術」という言葉に「平和」を加えて、大学の中でさまざまに反映されている。
 西北大学の美術館には最初の留学生の一人、岳鈺の名を冠した美術館がある。2017年、私は西安での同窓会に参加した。そのとき、私は東洋の「天地人」の考え方を基に、大学の未来を考えたいという思いをますます強くした。その中心に置くのは、日本で独自に発展した絵画、西域を通して日本の雅楽に伝わる音楽、表意表音文字の漢字を中心とした書、そして茶道や華道や武道の精神であると思った。それらを将来像に描いて特徴を持たせることによって、芸術分野の他の大学と明確に住み分けていくことができると確信している。


天眼第26回  2019年月日  伝わるということ   尾池和夫(地震学者)
 2019年9月15日、京都で日本地震学会と京都大学防災研究所が主催して、「平成の大被害地震を振り返る」という公開セミナーがあった。そこで私は「1995年兵庫県南部地震と西南日本の地震活動期」という題で話した。私の次に、東北大学の松澤暢教授が「東日本大震災が地震学に与えた衝撃と教訓」、京都大学の西村卓也准教授が「西南日本の地殻変動と熊本地震」という題で最新の話をした。多くの市民が参加したが顔なじみも多かった。
 平成の大震災について、私は事例を挙げて、いかに伝わらないかということを紹介した。まず、1995年兵庫県南部地震では、1974年の「神戸と地震」という神戸市の調査報告と、そのことを書いた1974年6月26日の神戸新聞夕刊の記事である。報告書のまとめには、「活断層の実在するこの地域で、将来都市直下型の大地震が発生する可能性はあり、その時には断層付近でキ裂・変位がおこり、壊滅的な被害を受けることは間違いない」とある。これほど断定的な表現が自治体の報告書に書かれること自体が珍しい。また、初めて「活断層」ということばが自治体の報告書に使われたと思う。震災の年の1月8日の神戸新聞の「正平調」の記事には、京大の尾池のことがあり、「京阪神には活断層も多いから、いつM7級が起こってもおかしくない、という」とある。神戸新聞の2つの記事はいずれも1面の記事であるが、震災の後、神戸の多くの人が「まさか神戸に・・」と語っていた。
 東日本大震災のあと、これは貞観の地震の再来だという人が多かった。私はそれに関連して祇園祭の起源を調べて「天眼」の第4回に紹介した。祇園祭の起源の御霊会が、祇園社の名で明確に記録されているのは、貞観11年6月7日で、多賀城の5月26日の津波災害から10日目になる。菅原道真は、貞観12年に方略試(議政官資格試験)を受けたが、その試験の前年に貞観地震が発生した。このころ日本列島で、地震や噴火が目立っていた。その時代の大都市は京都の他では多賀城と太宰府であった。その大災害を契機に祇園祭が今でも行われているが、貞観の大津波のことが祇園祭で語られることはほとんどない。
 私の熊本市での講演は2013年10月24日だった。「小さな地震が起こり始めており、大きな地震の前触れかもしれない」とデータを見せながら話した。同じ講演を八代市でも行った。「不知火や日奈久断層不気味なる」という俳句を『氷室』に掲載したのが2012年10月号である。熊本県は、明治の熊本地震の詳細な報告書を作成していた。くまもと文学・歴史館に展示されているが、知事もそれを今回の震災まで知らなかったという。
 直前の新聞記事であっても、長い歴史を持つ有名な行事であっても、その内容と意味が多くの人にはほとんど伝わっていない。しかし一方、「此処より下に家を建てるな」という碑文を重視して命を守った重茂の人たちが知られている。また、神戸の地震の前、私の講演を聞いた後、地震保険の契約を懸命にすすめたという損害保険の代理店の方がいたことも知っている。対人口比から見れば震災による死者の数は時代とともに減っているという見方もあり、それなら警告は伝わっているのかもしれない。次の南海トラフの巨大地震は、2038年12月に起こると私は思っているということを、今回の講演の最後に話した。そのときどれだけの方がそれを思い出してくれるのだろうかと思いながら帰途についた。


天眼第27回  2020年1月12日  放射性廃棄物の処分場   尾池和夫(地震学者)
 日本列島は中緯度にあって四季折々の変化に富む。日本の国土は東西南北のずいぶん広い範囲にある。国土地理院(令和元年6月1日更新)によると、日本の最北端は、択捉島のカモイワッカ岬で、日本が領有権を主張している範囲の最北端である。現在の施政下での最北端は弁天島(北海道稚内市)であるが、宗谷岬沖の岩礁であって通常の交通手段では近寄れない。最南端は沖ノ鳥島の北小島にある数10cmの露岩二つの島である。最東端は南鳥島の坂本崎で、島に施設を持つ海上自衛隊と気象庁の職員と工事関係者などに限って特別な許可のもとに上陸する。最西端は、トゥイシ(沖縄県八重山郡与那国町)で、与那国島の沖合にある岩である。
 このように、南北に約25度、東西に約31度という範囲に列島が展開している。この中の最東端に関連して、核燃料物質の問題を考えてみたい。人類が作り出した核燃料物質は、人類に対しても大きな影響を及ぼしている。
 NHKニュースで以前、放射性廃棄物を地下5000mで処分することを目的に、海洋研究開発機構(JAMSTEC)が、南鳥島で調査研究を検討しているという話があった。原子力発電環境整備機構が、日本列島に「広く存在」する地層処分に適した地域の安全性を確かめるための研究を進めているというが、多くの地球科学分野の研究者が疑問を持っている。安定した大地が日本列島に「広く存在」するとは科学者は思っていない。唯一、国土の中で安定した大地があるという認識が、JAMSTECの考え方の基本である。
 南鳥島の特徴を列挙してみたい。この島は太平洋プレートに属し、地球表面に沿って延々と移動して来た海底に載っている島である。今後も太平洋プレートとともに移動して、フィリピン海プレートの下へ沈み込む。南鳥島の位置は太平洋プレートが生まれて約一億五千万年経過しているので十分冷たい。この島は白亜紀から新生代初期の火山活動で生まれたが、マグマの活動は完全に終わっている。世界で最も安定した海洋プレート上にある日本の国土である。
 太平洋プレートを処理場として選ぶことは、大地の安定という条件から見て、変動帯に生まれた日本列島を国土とする日本にとって、唯一の期待できる選択であることはまちがいない。また、一般の市民がいない島であって、政界の誘致運動などから距離を置くことができることも重要である。
 南鳥島には、日本列島のほとんどの地域にある火山の噴火、活断層の活動による地震の発生、地すべりなどの変動帯特有の現象がない。直下に起こる現象による災害は発生しない。海溝の大規模地震で津波が起こると、それが海を伝わって南鳥島にも到達するから、その予測と対策はもちろん必要である。
 太平洋プレートの移動は急に変わることはない。南鳥島が太平洋プレートとともに地球内部へ潜り込むまでにはまだ約100万年ある。核ゴミの処理が技術的に可能となるまで、保管しておくとい考えが成り立つ。外国の企業が金目当てに日本の核ゴミの処分を提案する可能性も高く、それはたいへんな危険を伴う。あくまでも安全に、この重要な仕事を日本自身が行うためにも、一度この処分場を提案しておきたいと思った。


天眼第28回 2020年3月22日  大学の危機管理とは何か  尾池和夫(地震学者)
 感染症で4月からの授業開始を延期することを決めた。その会議の後、学長室に「天眼」仲間の京都産業大の永田和宏さんが訪ねてきて、大学のことをさまざまな視点から議論する機会ができた。大学に関連する危機管理の話題も出た。永田さんも産大の教授会で、「大学では、いい研究があってはじめて、いい教育ができる」という発言をしてきたと言われ、素晴らしい言葉だと感銘を受けた。こういう教授がいれば、大学は学問の砦としての役割を果たすことができると確信した。
 大学でも、時には短期的に危機に対処する必要が生じる。今、感染症対策を意識して仕事している立場で、危機管理ということについて考えている。危機管理という言葉は、1950年代に経済界の概念として、リスクマネジメントという考えがアメリカ合衆国から入ってきて使われ始めた。70年代には広く「危機管理」という語で、経済以外の防災、防犯などにも用いられる言葉となった。さらに80年代には安全保障にもこの用語が用いられるようになった。防災の課題で外国に調査に行くと、地震災害の対策本部が軍隊の中にあるのが日本と異なる。戦争も震災も同じように災害なのだという概念が世界の通念である。
 日本では、危機管理と言うとき、クライシスマネジメントの概念も含んでいる。これは、危機が発生した後の対処方法の概念である。対して、リスクマネジメントは、危機の発生を予防するための分析方法などの概念が中心となる。
 一般市民にとっては、危機と言えば、到底、管理できるような事態ではない。想定外の災害が発生することを思い浮かべて「危機対応」と言う方がいいように思う。予想外の事態が発生した時点で、どう対応するかを自分の知識を基にして決断しなければならないが、それは事態に直面した人の立場によって異なる。私は大学の学長の立場で、感染症の発生状況を見ながら対応を決断する。今回、卒業式は中止せず、代表に学位記を授与して式辞を述べ、それを映像で中継し、窓を開放した教室で見てもらった。卒業生は晴れ着姿で式場の看板と並んで記念写真も撮影できるようにした。卒業生1人ひとりにとって学位記授与は一生一度の式典である。一方、通信教育部の卒業生は全国から集まるので、中止とは言わず延期して夏にやることした。対して入学式は中止しても、インターネットを通じてでも、授業が始められれば十分であるという判断となった。
 永田さんと同時に来た京都大の教授も加わり、三人で議論していてふと思い出したことがある。京都大総長に選ばれたとき、私は首相官邸に危機管理の専門家を訪ねた。私は彼に、大学の危機にはどうすればいいかと質問した。彼は、危機の時に何を守るかを明確にすることが重要と教えてくれた。そこで私は、大学の危機には学生を守ると心に決めた。今でもそれは私の基本的考えとなっていて揺るぐことがない。
 今、学問の砦であるはずの日本の大学は、じわじわと迫る危機に見舞われている。短期的な評価をもとに研究費が削減され、若者がじっくりと学問に取り組むことができない状況が続き、国の根本が揺らいで、諸外国に大きく遅れている。今、永田和宏さんのような本物の研究者が学問の砦をしっかりと守って居て、若者が憧れて集まるような仕組みが日本の危機を救うことになるのだと、入構制限下の静かな学長室で私は考えている。


天眼第29回  2020年5月24日  角大使と狛犬とアマビエと  尾池和夫(地震学者)
 アマビエの塗り絵が京都芸術大学マンガ学科の卒業生から送られてきて、色を塗って窓に貼った。アマビエが流行するのは史上4回目だという。数人に塗り絵を送ったら先斗町の方から角大使もいいよというコメントが返ってきた。良源大僧正が祈祷する姿を描いた魔除けのお札が都の疫病を治めたという言い伝えがある。角のある夜叉の姿であることから角大師(つのだいし)と呼ばれる。こちらは以前から窓に張ってある。
 厚生労働省は、公式Twitterで新型コロナウィルス感染拡大を防ぐ啓発画像としてアマビエを起用した。また、水木しげる記念館の入り口に展示された妖怪「アマビエ」のパネルが話題になった。水木しげるの作品を扱っている「水木プロダクション」が、水木さんが生前に描いた妖怪の姿を「現代の疫病が消えますように」という言葉とともに掲載した。アマビエの元となる資料は、京都大学附属図書館にある。弘化3年4月中旬(1846年5月、江戸時代後期)に刊行された木版画である。歴史的仮名遣では「アマビヱ」であり、俳句に詠むときにはこちらを使う。アマビエは、光り輝く姿で海中から現れ、豊作や疫病などの予言をすると伝えられている。水木しげるの妖怪もそれに基づいて描かれている。同種の妖怪には、尼彦、あま彦、天彦などがあるという。
 水木しげるの作品では、アマビエが点描で描かれ、原典に近い姿である。テレビアニメでは『ゲゲゲの鬼太郎』の第5期に準レギュラーとして登場した。閃いて予言するが、すぐに起こる出来事の予言であったり、どうでもよい出来事の予言であって、ほとんど役に立たない。海中の中でひとりぼっちで暮らし、気ままなアイドル的性格で、鬼太郎たちと暮らすうちに他者を思いやる心が育まれ、占い師を開業した。
 今年は、春の風物詩である都をどりも鴨川をどりも中止になった。疫病と三陸巨大津波で始まった祇園祭の山鉾巡行も中止である。京都芸術大学の学生たち力作の都をどりの看板も、南座を飾ることなく、人のいない大学のロビーに展示されていた。
 こんな時に複合災害があると厳しい。日本は変動帯であり、例えば今、松本付近の群発地震が活発化しているが、それが焼岳の噴火につながるかもしれない。念のために魔除けをもっと用意した方がいいかもしれないと思っていたら、沖縄にいる卒業生からはアマビエシーサーの画が送られてきた。阿吽の組になっていて華やかである。狛犬も入構禁止の大学の入り口に座って京都盆地を見渡している。こちらは比叡山延暦寺に置かれていた「KOMAINU」で、10人の学生とヤノベケンジ教授の制作である。
 京都新聞によると、アマビエは和菓子や苺パフェにも登場しているという。祇園祭の山鉾巡行はなくなっても、祭そのものは厳かに執り行われて、疫病の退散が祈願される。八坂神社には3月から茅の輪が用意されていて、多くの人たちが距離を保ちながらくぐっている。寺や神社では、お札やお守り、御朱印などのデザインが工夫されていて、多くの場合、インターネットで注文できる。妙心寺退蔵院では、オンラインの法事も試みられている。食材も除菌剤も自宅にいて届くようなSNSの世の中になった感がある。大学の授業もインターネットで行われる。しかし、やはり五感を駆使した学習ができる環境が、早く大学に戻ってきてほしいと、魔除けの効果を期待している毎日である。


天眼第30回 2020年7月26日  トンネルと水と地震と  尾池和夫(地震学者)
 川勝平太静岡県知事と話していて、私がずっと気になったままになっていることが思い出された。伊豆半島の付け根にある丹那トンネルのことである。そのトンネルの歴史をまず簡単に書いておく。建設開始が1918年(大正7年)、完成が1933年(昭和8年)で、鉄道が開通したのは1934年(昭和9年)12月1日であった。全長7804mの複線である。その後、新丹那トンネルの工事が1941に始まり、中断の後1959年に再開されて1964年に完成した。
 トンネルの真上には丹那盆地があり、地下に大量の地下水を溜めていて、丹那トンネルの掘削は大量の湧水との戦いであったと記録されている。トンネルの先端が断層に達した際、トンネル全体が水で溢れるほどの湧水事故が発生した。多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いた。水抜き坑の全長は本トンネルの二倍に達し、排水量は六億立方メートルに達した。箱根芦ノ湖の貯水量の三倍とされている。
 トンネルの真上の丹那盆地では、トンネル工事の進捗とともに水不足となり、灌漑用水が確保できず飢饉になった。丹那盆地では、稲作と清水を利用した山葵栽培が、かつては行われており、副業で酪農も行っていた。現在も丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、昔の豊富な湧水は丹那盆地から失われたという。丹那盆地の水田と山葵田は消滅し、酪農が主要産業となった。
 1930年、西から掘っていたトンネルが、明瞭な断層に到達し、断層を突破するため、数本の水抜き坑が掘削されていた時、マグニチュード7.3の北伊豆地震が発生した。ある水抜き坑で、切羽全体が横にずれ、坑道一杯にピカピカの断層鏡面が現れた。吉村昭『闇を裂く道』にその時の状況が詳しい。断層が動いて東側が西側に対して、北へ2mほど移動し、直線で設置する予定の東海道線のルートが、S字型に修正された。
 地震後の調査で見つかった地震断層は長さ約35kmあり、上下に2.4m、水平左ずれ2.7mのずれが確認された。丹那断層は国の天然記念物に指定されており、現在でも二か所で保存され、観察することができる。その後、東京大学地震研究所などによる1985年までの発掘調査で、丹那断層は過去6000年から7000年の間に小さい活動も含めて9回の断層活動があったことが確認された。一方、歴史資料によると、841年前半(承和8年以前)に伊豆でマグにチュード7の地震があり、これが丹那断層の大規模な活動であると見られている。掘削調査の分析からは室町時代前後にも1回の大地震があった可能性が指摘されており、いずれにしても、日本の他の活断層に比べるとずいぶん短期間に次の大地震が起こったことになる。
 1930年の本震の前には前震活動があり、その他にも、発光現象、地鳴りなどの宏観異常現象があった。丹那断層の大地震の発生間隔は、日本の活断層の中では短い方であるが、それでも1930年の地震は早すぎるという疑問がある。丹那トンネルの掘削により大量の水抜きで地下水に異常を生じ、それが引き金になって大地震を早めに引き起こしたと考えられる。地下の水の動きが地震発生の引き金になった多くの例が知られている。同じような仕組みで、大量の地下水の移動が大地震発生の引き金作用となりうるという仮説のもとに、北伊豆地震のことをさまざまな視点から見直してみることが重要ではないだろうか。