今回の左京区は岡崎からちょっと北側に位置し
京都の名菓八つ橋発祥の町聖護院をぶらりして
来ました。

帰りには当然八つ橋を買って家で茶を飲みながら
八つ橋を食ってブログを更新しています。その
聖護院に古くから天皇家から庶民に至るまで深く
信仰されてきた神社が有ります。

熊野神社は平安時代の初め修験道の日円上人
によって熊野三山の祭神を勧請し創建したのが
始まりで

祭神には我が国最初の夫婦神である伊弉冉尊
(いざなみのみこと)伊弉諸尊(いざなぎの
みこと)と天照大神(あまてらすおおみかみ)
速玉男尊(はやたまのみこと)事解男尊
(ことさかのをのみこと)の五柱の神を祀り
縁結び、安産、健康長寿の御利益があるとして
信仰されています。

神社の正面入り口には階段が有り、東側の入り口
にも小段の段差が有る為車椅子を利用しての参拝
は難しいかもしれません。

境内に入ってしまえば略石畳になり車椅子での
参拝は可能なのですが。

又、熊野神社は京都三熊野、当社・新熊野・
若王子社の中の一つであり最古社です。
平安末期に熊野詣でが流行った際、後白河法皇は
度々熊野御行(熊野詣で)を行なうとともに
当社を厚く崇敬し、社頭の整備に力を注ぎました

室町時代には足利義満から広大な社地が寄進され
ましたが応仁の乱により荒廃します。再興された
のは江戸時代の初め聖護院宮道寛法親王によって
大修造が行われ、現在の本殿はその時に下鴨神社
の旧本殿を移築したものです。

大正時代に入ると市電が丸太町通りを走る事に
なり、東大路通の拡幅等も重なり現在の社域と
なった様です。

御神鳥が 八咫烏(やたがらす)であることから
勝利に導く幸運のシンボルとして日本サッカー
協会のシンボルに使われる様になった事でサッ
カーをはじめ、球技愛好者が全国から訪れて
います。

境内には八つ橋発祥の記念碑もあり、神社と
隣り合う様に八つ橋の老舗西尾八つ橋熊野店も
あります。

熊野神社の大きな地図はこちらから
熊野神社のページはここから見れます

京都観光の定番土産と言うと八つ橋ですが、
この八つ橋の発祥地が聖護院の森と云われ
現在の(金戒光明寺)の参道に構えた茶店にて
供されたのが始まりとされています。

こちらが老舗西尾八つ橋の本店になり規模の
大きさでは一番になるのでは?お食事処・甘味処 西尾八ッ橋の里」として2012年、「京都市民が選ぶ 京都の財産として残したい京都を彩る建物や庭園」に指定されました。


こちらが聖護院八つ橋本店になります。
こちらも老舗中の老舗歴史はほぼ同じぐらい
創業320年以上の老舗、最近聖護院八つ橋は
新たな八つ橋を目指すブランドニキ・ニキを
スタートして評判となっています。


八つ橋の生地は生八つ橋の生地ですが形は飴細工
のような人形の形に色んな形に形成され、その
デザインが可愛い過ぎるとしてヤング層に大受け
しています。


ネットでも見ることが出来るのでnikiniki で
検索して画像を見て下さい。


八橋は当初「堅焼きせんべい」と呼ばれ、米粉
砂糖・ニッキを混ぜて蒸し、薄く伸ばした生地を
焼き上げた堅焼き煎餅の一種でした。



その後、生地を蒸しただけで焼き上げず餡を
入れた「餡入り生八ツ橋」が考案され現代では
生八ツ橋の方が人気になっています


最近ではより多種多様な種類が作られ、生地は
通常のニッキの他、抹茶や胡麻を混ぜたものが
あり、餡も通常の粒あんのほかに果物やチョコ
の餡を用いるものも出て来ています。


聖護院八つ橋を東に行った所に地名ともなる
大きなお寺、聖護院門跡が有ります。

聖護院(しょうごいん)は本山修験宗の総本山
寺院であり聖護院門跡とも称する日本の
修験道における本山派の中心寺院です。

平安時代(後白河天皇の子)が宮門跡として
入寺して以降、代々法親王が入寺する門跡寺院
として高い格式を誇った聖護院は、江戸時代
内裏炎上に際し2度の仮皇居となりました。

境内は入り口玄関までしか入る事が出来ず、
拝観は予約制となる為、内部の画像は御座い
ませんあしからず。

皇室と深い関わりを持った事で現在は「聖護院
旧仮皇居」として国の史跡に指定されています。

明治までは、当時西側から鴨川にかけて
(現京都大学病院)聖護院の森が広がっていた
事から「森御殿」とも呼ばれました。

聖護院の森は紅葉の美しさから「錦林」とも呼ばれ、現在も「錦林」の地名は聖護院の東で使われています。

聖護院の大きな地図はこちらから
聖護院門跡のページはここから見れます

この聖護院を東に行くと聖護院の塔頭で積善院
準提堂(せきぜんいんじゅんていどう)が有り
ます。

ここに恐ろしい名前の御地蔵様が祀られている
のです。

その名は「人食い地蔵」と言いますが、これは
あくまで通称で正式な呼び名ではありません。

積善院準提堂は聖護院門跡の塔頭になるお寺です
元は本山派山伏の筆頭寺院であった積善院が
準提堂と合併し大正3年に現在の地に移転した
ものが積善院準提堂になります。

準提堂を本堂とし準提観世音菩薩と不動明王の
二躰を本尊とし、その西側に元積善院の本堂が
あります。その北側境内の奥に通称人食い地蔵と
称される「崇徳院地蔵」がひっそりと他の地蔵と
並んで祀られています。

崇徳院地蔵と名が有るのになぜ人食い地蔵と
呼ばれる様になったのか?これは崇徳院が
「ひとくい」に転訛して呼ばれ、単に訛った
発音が崇徳院→人食いになっただけだったのです

境内は略砂利敷と石畳が敷かれ崇徳院地蔵に
至る通路が少し狭くこの様な石敷になって
いました。介助者が有ると大丈夫だと思われます

崇徳院は平安時代後期に鳥羽天皇の第1皇子に
生まれて父・鳥羽上皇と対立したことで讃岐国に
配流され、その地で没しています。

死後、その怨霊は長きに渡り恐れられ今尚も
崇徳院の魂を静める為の神社・祠が京都中に
のこされています。

更にその側には「お俊伝兵衛恋情塚」と言われる
供養塔が有ります。これは、江戸時代の呉服商・
井筒屋伝兵衛と先斗町近江屋金七の抱え遊女お俊
が添えないために聖護院の森で心中しその2人の
墓(恋情塚)というものです。


この話は後に近松門左衛門の人形浄瑠璃
「近頃河原達引(ちかごろかわらのたてびき)」
の題材になっています。

積善院準提堂の大きな地図はこちらから


積善院準提堂の向かい側には他所とは違い珍しい
節分祭が執り行われる事で知られる須賀神社が
有ります。

須賀神社は平安時代末期美福門院の建てた歓喜
光院の鎮守として創祀されたのが始まりです
祭神は素戔嗚尊櫛稲田比売命を主神に祭り
久那斗神・八衢比古神八衢比売神を加え、
五柱を祀っています。

境内はそんなに広くは無く乗用車が5台位
入れるほどです。地面は全面に砂利が敷かれ
若干足が取られる深さです。

拝殿前には階段が有りますが。

一部石畳が敷かれ車椅子でも拝殿に上がれる
様になっていました。

元は平安神宮蒼竜楼の東北にあったと云い
岡崎の東天王社と相対して古くは西天王社と
呼ばれていましたが相次ぐ戦乱により吉田神楽岡
に転じ、大正時代に聖護院一帯の産土神として
現在の地に移りました。

縁結び、厄除け、交通安全の神として崇敬厚く
普段は落ち着いた雰囲気の須賀神社ですが
縁結びのご利益を求める参拝客で活気づくお祭り
が毎年2月2・3日に行われる節分祭です。

この須賀神社の節分祭はちょっと変わっており
他所とは違うのです。当然この神社でも豆撒きは
行われますが鬼の登場は有りません。


それなのに多くの参拝者、皆さんのお目当ては
「懸想文(けそうぶみ)売り」が現われるから
なのです。懸想文(けそうぶみ)売り?なんだ
それ!


その格好は烏帽子(えぼし)をかぶって水干
(すいかん:昔の衣装)を身にまとい覆面で
顔を隠し目元だけを出していると云うなんとも
怪しげな格好の二人組の「懸想文売り」がこの
時だけ姿を現すからなのです。


文(ふみ)をつけた梅の枝を右手に持ち左手には
懸想文を持って、境内を歩きます。この文は縁談
や商売繁盛の願いを叶えてくれるお守りです。


人に知られないように鏡台やタンスの引き出しの
中に入れておくと好いそうで、着物が増え・容姿
が美しくなり・良縁にも恵まれるのだそうです。


一文1000円で売られ、無くなる前に
何とか手に入れようと若い女の子達がこの
節分祭に押し寄せています。

須賀神社の大きな地図はこちらから


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