病床の訪問記


■賢治を追悼する当時の学芸欄の特集紙面


3年には賢治が肺結核で療養生活に入ったこともあって同協会の活動に終止符が打たれる。
小康を得た6年から賢治は東山町松川の東北砕石工場技師嘱託となり、石灰肥料の販路開拓に奔走する。
しかし、同年9月、上京中に発熱。直ちに花巻に戻り病床に就く。
7年6月13日付では「病める修羅 宮沢賢治氏を訪ねて」とする詩人母木光(雫石町出身)の訪問記を掲載した。
賢治の病勢を気遣いながらも「宮沢氏の存在は、われわれのみの、岩手県のみの祝福であろうか。
(中略)そして沈黙と節度の巨(おお)きさもここまでくれば、たしかに畏怖すべき高価な人間芸術の一つではないか」と評価している。
しかし、この記事について賢治は、交友のあった母木への手紙の中で好意を感謝しつつも「わたしはこの郷里では財ばつといわれるもの、社会的被告のつながりにはいっているので、目立ったことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです」と複雑な心境を述懐している。
「病気もよほどよくなられて今度も生きそうだとのお便り」との消息(7年6月13日付)が載った賢治だったが、ついに健康体に戻ることなく8年9月21日午後1時30分、永眠した。
23日付夕刊は「日本詩壇の巨星墜(お)つ」とする死亡記事を載せている。
その後、同29日付、10月6日付学芸欄で「宮沢賢治氏追悼号」を特集。
「疑獄元凶」(短編の梗概)、『寒峡』巻初の数首について」(花巻市出身の関徳弥の歌集の紹介文)、「春谷暁臥…(心象スケッチ)…」(一九二五・五・一一の日付のある詩)の遺稿三編を掲載した。
森は、昭和3年岩手日報に入社し学芸部記者となっており、遺稿掲載の経緯を紹介する一方、「森惣一」名で追憶記(上下)を執筆。
このほか多くの知人による追悼文や、逝去を悼む佐藤惣之助、高村光太郎らの手紙が載った。
一連の追悼記事は、12月8日付で掲載された賢治の追悼会での母木の講演要旨「ランボオ マラルメと宮沢さん」まで続く。
賢治を慕っていた関は「今にして話しておけばよかりしことつぎつぎ思ひ出でて空しき」などの挽歌20首(10月13日付)を寄せ、読者の胸を打った。