まず「この詩集はいちばん僕を驚かした。
(中略)彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた。
奇犀、冷徹、その類を見ない。
(中略)僕は十三年の最大の収穫とする」との詩人佐藤惣之助の評(同13年12月「日本詩人」12号掲載)を引用した上で、「この本(春と修羅)はいわゆる、具眼の詩人、具眼の大家には実に巨大な刺激を与えたらしい」が「現今の詩壇にはてんで理解されていない」と慨嘆。
「日本現下の詩壇はどうあろうとも郷土の人々だけでも、できるだけ、宮沢さんを理解しようと努め『春と修羅』を読んでほしいものだ」と訴えている。
賢治は13年に童話集「注文の多い料理店」も刊行。
花巻農学校教師を続けながら、草野心平主宰の同人誌「銅鑼」にも多数の詩を発表するなど精力的な文学活動を展開したが、昭和元年3月に農学校を退職。
羅須地人協会の活動をスタートさせた。
同協会の活動について2年2月1日付夕刊は「農村文化の創造に努む 花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立ち返る」との見出しで、賢治の顔写真入りで紹介した。
「羅須地人協会の創設は確かにわが農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目をひいている」と活動を後押しするスタンスで書かれた好意的な記事だったが、社会主義思想の実践と疑った地元署が事情聴取に乗り出す事態に発展した。
前年結成の労働農民党稗和支部に賢治が経済面などで支援していたこととの関連も指摘されている。
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