宗教がないことです。

そう言うと、
「いや、墓参りや初詣などに行ったりするから、宗教はあるでしょう」
というご意見もあるでしょう。

しかし、あるのは形式のみであって、信仰心はありません。

大抵、墓参りなどを行うのは、

「世間がやってるから」
「いいことが起きてほしいから」
「よくないことが起きてほしくないから」

といった理由によるものです。それは信仰心と呼べるものではありません。

キリスト教信者は、教会や聖書などを通じて神と交信して愛を受け、

隣人と分かち合おうとします。
イスラム教信者はアッラーの教えを徹底的に守り、

死後に見返りの幸を受けようとします。

日本人にはそういった敬の対象がありません。
敬の対象もない上に、戦後、GHQにより「自由」と「平等」を植え付けられ、

人間同士の結びつきが弱くなったのです。

その影響は現代において特に顕著であり、数値に表れています。
ネットで調べていただければわかりますので、あえてここで示すことはしませんが、
自殺率と人口減少率が旧ソ連系の国とほぼ同レベルです。

日本はGDPの高い国ではありますが、
実は旧ソ連系の国と同じような問題を抱えているのです。

旧ソ連系は元々共産圏であり、

ソ連の非人道的な政治により国民が人間的精神を失いました。
人間的精神を失うということにより、人間同士の結びつきが弱くなるのです。

人間同士の結びつきが弱いということは、仲間意識が薄く、

ほぼ自分のことしか考えられない生き方をしているということです。

宗教の語源はラテン語で「religio」と言い、「つながり」を意味します。
それは「神とのつながり」に限らず、「人とのつながり」も意味します。
事実、宗教が生活に根付いている国は、自殺率と人口減少率がともに低いです。
GDPが低くても、人間同士のつながりが深くて生き生きしています。

宗教心のない日本人にも、その生き生きする感覚はあるはずです。
佐藤一斎が「胸臆虚明」という言葉を遺していますように、
胸の内がスーッとする境地なら誰にでも経験があるはずです。

例えば、道に倒れている人を助けて、その人が元気になったら、

そういう境地になりませんか?

「ああよかったな。あの人、元気そうだ。本当によかったな」と。
 

そういう境地の確保を目指して生きるべきです。

そうすると、自ずと「religio」が生じてくるのです。神などを信じなくても。

「胸臆虚明」の境地が人を引き付け、

あなたに寄ってくる人がどんどんやってきます。それが「religio」です。


日本人には昔、武士道がありました。武士道は神を信じることなく、

自己犠牲を払ってでも武士の流儀を守り通すというものです。
昔の日本人にはそういう流儀があり、節操がありました。


今の日本人にはそれがありません。

GHQに植え付けられたアヤフヤな「自由」を「放縦」と混同して

惰性的に生きている始末です。

 

だから節操がなく、他人とのつながりをも持とうとしない。

つながりがあると言う人もSNSでつながっている風に思い込んでいるだけであり、

していることは人助けでも何でもなく、観念の遊戯に留まっています。

武士道に生きろとは申しません。
最低限、節操を持つべきだということです。

では、その節操はどうやって作るか?

節操には宗教が要るわけです。

 

とは言っても、宗教は特定の宗教を信仰することに限りません。
宗教の宗は真理のことであり、故に宗教は「真理の教え」を意味します。
真理をつかむには先賢の書を読む以外にありません。

そこで、江戸時代の偉人の生き方を参考にするのです。
彼らが共通して学んでいたのは「論語」です。
明治に作られた教育勅語も「論語」が基本です。

「論語」の要素が身に付くと、自ずと節操ができます。

例えば、巧言令色鮮し仁。(こうげんれいしょくすくなしじん)
体裁ばかりを気にするのは真心がない、ということを意味します。

茶髪にしてオシャレしてカッコつけたって行動そのものが立派でないなら、
何のためのカッコつけでしょう。

胸臆虚明の境地の確保を目指すために仁を成す。

これぞ人の道であります。

情けは人のためならずという言葉も、
人のために心を尽くせば、巡り巡って自分に返ってくるという意味です。
返ってくるのはカネやモノではありません。

そういうこともたまにあるでしょうけど。

必ず返ってくるのは、胸臆虚明の境地であります。それを目指すことです。

 

整理すると、

 

論語→節操→実践→胸臆虚明 

 

という仕組みになるわけです。

 

胸臆虚明の境地を知れば、自殺も独り善がりもアホらしくなります。

 

論語教とでも呼びましょうか。

この宗教には入信の儀式もカネも戒律も巡礼も要らない。

図書館で論語の本を借りて熟読して生活に活かせば、

自ずと宗教を持つことになります。

 

まさに、安岡正篤の言う、

「明師良友は我々の隠れたる内在の性に通ずる道を拓く」のとおりです。

 

人間の精神には、良知という神がいるのです。

「精神」という字にも「神」という字がついているでしょう?

論語を通じて良知という神を見出し、日々生活に実践していくことです。

以上です。