私はとりわけ日本の英語の先生が嫌いでした。
 
実際、私のiPhoneスピーキングアプリのホームページの方でも日本の英語教育を批判的に記述させていただいておりました。
 
学生の頃は英語は常に赤点で高校の偏差値も、もしかしたら当時は30ぐらいだったかもしれません。そんな私の英語力を当時の高校生として、人並みまで上げてくださった先生がおりました。
 
それが富田一彦先生です。
(私は学校の英語の先生は嫌いでしたが富田先生だけは例外でした。)
 
この先生は英語を教わるというより、論理的に英語を解読するという術を教わったような気もします。英文を読むときに動詞の数を数える何て発想はまるで暗号を解読するかのような、私のようなガチ理系の人間にとっては少しワクワクしてしまうようなところもあったのは事実です。とにかく、毎回の授業の視点が新鮮で衝撃的であったことは今も鮮明に覚えております。
 
また一方で教壇に立った時のプレゼンテーションはかなり癖があり、「毒舌の富田」と揶揄されるほど有名でした。生徒からは好き嫌いはっきり分かれるようで、嫌いな人は本当に嫌いのようでしたが、私は好きな方でした。
 
実際、この嫌われるぐらいのプレゼンというところには富田先生自身の責任感を感じたのも事実です。私も今は人前に立って、しばしプレゼンをするような機会を得ることもあるのですが、プレゼンに聴講者から嫌われるかもしれないぐらいの表現を取り入れるのはさすがに勇気が要ります。
 
それは自分の発した内容に批判が集中したり、聴講者から逆に揚げ足を取られたりもし兼ねないからです。一言一言に慎重になり、こちらもその裏でそこそこ勉強もしておく必要もあります。
 
そういう意味では富田先生も天才的に思える指導の裏で、相当な努力があったのだと思います。最も努力という言葉は富田先生の嫌いな表現で「何をどうするか」が大事であることを常に教えられたこともあり、「相当な努力があった」を「相当な何をどうするかをしてきた」とさせてください。
 
富田先生の教えはたかが英語の受験勉強に留めるにはもったいないように思えてなりません。英語以外の部分でも学ぶことが多々ありました。是非、論理的思考とかそういう内容で書物を執筆していただきたいですね。
 
ここに私の英語力の礎の師として感謝を込めます。