市川由紀乃さんの今年第二弾の新曲が8月24日発売になりました。
石狩ルーラン十六番地
作詞:吉田 旺先生
作曲:幸 耕平先生
編曲:坂本昌之先生
石狩ルーラン十六番地は、若くして他界した北海道出身の夭折の画家
三岸好太郎を想う 妻「節子」さんがモチーフになっています。
「ルーラン」は、アイヌ語の「崖」になります。
市川由紀乃さんが実在する人物を歌うのは、2011年発売の「戦国女絵巻」
に登場する濃姫・お市の方・ねね太閤記・細川ガラシャ・淀君・千姫。
また、平重盛に支える若武者齋藤滝口時頼と建礼門院の官女「横笛」を歌っています。
更に、CDアルバムでは実在した「国定忠治」等を歌っています。
(以下は、私が購入した出版本7冊を熟読し短く纏めた内容になります)
「三岸節子」さんは、明治38年1月3日、現在の愛知県尾西市の富裕な地主で
毛織物工場を営む吉田永三郎、菊の四女として生まれました。
節子さんは、先天性股関節脱臼でしたが、6歳の時に名古屋の専門医で手術をうけています。
文藝春秋出版「吉武輝子著書 炎の画家 三岸節子」の中に、
『背は低いし、びっこだし、器量は悪いし、どんな人と結婚するんだろうとずっと心配しとった。
あんな素晴らしい絵描きになるとは思わなかったから。せつさまはどんどんきれいになっていった』
と、あります。
大正10年、淑徳高等女学校卒業後、絵画の道に進みたいと上京し、岡田三郎助の
アトリエに通い指導を受け、大正11年4月に女子美術学校(現 女子美術大学)の
2学年に編入しています(成績優秀であることから)
同年11月に展覧会に出品した「三岸好太郎」と知り合い、大正13年9月に結婚しています。
節子さん19歳でした。
この時期、節子は好太郎から熱烈な恋文を何通も受け取り、その一部が
文藝春秋『炎の画家 三岸節子』(著者 吉武輝子)に紹介されています。
↓ 節子さん12歳 淑徳高等女学校当時(購入の書籍より借用)
大正14年1月に長女陽子さんを出産(20歳)
その後23歳で次女杏子さん、25歳で長男黄太郎さんに恵まれます。
大正14年3月に春陽会第3回展に5点出品し「山茶花」が初入選。
昭和9年6月(節子29歳)夫好太郎と共に京都、奈良、大阪を旅行するも
好太郎は胃潰瘍により名古屋で倒れ7月に急逝、享年31歳でした。
節子は、子供3人を抱えながらも画家として生きようと決意する。
昭和9年9月、独立美術協会展に出品する女性画家が集まり『女艸会』を結成、
第1回展に「金魚」など出品。
東京中野区に自宅アトリエが完成、好太郎の遺作展覧を開催。
↓アトリエでの三岸節子さん
昭和11年 女性画家7人による『七彩会』を結成。
独立美術協会第6回展に入選し独立美術協会会友となるも、
女性は会員になれない内規により離脱、新制作派教会会員となる。
三岸節子展を大阪、美術新論社で開催。
昭和20年8月 太平洋戦争終わる。戦時中は疎開もせず静物を描き続けてきました。
同年9月 焼け野原の東京で戦後初めての三岸節子個展を銀座で開催。
昭和26年3月 「金魚」が文部省買上げ美術作品に決定する。
同年8月 第1回サンパウロ・ビエンナーレに参加、46人の作家の1人に選ばれる。
(その後、日本国際美術展、新樹会、国際具象派美術展、等々に数々の作品を
出品し多くの賞を得ています)
昭和29年 49歳で初めて渡仏、パリに滞在。後にスペイン、イタリアなど旅行する。
昭和30年 50歳で帰国。
昭和43年 長男黄太郎一家と共に渡仏(63歳)
昭和49年 ブルゴーニュの小さな村の農家を購入、移住(69歳)
~中略~
昭和58年 北海道立三岸好太郎美術館開館(78歳)
昭和61年 秋の叙勲により勲三等宝冠章を授章。
平成10年 三岸節子記念美術館が開館。
平成11年 急性循環不全のため逝去(94歳)
『参考にした購入資料』
⇑ 『三岸節子 修羅の花』偶然ではありますが、由紀乃さんのアルバム
『凛』の中に「修羅の花」全く同名の曲があります。
↓石狩湾のルーラン(崖)「ネットよりお借りしました」
↓ 一宮市三岸節子記念美術館
平成10年 尾西市三岸節子記念美術館開設。
平成17年 市町村合併に伴い一宮市三岸節子記念美術館になりました。
洋画家・三岸節子の生家跡に建設され、嘗ての敷地後にあった織物工場を
思わせる屋根や、節子の生前から残る土蔵を改築しています。
戦前の男尊女卑の時代に生まれながらも強い意志を持ち続け、女性洋画家として
素晴らしい作品の数々を遺されてきました。
『石狩ルーラン十六番地』素晴らしい楽曲を、由紀乃さんの透き通る歌声で
見事なまでに最高の歌の景色を魅せてくれています。
大切な歌がまた聴ける喜びに感謝しています♪









