前回のブログで書いた「丁寧に接されることが増えた」ことについて
新しく分かったことがある。

仕事相手に〇日までに連絡が欲しいとお願いして、連絡がこなくても
「忙しいからメールの返信(連絡)がないんだな、仕方ない」
とよく思っていた。
でもこの考え、やめたんだ。

この考えの裏には「私はお願いしたことがされなくて当然」という「あきらめ」がある。
さらに言うと、「私はお願いしたことがされないことに値する、残念な人」
という「超低い自分の価値」がある。

先日、ふと「メールに返信がないのは失礼なことなのではないか?」と思った。
と同時に、お願いしたことがされないことに「あきらめない」し、私はお願いしたことがされるのに値する人だという認識、つまり「自己肯定感」を取り戻した。
これは今書きつつ、認識したこと。
ということで、自己肯定感が関係していた。

目から鱗が落ちた。
遠慮のかたまりだったな。

これはなかなかの変化。

仕事の相手(クライアント)に丁寧に接されることが増えた。

特定の一人、ではなく複数人から。

そういえば外注の人も、先日私の仕事ぶりを褒めてくれたな、、、

はて。


よく自分がされたいことは人にするといい、と言う。ただし、人への丁寧度を上げてきたわけじゃないのです。

もしかしたら親しい人に幸せになってほしい

と最近強く思っていることが関係しているのかな。

自分でその人に何かできることがあれば、言うし行動する。

それが影響して、お互いに大切にし合う世界に移動してきたのかもしれない。


ふだんよく接する友達、家族の態度がよい風に変わるのは近しい存在だからよくあるけど、

仕事関係の人の雰囲気が変わるのは、その世界が広がっているということでとてもうれしい。

前回のブログに書きましたが、

罪悪感をなくしていこうと、最近意識していました。

瞑想しながら罪悪感を見つめていたら、

ふっと「幸せになっていいんだよ」という

言葉が浮かびました。


・もう幸せになっていい

・幸せにならなくちゃいけない

ではなく

・幸せになっていいんだよ

でした。


そして、「辛そうにしている人が近くにいても、その人はあなた(私)が幸せそうにしているのを見て幸せになるんだよ」という言葉が浮かんできました。


そうだ、幸せになろう!

私って幸せになっていいのかな?

と思っていました。

これを減らさないと、願いは近寄ってきてくれない。


自分を許すワーク、ずいぶんとしたなあ。

願いが一つずつ近寄ってきてくれた。

うれしいことが増えて

幸せを感じられるようになった。


そして願いのうちまだ叶ってないことがあるから、

まだ「幸せになっていいのかな?」がのこってるな、と思う。

つまり罪悪感なんだけれど、これを水に流すのをしばらく意識することにする。


罪悪感の根っこを見つめるのは辛いし、

そもそも根っこにたどり着けるかもわからない。

「水に流す」は、たしかにあったものを過去にして忘れること。こだわるのをやめること。

自分を許すとか、幸せになっていいと許可を出すとかの行動が難しくて残っているのだから、今回はこれをやってみる。




仕事でちょっとしたピンチがきた。

このことでクライアントに怒られるんじゃないかな〜と考えがよぎったのだけれど、

怒られない可能性もあったので、

とにかくいい気分でいることに集中した。


私は食べ物で幸せを感じるので、

食べている時に、幸せをかみしめ、

飼い猫をなででかわいいなぁと、猫に集中して

自分は幸せ者だと何回も考えた。


いよいよ昨日クライアントと電話をして

そのピンチについて話したけれど、

怒られなかったし、ピンチもそこまで問題にならずに終わりそうだ。


ああ良かった、安堵。

私は「怒られる」ということを引き寄せがちで、

それを引き寄せないように気をつけている。

昔の傷、思い出の投影なんだろう。

今回の不安を取り除く意識づくりはいい経験になった。

この成功体験が今後いきてくるはず。