前回書きました①の記述に若干の変更部分があります。何しろ、たかが江戸時代という近代にも関わらず、資料によって解釈や見解の違いがあるもんですから… では、訂正をしながらお江戸の川崎宿のお話を、私論を交えてしていきますね。

前回の①に<さて、川崎宿には本陣がありました。本陣(ほんじん)とは、江戸時代に参勤交代の大名など身分の高い人が泊まる宿のことです。当時、普通の旅人は、万年屋(今のロールスロイスの駐車場あたりにあった)のような平旅籠に泊まっていました。>と書きましたが、万年屋は川崎宿の久根崎町にあり、現在の409号線よりも多摩川よりだったみたいです。最初に見た地図では、旧東海道と国道がぶつかる手前くらいになっていたので、ロールスロイスの駐車場付近かな?と思いましたが、旧道は現在の本町交差点手前から、斜めに六郷橋に向かいます。つまり、ぶつかる国道とは15号線の方だったのです。今の本町2丁目くらいですね。②を書くに当たって、川崎市の市民ミュージアムで確認したので訂正します。

万年屋は、旅人に昼食を出す茶屋でしたが、その後本陣よりも少し格下の旅籠(はたご)になりました。今で言う、レストランのみの利用も可能なホテルです。

この「茶屋」という宿場につきものの飲食店の多くが、飯盛女郎あるいは宿場女郎と呼ばれた娼妓(遊女)を置いていましたが、どの茶屋に何人という詳細は解りません。ただ、当時の幕府は、娼妓のいる飯盛茶屋や飯盛旅籠が宿場を発展させるという見解を示していたので、吉原のような<幕府公認>ではありませんが<幕府黙認>の状態で営業していたようです。彼女たちは、川崎宿に対しては揚代(あげだい・お遊び代のこと)の中から税金を徴収されていましたから、私娼ではなく公娼だったことは確かです。

しかし、②で書いたような<つまり堀之内は、幕府のお墨付きを得た吉原ほどではありませんでしたが、とても歴史的には日本有数の遊郭だったわけです。>の遊郭の部分は、日本有数の、遊女のたくさんいる町に訂正します。遊郭は遊女屋の集合体ですが、堀之内を要する川崎宿はあくまで宿場町だったのですから…

ちょっと脱線しますが、今朝のスポーツ新聞に、映画監督の山本信也の記事がでていて、20世紀で最もエポックな性風俗はソープランドだと書いていました。そして、<外国人の有名俳優が喜んで遊んだのはソープだけ、世界に誇れる日本の性風俗だ>とのコメントもありました。

江戸末期の里謡に、<川崎宿で名高い家(茶屋)は、万年屋、新田屋、会津屋、藤屋…>なんてのがありますが、川崎宿では3つあった本陣よりも、むしろ大衆店であるこれらの茶屋に関する記述が多いのです。特に万年屋は、弥次郎兵衛と喜多八のコンビが
女中をからかいながら茶飯を食っていると「東海道中膝栗毛」にも書かれていますし、嘉永6(1853)年の黒船さわぎ以降は外国人にも愛された店だったのです。

万延元(1860)年、イギリスの植物学者フォーチュンは、万年屋のサービスぶりを、帰国後「江戸と北京」という東洋への遊学記にこう書きました。<若い女たちが(フォーチュンの)回りを囲んで、お茶をついだり、お菓子を口に入れてくれて、至れり尽くせりで至極満足した>と…。それを読んだ総領事のハリスも、下田から江戸に上る際に、川崎宿では本陣を拒否して万年屋に泊まったそうです。

この万年屋の<若い女たち>が単なる女中か娼妓かは歴史書では明らかになりませんが、単なる女中とはとうてい思えませんよね。

山本監督は、トルコと呼ばれていた時代に、フランスの俳優アランドロンがトルコ風呂を絶賛したことを言っているようですが、川崎宿の茶屋も外国人に大評判だったようです。で、面白いなと思ったのは、評判の内容がHなことかどうかはともかく、皆一様にサービスが良いと言っていることです。しかも、評判の良いのは大衆店!もし、こういう気風が現代にも脈々と伝わっているのなら、私たちがその伝統の灯を消してはいけませんよね。

ただ、私論ですが、歴史書に旅籠の話が多く、本陣の記述が少ないのは、本陣は諸国の大名や名士が愛用していたからでは無いでしょうか?つまりVIPの方々はお泊まり(お遊び)になるのもお忍びだったから?!

ある郷土史研究家の方の仮説によると、本陣の田中氏や佐藤氏、あるいは地元の名士七郎左右衛門の特命で女衒が西日本でかどわかし(誘拐)を行い、奇麗どころ(美人の遊女)を調達していたらしいのです。ですから本陣にお泊まりのお殿様たちのお相手はより高級な遊女だったと思われますが、地元の名士、あるいは殿様方の名誉のためか、幕府非公認の場所だったからか、はっきりした記述は見あたりませんでした。

さて、川崎でいわゆる<遊郭>という言葉が使われだしたのは明治時代になってからのことですが、そのお話はまた次回にして、お隣の横浜のことをちょっと書きます。

よく、神奈川でソープといえば堀之内のある川崎が有名で、大都市の横浜の話題や件数が少ないのは何故か?とお客様に聞かれます。歴史的にみると、神奈川県で最も賑わった宿場は川崎の先の神奈川宿で、安政5(1858)年の日米通商条約でも、最初に開港が決まったのは、長崎・新潟・神戸と並んで神奈川でした。しかし、開港に伴い、そこが自由貿易港となり、外国人の居留地をつくることが条件でしたから、幕府は江戸に近い神奈川を開港することを避けようとしました。繁盛している宿場町での外国人とのトラブルを懸念したからです。それで、当時は半農半漁村としてさびれていた横浜を開港場にしたのです。ですから、横浜が都市として発展したのは江戸末期と歴史が浅いわけです。明治に入り、娼妓解放令がだされたあと、各地に政府公認の遊郭が設置されました。この時、貸座敷業を願い出た川崎宿(堀之内)の女郎屋が100件近かったのに対して、横浜では十数件だったそうです。つまり、宿場の発展系として遊郭ができた町としては川崎の方が歴史もあり規模も大きかったということが今に続いているのかもしれません。ちなみに、神奈川宿に娼妓がいたかどうかはまだ調べていませんので悪しからず…

それから、①で吉原について、<当時、よしの茂る沼地で吉原と呼ばれ、大いに栄えました。しかし明暦の大火(歌舞伎などで有名な振り袖大火)の後、浅草日本堤に移転したのです。以前の吉原にあやかってここを新吉原と呼びました。現在の吉原は、もっと浅草よりの千束地域です。>と書きましたが、新吉原と現在の通称吉原の場所に関しては、近くなのかほとんど同じなのかはっきりしません。というのも、現在表示されている吉原大門の場所も推定でしか無く、遊郭時代の堀のあとも正確な位置が解らないのです。たぶん、裏風俗故に、それに関する文献が乏しい上、下町一帯は、昭和20年の東京大空襲で壊滅的な被害を受けましたから、余計にわかりにくいのでしょう。

では、次回は川崎が宿場女郎のまちから遊郭へ変貌していくお話を書きたいと思います。