川崎宿は日本橋を起点とする東海道の、品川に次いで3番目宿場町です。東海道は徳川家康により整備が進められた五街道の中でも特に重視され、江戸から京都まで約500kmありました。参勤交代制が確立した寛永12(1635)年頃には53の宿場が整いました。江戸時代後期には、大名行列だけでなく、庶民が遊山や参詣に往来することが多くなり、多くの人と物資が行き交うようになりました。

川崎宿は元和9(1623)年に作られ、小土呂、砂子、新宿、久根崎の4町から構成されていました。始めの頃は、貧しい宿場町といわれていましたが、本陣の田中丘隅(きゅうぐ)らの奔走や、川崎大師の賑わいで次第に繁栄したのです。広重の版画にも大師参りの女たちが描かれていますが、実はこの女性たちこそ一説によれば、堀之内の遊女だったと言われているのです。広重以外に北斎も遊女をモデルに春画を多数描いたそうです。歴史の裏舞台では、川崎宿の繁栄に堀之内の遊女たちは欠かせない存在だったというお話を検証してみたいと思います。

表向きは、京都に向かう旅人にとっては昼食の休憩地として、江戸に向かう旅人にとっては六郷の渡しを控えた最後の宿泊地として賑わった宿場でした。また、古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は関東屈指の霊場として多くの日帰り参拝客が訪れ、川崎宿は参拝の拠点として栄えたことが普通の歴史書には書かれています。

六郷川は慶長5年に架橋、その後破損修復を繰り返しながら元禄元年まで存続し、以降渡し船となりました。当初、渡し船の運営は幕府の直営で行われましたが、その後江戸町人の請負となり、宝永6(1709)年に川崎宿が幕府からその運営を任せられます。

渡し船は武士層や公家、有力社寺の神官僧侶など無償で利用する者が7割を占めましたが、一般庶民は規定の料金を支払いました。このため請負人が収益中から川崎宿へ差し出す金額も毎年600両前後に達し、川崎宿の財政安定に大きく寄与しました。

つまり、橋を架けることが全く不可能だったわけでは無いのですが、川崎宿に入る船賃が莫大だったため、敢えて架橋工事を行わなかったと言うことです。川崎市の歴史を遡ると、六郷橋が架けられたのは大正14年で、新国道(第一京浜国道)が開通した時ですから随分と遅かったのですねー。

さて、川崎宿には本陣がありました。本陣(ほんじん)とは、江戸時代に参勤交代の大名など身分の高い人が泊まる宿のことです。当時、普通の旅人は、万年屋(今のロールスロイスの駐車場あたりにあった)のような平旅籠に泊まっていました。

川崎宿には当時3つの本陣があったとされていますが、その中の代表的な本陣が田中丘隅の経営する田中本陣です。川崎宿起立当初は、砂子町の妙遠寺が本陣とされていましたが、その後、寛永5年に田中が仮本陣となり、同12年に正式本陣となりました

この田中丘隅こそ、川崎宿発展の立て役者だと言われているのです。当時の多摩川は現在よりもかなり幅員があり、洪水に見舞われることもたびたびだったそうですが、架橋工事は幾度も繰り返されていました。しかし、元禄年間以降は、田中丘隅の差し金で工事は阻止されたのだそうです。そして、自らの宿屋が仮本陣から正式な本陣に昇格すると、天候不順で渡しが出ないたびに、諸国のお殿様に泊まって頂けるようになったわけです。

江戸を目の前にした川崎で、お殿様が何泊もするかというと、お大師様があるくらいでこれといった名物のない宿場町ですから、足止めは非常に難しくなります。そこで、必要となったのが堀之内遊郭の活性化でした。

つまり堀之内は、幕府のお墨付きを得た吉原ほどではありませんでしたが、とても歴史的には日本有数の遊郭だったわけです。

江戸の堀之内については、次回のお楽しみということで、ここで少し脱線して、皆様の誤解を解いておきたいと思います。

よく、<吉原>こそ江戸時代からあった!と言いますが、江戸時代の吉原はいまは存在しません。江戸時代の吉原は、元和3(1617)年、庄司甚右衛門が幕府に願い出て、日本橋人形町2丁目と富沢町界隈に遊女屋をあつめたのがはじまりです。当時、よしの茂る沼地で吉原と呼ばれ、大いに栄えました。しかし明暦の大火(歌舞伎などで有名な振り袖大火)の後、浅草日本堤に移転したのです。以前の吉原にあやかってここを新吉原と呼びました。現在の吉原は、もっと浅草よりの千束地域です。

日本堤というと、つまり、いわゆる山谷(さんや)と同じエリアです。山谷は江戸時代からの木賃宿街として昔から出稼ぎ労働者に利用されていました。ですから、東北の寒村から出稼ぎにきた男と、やはり同郷で、吉原に売られてきた女が泪橋で逢い引きするという艶話は実話が元になっていたのかもしれませんね。

そういえば、吉原の悲話に出てくる女性たちの多くが東北出身なのですが、堀之内はというと西日本の女性が多いのです。これは、その時代に暗躍した女衒(ぜげん)のテリトリーとも関係することです。では、川崎宿の夜の部のお話はまたいづれ…

と、勿体ぶってしまってごめんなさい。いくら、現行法で問題ないとはいえ、ましてや裏稼業のお話だからといって、私が勝手に歴史考証をねじ曲げてしまうわけにはいきません。裏稼業故に諸説がまことしやかに出回っていて、検証するのにちょいとお時間がかかります。しかも時節柄なにかと慌ただしい今日この頃です。しばしのお待ちを!!

ちなみに、江戸の遊郭を調べていたら、<花魁>の意味が出ていまいした。と、花魁(おいらん)とは<部屋持ちの遊女>を指すそうです。あらまー、『おいらは花魁♪♪♪』Y(^^)お待たせした上たびたびの脱線で恐縮です。ではまた(^-^)g””