1958(昭和33)年4月、売春防止法が正式に施行され、16世紀から約350年続いてきた日本の公娼制度に終止符が打たれました。

現在のソープランド街が、旧遊郭地帯に合致しているところが多いことから、赤線廃業イコールトルコ風呂への転業だと考えられがちですが、それはいささか早計です。何しろ、昭和33年の時点で、すでに全国に100軒のトルコ風呂があり、都内にも33軒が盛業中でしたが、この当時は赤線地域とは一線を画していました。初期のトルコ風呂は、個室でのマッサージサービスが売りとはいえ、基本的には健全サービスの旗印のもとに若くて健康的な女性を集めていました。中には多少Hなサービスが加わるところもあったようですが、精々女性が服を着たままのスペシャル(手こき)程度でした。<のちに‘お’を付けてオスペと呼ばれた>

旧赤線地帯での転業は、同年7月に吉原の特殊飲食店(つまりちょんの間です)「東山」が「トルコ吉原」としてオープンしたのが最初です。この店は当初入浴料300円のみのスペシャルも禁止の健全営業だったそうです。「トルコ吉原」のオープン以降、トルコ風呂は雨後の竹の子のように増え続け、翌1959(昭和34)年には東京都内のトルコ風呂67軒の半分が吉原にできました。吉原の場合、前述の東山のように特飲店からの転業もありましたが、オスペでさえ厳しく取締りの対象にする警視庁のお膝元だったため、健全路線の店の多くは新規参入の業者でした。

一方川崎では、旧赤線の南町の一部が旅館使用のもぐり売春で食いつないでいたのに対して、堀之内は青線時代とあまり変わらぬ状態でちょんの間遊びができていたそうです。生き延びたちょんの間は現在にも続くわけですが…これは神奈川県警の懐の深さなのでしょうか?

川崎に最初にトルコ風呂ができたのは1960(昭和35)年と遅く、しばらくはこの「京浜トルコ」一軒しかなかったのです。それが、1966(昭和41) 年の風営法改正で、トルコ風呂の地域規制で堀之内と南町が指定されて以来急激な増加を見せたのです。これにより、江戸後期から事実上の花街であったにも関わらず、明治の一時期を除いて、お上の公認を取り付けたことのなかった堀之内が初めて歴史の表舞台に登場したのです。

さて、またもや東京の話で、時も1964(昭和39)年に戻ります。この年の秋に開催の東京オリンピック景気を当て込んだ出店ラッシュで、都内のトルコ風呂は200軒近くにまでふくらみました。ここまで増えると、競争も激しくなり、もはやオスペは常識といった感じで、ダブスペ(Wスペシャル・女性が下着を脱いで69スタイルでサービスする)や素股も登場し、なかには本番と称する売春行為を黙認する店もあったようです。しかし、警視庁はオリンピックに訪れる外国人に破廉恥な行為はさせまいと取締りを一層強化しました。都内のトルコは件数の伸びかたに反比例して健全化がはかられたのです。結局、オリンピック景気の美味しいところを川崎勢が頂いたのは言うまでもありません。

1966(昭和41)年、それまで公衆浴場と同じカテゴリーで、保健所のみが管轄としていて出店に対しての規制がなかったトルコ風呂に、風俗営業等取締法が適用されることになりました。これは新規出店の地域を制限する厳しいものですが、つまりは赤線と同じ理屈で、許可地域が設けられたということでもあります。

こうして日の目を見た堀之内は、おとなりの旧赤線の南町がヤクザまがいの黒線売春で荒んでいくのを後目に、日本一のトルコ街に大変貌を遂げるのです。

1967(昭和42)年、東京は大森海岸に、当時としては破格の入浴料3000円という豪華トルコ「歌麿」がオープンしました。厳選された美人トルコ嬢によるきめ細やかなサービスで評判になり、指圧マッサージ以外に身体を接してのオイルマッサージも導入されました。しかし、本番はもちろんのこと、Hなサービスは一切ありませんでした。

この頃、首都圏でも東京以外のトルコ地区(堀之内、南町、千葉栄町など)では、4~5000円の別料金(サービス料)での本番が行われていましたが、名実ともに‘高級トルコ’に先鞭を付けたのは堀之内でした。

1969(昭和44)年に入浴料5000円の「川崎城」が開店し、業界の度肝を抜いたのです。その上、1万円という破格のサービス料だったにも関わらず、連日押すな押すなの大盛況でした。この店の繁盛の秘密こそ、堀之内が世界に誇る大発明の“泡踊り”をトルコ嬢全員に義務づけたことにありました。

さて、それでは次回は“泡踊り”の誕生について検証してみたいと思います。ではお楽しみに!!