以前、村上龍の「69」を読みましたが、団塊の方々が青春を過ごされた1969年は、政治にもそして風俗にも改革の嵐が吹き荒れた年だったようです。

この年にオープンしたトルコ風呂「川崎城」の繁盛ぶりは⑥で書きましたが、この店が破格の高級店であり、ここの女性たちとは浴室で泡にまみれてHが楽しめるという話が、口コミだけで日本中に広がったと言うことが私には驚きです。何しろ、開店から数日で、予約無しでは入店できない人気店になったと言いますから。

ネットで発見したことがきっかけで初来店、というお客様の多くが、「堀之内の情報が少ないから、今まで来なかった」と言います。しかし、“泡踊り”付きの高級トルコで一世を風靡して、堀之内が日本一のトルコ街として隆盛を極めていたころ、風俗本はありませんでした。たぶん、その10年とちょっと前までは公認の遊郭があった時代ですから、職場の上司や友人同士で、比較的気軽にHな話ができる環境があったのかもしれません。しかも、上下の付き合いが重んじられていた分、「先輩が後輩をトルコで男にした」なんて話は良くあることで、職場の人間関係が希薄になった現代では受け継がれなくなった古き良き風習のようです。

性風俗が大衆的なカルチャーとして、テレビで取り上げられたり、アイドルが誕生したりして、今どきソープランドの違法性を騒ぎ立てる人も影を潜めました。ですから、マスコミの影響って大きいし、特に風俗本がコンビニに置かれている‘市民性’はある種画期的なことです。そしてネット上でのアダルト情報の氾濫で、ソープを身近に感じた人が増えたのはとても良いことだと思います。でも、友人や先輩後輩の関係性を希釈してしまうのだとするとやはり罪な側面もあるのですねー。

さて、マスコミの功罪論でちょっと脱線しましたが、“泡踊り”の名付け親は店では無くてマスコミです。「川崎城」の成功で堀之内では、女性主導の浴室プレイが大流行し、一般週刊誌も取材に来ました。

そして、“泡踊り”の名の発祥となった店が「王宮」「王朝」「王将」なのです。エアーマットにお客様を俯せにするところからサービスをはじめる両面洗いを開発し、女性のボディだけでなく、指も、陰部の毛も、乳房もすべて性具として活用したのです。それまでの、あまり動きのないマット上でのHと違い、まるで踊っているようなアクションを取り入れて、合体をせがむ客をじらしました。そして、陰毛を泡立てて‘の’の字を書く技は、ヘアブラシ洗いと名付けられました。

ここの店のサービスはそれまでのちょっとした前技をはるかに越え、もはや我慢プレイといった状態で、マスコミはこれを‘地獄のえんま攻め’と呼んだそうです。そしてこれらのサービスは“王流”と言われて全国へ波及していきました。

全国と言っても、70年代初頭のトルコ業界は、まだまだ大都市(東京・大阪・京都など)では警察の締め付けが厳しく、本番にすら至れない店が多かったそうです。かの吉原も、街を仕切っていた数少ない旧赤線業者たちの自主規制で「目立たないように細々と営業する」ことで生き残りを模索していたようです。現に、お上に背いて、川崎流のサービスを取り入れた「夕月」が1977年に、「早乙女」が1978年に売春容疑で検挙されたこともあり、店がトルコ嬢に‘本番’を強要したりテクニックを指導することはタブーとされていたのです。

よく、吉原は部屋が狭いといいますが、浴室はただ身体を洗うだけの場だった上、ベッドは指圧マッサージをする台だったのですから、広くする必要はなかったのです。吉原の経営が、新興トルコ業者に成り代わり、旧赤線業者の呪縛から解けた80年以降は、それなりのサービスも行われたようですが、その後の風営法改正で部屋の改築が難しくなり、高級化がはかられた割りには部屋は相変わらずお粗末なまま今に至るのです。

吉原の苦悩を尻目に、川崎の高級化は70年代半ばに日本中を襲ったオイルショックにも揺るがず躍進を続けました。76年には、高級店の代名詞とも言われる「金瓶梅」や「アラビアンナイト」がオープンし、さらなるVIP客を取り込むことで不景気を打開していったのです。

堀之内のサービスを積極的に取り入れたのは、滋賀県の雄琴や千葉県の栄町でした。栄町の「石庭」では、王流マットプレイに更にアレンジを加え、石庭流なる技を編み出しました。潜望鏡や椅子プレイは栄町が発祥地とも言われています。

雄琴の場合は取り入れたというより、移動したという方が適切です。当初のスタッフ(男女ともに)は川崎からの移住者が大多数で、「川崎村」とも呼ばれたそうです。これは、雄琴のトルコ第一号店「花影」の社長が、堀之内で味わった“泡踊り”に感激して、ひなびた温泉街に突如トルコ風呂を建設したのがこの街の起源だからです。最初のトルコ嬢は全員“泡踊り”の達者な川崎仕込みのベテランで、関西では初のHなサービストルコの出現に、新天地を求めて集まったのだそうです。

一方、高級店ラッシュの堀之内では、78年には入浴料1万円以上の店が15軒にもなり、全店舗数も70軒を数えました。堀之内で生まれた数々の技が各地に広がり、広がった先で新たな工夫がされ、それをまたフィードバックするような形で堀之内は日本のトルコ業界をリードしてきたのです。 

この頃、一番高い「金瓶梅」が総額4万円だったにも関わらず、椅子ボディ洗い、潜望鏡~逆潜望鏡の浴槽プレイ、マットプレイにベッドマナーというフルコースはバイオレンスサービスと呼ばれ、連日連夜大盛況だったのです。

それでは次回は70年代の堀之内をもう少し掘り下げてみたいと思います。お楽しみに。