時代は進んで1984年までまいりました。
この年の初秋、トルコ共和国からヌスレット・サンジャクリさん(当時30歳)が来日しました。サンジャクリさんは、81年から83年まで留学生として東大地震研究所で地震測定を研究していました。はじめて来日した際、驚いたのは余りにも日本人がトルコという国について無知な事でした。それなのに、下宿のあった新宿では「トルコ」のネオンが立ち並ぶ一角があります。サンジャクリさんは、自分が「トルコ人だ」と言った時の回りの人のにやついた反応がたまらなく屈辱的でしたし、「本場のトルコ風呂はさぞかし濃厚なサービスがあるのだろう?」と羨ましがられた事もあったそうです。サンジャクリさんは地震研究の傍ら、「トルコ風呂」の改称を当時の渡部恒三厚生大臣に直訴したのです。

実際のトルコの風呂は、熱した石の上に体を横たえて汗をかき、水で身体を洗います。サービスの良い浴場では、同性が垢すりやマッサージをしてくれるところもありますが、男女が一緒に入ることはありえません。国民の99%がイスラム教を崇拝している国ですから、性については日本よりずっとずっと厳格なのです。まあ、日本のトルコ風呂も、元はといえば中国の垢すりボーイにヒントを得ただけの健全サービスの浴場だったのです。ま、私は現在のソープのサービスもある意味で健全かと思いますが…。

それにしても、トルコ共和国風のお風呂のままだったら何ら問題はなかったはずです。温泉地には豪華な造りの「ローマ風呂」だってありますが、訴えられたとは聞きません。創世記のトルコ風呂は、サービス相手が異性であっても、あくまで健全な健康マッサージをサービスとしていました。当時の日本は公娼制度下にありましたから、中途半端に色気を売っても意味がなかったのかもしれません。それが、売春防止法の施行で多くの遊郭がトルコ風呂に転業しました。(以前の項を参照)

それでも、売防法施行直後は、どこの店でも健康マッサージ止まりで、お色気はなかったのです。売春防止法の制定には、多くの婦人運動家が貢献したのですが、公娼の廃止で職を失った遊女の再就職にトルコ風呂を斡旋したなんて話もあるくらいです。

サンジャクリさんが留学していた80年初頭は、当時のトルコサービスが爛熟期に達した時期だったのだと思います。堀の内では70年初頭から始まったマットプレイを中心に過激なサービスがより一層パワーアップしていたようですし、H不毛地帯の吉原でも本番どころかマットまで黙認されるようになりました。ですからサンジャクリさんのショックも伺い知れます。

サンジャクリさんの訴えを多くのマスコミが取り上げた直後の10月1日には、日本人と結婚したトルコ人女性、小宮山ハミエットさんの記事が朝日新聞の論壇に掲載されました。

<前文省略>
『トルコ』の名前を、このいかがわしいお風呂の名前に使わないでいただきたい。日本の皆さんが同じ立場になったらどうするのでしょうか。例えば、日本人のあこがれの国フランスで、いかがわしいことをする有名なお風呂があって、その名前が『日本(ジャポン)』と呼ばれていたら、どんな気持ちになりますか。
<以下省略>

ハミエットさんは普通の主婦なのですから、金銭でHのできる場所はいかがわしいわけで、しかも自国の名称が使われていたのですからご立腹ももっともです。時期を同じくしてトルコ共和国大使館文化広報参事官イルハン・オウスさんも積極的にテレビ出演したりしてトルコ風呂の改称を訴えました。

このような状況下で、いち早く動きを見せたのは横浜の特殊浴場協会でした。今でこそヘルスに押され、件数も二十数軒と小規模になりましたが、当時は五十件近い加盟店を有する一大トルコ街でした。 横浜市特殊浴場協会(白川喜一郎会長)は、10月6日に定例役員会を開き、名称をどうすべきか、を話し合ったのです。横浜ではすでに、トルコの名称は使わず「メンズクラブ」「湯房」などの看板を掲げている店が多く、会議で異議を訴える店もなくすんなりと改称が決まりました。ただ「ばらばらでは、新しいお客さんがトルコ風呂だと分からない」との声が強く、統一名称を決めることになったのです。

しかし他の都市の業界では「協会は任意団体で強制力はない。でもそのうち、落ち着くはず」と楽観的でした。しかも、上部団体の全日本特殊浴場協会連合会(石井辰三会長)に加盟しているのが、全国千七百店の半分にも及ばないことが示すように、足並みがそろうかどうか、は微妙だといわれていました。

トルコ風呂の密集地帯では特殊浴場協会を組織し、業界の活性化から御上の代行で行政指導の手引きまでを行なっていましたが、困ったことに大都市の東京や大阪は協会に加盟する店舗が半数にも満たない状態でした。それでも改正風俗営業法(いわゆる新風営法)が施行される年の2月までには、業界のイメージアップのためにも何らかの手を打たなくては、という状況になりました。

そこで大都市東京の面目躍如といったところでしょうか、吉原、新宿をはじめ加盟店のある地区が分散して一番足並みの揃わなかった東京都特殊浴場協会が「新名称募集」の記事をスポーツ新聞などに掲載しました。そして1984年12月19日、赤坂プリンスホテルで仰々しい襲名披露の記者会見が行なわれました。ここで「ソープランド」の名称が発表されたのですが、名付け親はお風呂遊びの経験の全くない渋谷区在住の24歳の会社員でした。この発表にはトルコ大使館のイルハン・オウス文化広報参事官も同席しており「これでトルコ共和国が有名になった」と満面の笑みでこう語っていました。後日談なのですが、 翌年1月に渡部恒三厚相にトルコ共和国のアイディン保健社会扶助相から「トルコの汚名をそそいだお礼に本場のトルコ風呂へどうぞ」という招待状が届きました。

トルコへは83年、当時の安倍外相が初めて外相として訪問。議員交流もほとんどなく、友好議員連盟(金丸信会長)が84年の暮れに発足したばかりでした。

お風呂が結んだ縁に渡部厚相は、出かけるからには医療援助や保健分野の協力をまとめたい、と大はりきり。もちろん、熱した石の上に横たわって汗を出し、マッサージ師がアカをそぎ落とす本場のトルコ風呂を満喫したようです。こうして1985年を無事に迎えるわけですが、この年の2月に施行された新風営法はソープ業界にも新たな時代の到来を告げる一大イベントでした。
では次号に続きます。