内容は“歴史”の続きになるのですが、今回は特に堀ノ内と言うのではなく全国的な出来事を取り上げます。
1985年2月13日、改正風営法が施行されました。正確には『風俗営業等の規則及び業務の適正化に関する法律』と長ったらしく、それ以前の『風俗営業等取締法』でも何ら不都合はなさそうですが、まあ略してどっちみち風営法は、敗戦間も無い1948年制定以来の大幅改正で華々しくスタートしたのです。

この法改正の直接的なきっかけは施行の前年に、新宿区内の小学校の通学路にポルノ店(のぞき部屋)ができたことだと言うのが定説です。この小学校の父母らが区や都に対してこの店の閉店を求める陳情をかなり活発に行なったことで国が動かされたとされています。

しかし、警察内部にはもっと以前から、特にニュー風俗関連店に対する取締りを強化するために法改正を唱える者が多数いたようです。ニュー風俗とはノーパン喫茶あたりに端を発する新種の風俗店です。1979年に京都に登場したノーパン喫茶はちょっとエッチな格好のウェイトレスがいただけの高級喫茶だったのですが、翌年関東に進出すると瞬く間に過激なサービスやショータイムなどが加わり、その延長にファッションヘルスが誕生したのです。のぞき部屋なる新型ストリップや“ホテルに出張してのトルコサービス”ではじまったホテトルやそれがマンション内で行なわれたマントルの登場もこの頃です。

ちなみに“ファッション”と言うのは、ノーパンでは聞こえが悪いので、ファッション喫茶と銘打ったことが定着し、やがてこの店内に別室を設けて“ヘルスマッサージ”なるお御上から言わせるととても不健全なマッサージを取り入れたことによる合体語がファッションヘルスあるいはファッションマッサージなんですよね。

警察の話しに戻りますが、以前私の取材に応じてくれた某生活安全課(当時の保安課)の職員氏はとても生真面目な方で、性風俗産業が暴力団の資金源になることや青少年の健全育成の妨げになることを本気で案じていました。しかし、近い歴史を紐解いても、赤線政策を強力に推進したのは当の警察なわけで(1945年8月の進駐軍慰安所設置命令は各地の警察署長が出しているんです)売春防止法を制定させただけで精一杯だったようです。つまり、警察内部には良家の子女を守るためには一部の女性を犠牲にしようと、風俗業者とタッグを組んだ方々が現存していたので改正までに年月がかかったのでしょう。

もっとも、私が新風営法の制定に寄与したと考えている事件は1982年に起りました。この年の6月に、女子中学生が新宿のディスコでナンパされ、一人は殺されもう一人もアキレス腱断裂という重傷を負わされました。この事件を契機に、未成年者が立ち入りそうな終夜営業のディスコやゲームセンターへの取締りが強化されましたが、主に動き回ったのは少年課で、不良少年少女を補導するだけでした。

しかし、この事件の余波は大きく、終夜営業が悪の温床とばかりに、新風営法の目玉が全ての風俗関連店の閉店時間を午前零時に定めさせることにつながったようです。そして警察の立ち入り権を確立させ、それまで保健所に任せきりだった風俗店の指導に表からあたれるようになったのです。

さて、鳴り物入りでスタートした新風営法ですが、この時の改正には一番蚊帳の外状態だったソープランド業者の反応はどうだったのでしょうか。当時、堀の内の高級ソープで店長をなさっていた方に伺ったところ、法改正がマスコミで話題になった当初は、ニュー風俗の取り締まり強化が叫ばれていただけに大賛成だったのだそうです。“素人”を好む多くのお客様をニュー風俗に奪われていたので法律の後押しで巻き返しを期待するという変な状態だったようです。しかし、営業時間が事実上短縮されて、収支はトントンだったとか。

では、新法がソープランドに対して適用されたケースはどうだったのでしょうか?新宿では、施行後半年で客入りが激減しソープランド1軒が営業不振で廃業したそうですが(廃業はヘルス4軒ラブホテル1軒)、司直の摘発を受け廃止処分になったのは翌86年の吉原「ラ・フォーレ」でした。この店は専属のポン引きを15人も雇い入れ、悪質な客引きを繰り返していたのだそうです。新風営法に基づくソープの廃止処分は全国でも始めてでした。

堀の内では新法以前にポン引き退治が済んでいますから、この手の摘発は無かったようですし、午前零時営業終了(とはいえ実際は午前零時に最終案内になっていますが…)は「終電で帰れる!」と姫君たちを喜ばせたという側面もありました。

そして1985年は日本の経済史上例を見ないバブル時代の幕開けでもあったのです。9月に米プラザホテルで開かれた先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)で、アメリカの双子の赤字解消策の一貫で推し進められたわが国の内需拡大策と為替相場安定のための円高基調(いわゆるプラザ合意ですね)が空前のインフレにつながりそれが実態無き経済すなわちバブルだったのです。

では、バブル景気の頃と、その後訪れたエイズパニックでの堀の内の様子はこれからリサーチしてみたいと思います。