先週借りてきた、『天主信長』という本を読みました。(上田秀人著)。
本能寺の変についての新説!謎が明らかに!と帯にあったので歴史好きな私としては

本を手に取ってカウンターへ猫まっしぐら状態。


本能寺の変の真相については、光秀さん逆恨み説やら朝廷黒幕説やら、いろいろありますね。

以前 話題になった『信長の棺』では秀吉さん説でした。あ・・・言っちゃって・・・ま、いいか。
おもしろかったのは名古屋が産んだパスティーシュの名人・清水義範の『金鯱の夢』。
秀吉に実子がいて豊臣幕府(意味的にはおかしいのだけど)が300年続くという、お話。

この中で謀反をおこした理由として、京を知る文化人・光秀にとって尾張の信長が話す名古屋弁は

どうにも我慢ならない言葉であった為となっている。もし信長が天下を取ってしまったら尾張弁が

標準語になってしまうのか、そんなの耐えられない!と決起するのである。


横浜生まれの名古屋育ちの私にはその感覚がわからなくもなくて、かなり受けた。

名古屋で育っていた頃は、東京にいる従兄弟が喧嘩する様子を見てなんと軟弱な言葉であるか!と憤慨してたものだが、横浜に戻るととたんに 自分はあんな言葉を使っていたのかと驚いてしまう。下品だの汚いだのとはさすがに憚れるので言いませんが(書いてるが)、方言って愛おしいものですね(取り繕い)。


話がそれました。


まぁそういう諸説出尽くした感のある本能寺について、まだ書くか!と興味深く手に取ったわけです。

で。。。

なるほどね~、この手があったわね。そんなことはないだろうと思うけど、あるかも。

このアイデアを思いついた時の作者の喜びが伝わってくる。

単行本の終盤にいっきにそれが紹介されるので、そこに至るまでの3分の2くらいは

竹中半兵衛が主人公の本かと思ってしまうほど。

ああ言いたい。

言っちゃっていい??

言っちゃうよ。以下。


信長の自作自演失敗説。

当時、どんどん流入するキリスト教に興味を持った信長が、「神」とは何か、「神」はどうしたら作れるか、そして

どうすれば自分は「神」になれるのかを考えたとしても不思議はありません。

宗教のメリット・デメリット、そのありがたさの裏側にあるインチキ臭さや危なさ。それが見えていた信長が「神」システムを利用したというわけです。

キリストはどうやって神になったか。一度死んで、そして復活して見せたからに他ありません。

「私は神なんですよ」と隣の人が言ってもなかなか信じられませんが、目の前で死んだ人が3日後に復活したらそれはちょっと私も信じちゃうかも。

本能寺で信長の遺体が出なかったのは居なかったから。ぜんぶ光秀に頼んでおいたヤラセだったから。

でも復活する算段になって・・・・と、ここからはさすがに控えますね。


そこで思いました、アテクシ。

先日殺害されてしまったビンラディン容疑者。

ビジネスでけっこう仲良ししてたという噂もある米国の思惑も相まって「死んだことにした」でのではないの?

お互い区切りつけましょうって。


もし見つかって復活したら神になるね!!

と、息子に言ったら

イスラムで復活はありえないでしょ。と一蹴されますた。

復活なんてされたらイスラム信者さんはみんな逆に困っちゃうって。

神として崇めること自体ありえないって。

そっかー・・・一神教だったわね。


やはり「ここはお互い様ってことで」なんていう平和的解決ではないのね。

壮絶な殺し合いなのね。

でもなぁ~遺体公表されないからなんか変だなぁ~。こういうあいまいさが数百年後に伝説を残すんだろうな。