しばらく愛馬更新が続きましたが、次の出走予定は一頭も決まっていません。

 

ここから数回、広島県内のお城跡の紹介が続くかと思います。

今回の豪雨により亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

また、被災された皆様にお見舞い申し上げると共に、一日も早い復旧・復興を願います。

ご紹介する予定のお城跡の中には、今回の豪雨被害で地域の名が上げられていたところもあります。

城跡の状況を考えた時、土砂災害などに城跡そのものも巻き込まれ、場合によっては消失してしまったものもあるかもしれません。

城跡には、地域の拠りどころとなる寺社が置かれている事も多く、地域にお住まいの方々と共にその無事を祈らずにはいられません。

 

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今回は広島県廿日市市桜尾本町にある桜尾城跡です。

かの厳島合戦の折、城主・桂元澄が偽の内応工作を行って陶晴賢をおびき寄せた事は有名です。

歴史の一場面を象徴するお城跡だと言えるのですが・・・。

 

都市化の波に完全に飲み込まれ、遺構らしきものはほとんど見受けられません。

極めて残念です。

 

数少ない写真を。

 

○桜尾城

 

今現在は、公園整備に尽力した元首相(11、13、15代)・桂太郎氏(1848~1913)の名をとって、桂公園と呼ばれております。

太郎氏は、元城主・元澄の子孫にあたります。

ここが公園の入口になり、この道に皆さん路駐しているようでしたので、私もそうしました。

 

公園はこんな感じ。

立ち入り禁止になっている場所に、なんとなく遺構なのではないか?と思える部分があります。

後世のものとは思いにくいので、遺構なんじゃないでしょうか。

一度は完全に都市公園化されていたものを発掘し直して調査している、とか。

まあ、登城が今から8年以上昔なので何とも言えないんですが。

今年の冬に訪れた方も「石碑だけ」とおっしゃっているので、ここから進展していないんでしょうね。

 

残念すぎて似た写真をまた撮っています。

この石積みに石垣虎口の幻影を見たのかもしれません(笑)。

 

もうこれが最後の写真。

「大勲位公爵 桂太郎書」

 

この桂公園は、太郎氏が祖先の故地である桜尾城が都市化の波により消失の危機にある事を知り、1912(大正元)年に土地を買収し、廿日市町(当時)に寄付し、町が整備して翌年にその寄贈を受けた太郎氏の名をとり、「桂公園」として開園されました。

昭和30年代まではまだ遺構はそれなりに遺っていたようですが、昭和40年代に普通の都市公園として整備されてしまい、その際に遺構は消失してしまったようです。

残念。

 

城跡としては本当にこれだけなので、急いでいる方にはおすすめしませんが、厳島合戦に関わりのある重要なお城跡。

やはり、一度訪れてみる価値のあるお城跡かと思います。

 

○桜尾城とは?

 

鎌倉時代初期、承久年間に厳島神主になった藤原親実(中原親能:系図上は大友氏の祖:の一族)によって築かれたとされています。

ここ桜尾城のある地域は、厳島神主領となっていたのです。

親実は幕府内で重要な人物でもあり、こちらに下向して残ったというわけではなかったようです。

しかし、後期に入って幕府内が混乱してくると、藤原氏は鎌倉を離れ当地に下向し、直接支配を始めたと考えられています。

この段階までに姓を藤原から佐伯に変えているようですね。

 

城は厳島神社を対岸に見る、三方を海に囲まれた海城であり、複郭式のお城であったと伝わっています。

後年、豊臣秀吉が九州征伐の折に立ち寄り、厳島神社に参詣したことが記録にも残っています。

 

室町時代に入ると、安芸分郡守護・武田氏の厳島神主領への侵攻が始まります。

武田信賢は若狭守護・武田氏の2代目として知られますが、安芸でも活発に活動しており、1441(永享13・嘉吉元)年にはこの桜尾城を包囲しています。

桜尾城の佐伯氏は大内氏の配下に収まったため、その後は平穏であったようです。

 

戦国時代に入ると、佐伯氏の中で家督争いが勃発し、最終的に友田興藤という人物が勝利して桜尾城の城主となりました。

この興藤が家督を継ぐと、大内氏が家督相続に介入してくるようになり、それを嫌った興藤は大内氏を離反。

1541(天文10)年、彼は安芸に勢力を伸ばしていた山陰の雄・尼子氏を頼って大内氏に叛旗を翻しました。

しかし、大内氏当主・義隆の行動は素早く、桜尾城は瞬く間に大内軍に攻め立てられて落城、興藤は自害します。

義隆は家臣の杉氏に厳島神主家の名跡・佐伯氏を継がせて、桜尾城に入れました。

 

義隆が1551(天文20)年の大寧寺の変で滅ぶと陶晴賢の家臣が桜尾城にも入っていましたが、1554(天文23)年、安芸の毛利元就が大内・陶氏に対し旗色を鮮明にして独立行動をとります。

5月にはこの桜尾城も元就らによって包囲され開城。

元就は家督相続以来の重臣・桂元澄(1500~1569)を城主に任じました。

 

厳島合戦の折の、彼の立場、行動、活躍は多くの方がご存知と思いますので、ここでは割愛させていただきます。

 

元澄は戦後もこの桜尾城の城主として、厳島神社と厳島門前としての廿日市の支配を委ねられ、その任に当たっています。

彼の死去後は、元就の四男・穂井田元清が城主となり、1587(天正15)年には先に触れたように秀吉が九州征伐の折に立ち寄り、厳島神社にも参詣しております。

 

関ケ原合戦後、桜尾城は広島入りした福島正則の支配下となりました。

正則は別に周防との芸州口を固める城を築城しており、桜尾城はその役目を終え、廃城となったと考えられています。

 

なお、江戸時代を通じて城跡は良好な状態で遺されていたようですが、明治期以降宅地化が進み、先に述べた通りの結果となったものです。

 

○常に毛利と共にある一族 桂氏

 

桂氏の歴史に触れる機会はそんなにないでしょうから、ここらへんで触れておきます。

 

本姓は大江氏。

大江姓から、相模国毛利荘(現・厚木市毛利)を継いで毛利を名乗った一族から分かれたのが坂氏で、桂氏はこの坂氏の庶家となります。

姓の桂は相模国津久井郡桂邑(現・相模原市緑区)から地名を姓としたものと言われています。

つまり、戦国時代はおろか、はるか昔、鎌倉期の相模国時代からの毛利氏の家臣ということになります。

毛利氏が安芸国吉田荘の地頭職を得て、一族の多くが下向した際に同道して安芸に入ったものと思われます。

 

と、言われているのですが、私が確認する限り桂氏でハッキリしているのは、安芸に入った後、坂氏から分かれた広澄が吉田荘桂に桂城を築いて移り、桂氏を称したというところまでです。

広澄(?~1524)は坂氏の嫡系でしたがなぜか分家しておりまして、坂氏の家督は叔父・広時が継ぎ、次いで従兄弟の広秀に継承されています。

なお、広澄の従兄弟には、元就家督相続時の功臣・志道広良や重臣・口羽通良がいます。

 

広澄は毛利本家の重臣として元就の父・弘元や兄・興元、その子・幸松丸に仕えておりました。

ところが、1522(大永2)年、尼子経久の圧力に屈した幸松丸の後見人・元就によって、執政の座にあった坂広時が殺害される事件が発生してから、毛利本家と坂氏との関係は明らかにぎくしゃくしてきます。

 

また、執政の座は広時の子・広秀ではなく、志道広良などが任じられるようになり、広秀は元就に対する不満を溜めていったようです。

 

1523(大永3)年、幸松丸が死去し、元就が家督を継ぐ事になります。

この時、主だった家臣15名が元就に家督相続を要請していますが、広秀も署名があります。

 

しかし、広秀は元就が当主となった事で前途は厳しいと踏んだのでしょうか。

また、尼子経久はもとより幸松丸の母の実家で、安芸の有力国人である高橋氏が何か吹き込んだのでしょうか。

1524(大永4)年、広秀は同じ重臣格の渡辺勝を引き込み、元就の異母弟・相合元綱を担ぎ上げて元就に謀反を起こしました。

 

この反乱はほどなく関係者がみな敗死して終結しますが、加担しなかった広澄まで自害してしまいました。

後の元澄の重用を考えると、広澄は反乱に加担してはいないものの、一門筆頭として詰め腹を切らされたと見るべきでしょう。

同じ従兄弟なら広良や通良もいますが、彼らは元就お気に入りですし、ここは嫡系でもある広澄が、尼子や高橋の手前、腹を切る事態に追い込まれたのではないか、と考えます。

 

もちろん反乱に加担していないのだから、その子である元澄が元就に重用されるのは至極当たり前であります。

 

また、元澄は元就と年齢も近く、その忠誠心も毛利家そのもの以上に元就に向かっているような印象もあります。

元澄をはじめとして彼の弟・元忠は毛利隆元の奉行人になっており、元就の家督相続・反乱による坂氏、渡辺氏の没落は、広澄の犠牲の上ではありますが桂氏に大きな転機を与える事になったといえるでしょう。

 

元就が隠居し隆元に家督を譲った後も、元澄や元忠は児玉就忠らと共に事実上元就に仕えました。

ちなみに隆元の代に確立した「五奉行制」のメンバーは、桂元忠・児玉就忠・赤川元保・国司元相・粟屋元親です。

奉行人でも、赤川元保などは隆元に忠実に仕えており、家臣団も元就派と隆元派に分かれていたようですね。

 

元澄には6人の男子がいたようです。

ある程度業績が分かっているは3人で、四男・景信(母・福原氏)、五男・広繁、六男・元盛(共に母・志道氏)です。

このうち、元澄の後、家督相続したのは広繁でした。

 

景信(?~?)は永禄年間にはすでに小早川隆景の補佐役として小早川家では井上春忠に並ぶ重臣となっており、天正年間には家中6番目の席次であって小早川一門に次ぐ地位となっていました。

元澄が死去した時、すでに小早川家中で地位が出来上がっていた景信には、桂本家の家督を継がせなかったのでしょう。

1582(天正10)年の秀吉との備中における戦いにおいては、「境目七城」の守将の一人として庭瀬城に入っています。

 

広繁(?~1607)は、家督相続後は元就四男・穂井田元清の補佐を命じられています。

元清が元澄の後に桜尾城主に任じられた事は前に触れましたが、何かこういった縁故というか地縁というか人間関係というか、そういったものがこの人事配置に表れています。

広繁も景信と同じく、1582年に境目七城の一つである加茂城本丸に入っています。

この境目の城には当然の事ながら秀吉幕下の黒田孝高や蜂須賀正勝らの調略の手が伸びていました。

加茂城も例外ではなく、本丸の広繁、西の丸の上山元忠は頑として応じませんでしたが、東の丸の生石治家は内応して秀吉軍を城に引き入れました。

治家は広繁に使者を送って降伏を勧告しましたが、広繁や元忠はこれを拒絶。東の丸に向けて鉄砲を撃ちかけ、これが戦闘開始の合図となると、秀吉軍は本丸に殺到しました。

広繁らは配下の将を失いますが、激しく抵抗して本丸を守り通し、秀吉軍を撃退しています。

 

戦後、1583(天正11)年には隆景の養子となって秀吉の元に人質に赴く元就九男・元総(後の秀包)に従って上京。そのまま小早川家の家臣となっています。

隆景隠居後、秀包が独立大名となって筑後国・久留米の領主となると、久留米に移っています。

関ケ原の折は秀包は西軍となって上京。広繁は久留米で留守居をしていました。

そこに、黒田孝高・鍋島直茂ら37,000の東軍が攻め寄せてきました。

城中には500ほどの兵しかいません。

それでも広繁らは数日持ちこたえた上で、降伏勧告に従い開城しています。

秀包は戦後処理で改易され、その後まもなく死去(1601年)し、広繁はかつて補佐していた元清の子で長府藩を興した秀元に仕えています。

 

末弟・元盛(1547~1637)はその名より、「桂岌円」という名前の方が通りがよいかもしれません。

彼が1622(元和8)年にまとめた「桂岌円覚書」は、吉川氏の家臣・森脇春方がまとめた「森脇覚書」と並ぶ、戦国時代の毛利氏の動向を知る上で欠かせない一次資料となっています。

 

こうやってみると、元澄の子ども達も、様々な形で毛利氏に大きな足跡を遺している事がわかります。

 

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桂氏はその後も主庶いくつもの家が、毛利氏に仕え続けました。

長州藩が成立した時、桂一門は寄組2家・大組14家と繁栄。

さらに長府藩の家老を務めた家、右田毛利家、吉敷毛利家にも庶家があります。

 

そして何より幕末動乱の中、「維新三傑」と呼ばれる木戸孝允(1833~1877)(桂小五郎:せごどんで玉山鉄二さんが演じてますね)を輩出することになります。

養子、ではありますけどね(笑)。

その日記で有名で内大臣を務めた木戸幸一(1889~1977)や一番最初に触れた元首相・桂太郎もこの一門の出です。

 

毛利氏が鎌倉時代に相模国の御家人であった頃からその元に従い、はるか後、幕末の時も毛利氏と共に動乱期を切り抜けた桂氏。

こういう一門一族というのは、なかなかお目にかかれないですね。

 

○行き方

 

山陽自動車道、広島岩国道路の廿日市JCTから廿日市インターを出て国道2号線西広島バイパスを広島方面に入ります。

ちょっとどこの交差点で曲がったか記憶が定かではないのですが、そこから国道2号線の旧道宮島街道の方に入ります。

右折と左折を1回ずつかと思います。

旧道を広島方面に向かい、廿日市港東の信号のある交差点を過ぎ、右手のNTT電話交換所を過ぎて一つ目の左折できる交差点を入っていけばすぐ桂公園です。

広島からなら、旧道をひたすら走った方がいいかもしれません。ちょうどいいインターがないので・・・。

 

徒歩でも十分行ける距離です。

JR山陽本線・廿日市駅から徒歩1Km弱程度です。

または広電・広電廿日市駅からなら徒歩800mぐらいでしょうか。

どちらにしても大きい地図なら桜尾郵便局あたりが目印になるでしょうか。

 

災害があってまもなくの広島県。

車にしろ、電車にしろ、むやみにふらふらと行くべきではないかもしれません。

状況をニュースなどで確認しながら、ご判断いただきたいと思います。