今回も城巡りアーカイブスネタでまいります。
引き続き南九州シリーズ、第3弾は宮崎県西都市にある都於郡城跡です。
100、続100名城には入っていませんが、国指定史跡。
最盛期は日向一国を支配下に置いた伊東氏が国人領主レベルであった頃からの本拠であります。
「~名城」には入っていませんが、歴史・規模双方から見ても登城価値のあるお城であると思いますよ。
後年、佐土原城が整備されて伊東氏の本拠格となり、そちらは続100名城に入っていますが、遺構とか純粋に城跡としてみればこちらの方が満足感はあるかと。
(というより、佐土原城は行きそびれて未だに行ってません(笑))
〇都於郡城
国指定史跡として整備されております。もちろん広い駐車場完備。
駐車場から普通に巡るといきなり本丸跡の下に出てしまう感じ。
やはりこの地方の城の土壁は、どこか他の地方のそれと違います。
火山灰土のなせる術でしょうか??
都於郡城は高さ約100mの丘陵上に、東西400m、南北260m、敷地面積6500坪に及び、5つの主要郭をいくつもの帯曲輪や腰曲輪が取り巻く広大、壮大な城です。
また、この城の峰続きの東方にはいくつも出城が築かれており、一大城郭群となっているのです。
やはりどこか雰囲気が違いますね。
深い空堀。城の規模に則した見事なものです。
本丸から逆走していく感じになります。各遺跡の跡はこのように説明板があります。
壮大なる土の城、といった感じです。
ともかく広いんです。そして城内高低差が半端ない。郭が極めて明確に分かります。
堀底道を歩き回ります。やはり郭の土の感じが違う。
よく削平されているので忘れてしまいそうですが、れっきとした山城なんですよ。
見晴らしもなかなかのものでした。
高いし、広い。土の城ならではの規模感。斜面も厳しいものがあります。
城の輪郭が非常によく分かります。
これ、なんで撮影したのか記憶にございません。。。
何かの跡地だったような気が。
搦手にあたる。櫓台が左手にあります。高い土塁ですよ。
いかがでしょう??
とにかく規模がデカい。
あまりにきれいにできているので山城に来ている事を完全に忘れてしまう(笑)。
まあ、山城と言ってもそこまで比高がないから、平山城、と言っていいかもしれませんが。
土のお城もここまで壮大だと、ある意味石垣造りの城を超える迫力があります。
佐土原は行きっぱぐってしまいましたが、このお城に登城しただけで私はかなりご満悦だった記憶が蘇ってきました。
せっかくなので天気の良い日に登城していただきたいですね。
雨だとそれなりにぬかるむし、景色も楽しめませんから・・・。
ただ、行って損はありません。これはなかなかのお城ですよ!!
〇都於郡城とは?
築城は1337(建武4)年、伊東祐持によるとされます。
祐持は京で没していますが、その子・祐重が1348(貞和4)年に再度日向へ下向。
都於郡城を横領していた一族・守永祐氏を追い払って回復し、それ以来、日向伊東氏11代義祐の代まで、ほぼ継続して伊東氏の本拠地でありました。
特に義祐の代には日向一円を支配下に置き、「伊東四十八城」と呼ばれた支城網の中心地として栄えました。
城は高さ100mほどの丘陵に本丸、二ノ丸、三ノ丸、奥ノ城、西ノ城、5つの郭を中心に、十を超える腰曲輪、帯曲輪が配された壮大なお城です。
いわば群郭式山城、と言いましょうか。あまりないパターンですね。
各郭の間には空堀と堀底道が置かれ、敵を防御しながらも互いに連携して攻撃を防ぐ工夫がされています。
それが写真でご紹介したような、壮大な景観につながっております。
この通称「五城郭」と峰続きの地に、他に7つの出城が置かれており、巨大といってよいお城です。
また、城の周囲は侍屋敷に寺社、町人地があり、さらにそれを取り囲むように総延長4Kmに及ぶ水堀と池による惣構えとなっておりまして、城域は最大東西2Km、南北1Kmにもなる、中世期の西国では有数の規模を誇りました。
城下には20の寺院と8の神社が置かれ、いずれも城の防御機能の一端を担う仕組みになっていました。
典型的な中世の城郭都市のありようです。
城は数度の火災に見舞われていますが、1504(永正元)年3月の火災では城内の建築物のほとんどを失っております。
この火災の後、伊東氏の本拠は佐土原城や宮崎城に置かれることもあったようです。
1577(天正5)年の伊東氏の「豊後落ち」により、島津氏の支配下となってからは、豊臣秀吉の九州征伐時に島津義久の本陣になったりしています。
島津氏の敗北により事実上の廃城となり、正式には1615年の元和の一国一城令によって廃城となりました。
〇日向の雄・伊東氏
伊東氏は、藤原南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族です。この工藤氏は各地に繁栄し、伊勢の工藤氏については以前、北畠氏のところでも触れました。
伊豆国伊東荘の領主となった工藤氏がその地名を姓としたのが、伊東氏の始まりです。よって発祥の地は東国・伊豆です。
この頃の工藤・伊東氏から始めたらいつ終わるかわかりません(笑)。
源頼朝と恋仲になり、子供をもうけた八重姫の父は伊東祐親でした。
この伊東祐親はもとは「河津祐親」と名乗っていました。兄・伊東祐継の死後、幼い嫡男(後の祐経)の後見役となって伊東に入ると、自身の長男には河津の姓を譲って河津祐泰とし、次男には伊東の姓を名乗らせて伊東祐清としています。
成年になった祐経は祐清の娘を妻とし、祐親と上洛して平重盛(清盛嫡男・小松殿)に仕えました。
京に残った祐経を尻目に、祐親は伊東の地を横領。祐経は京で訴訟を起こしますが、根回しに長けた祐親に勝てず。
さらに祐親は祐経の妻となっていた娘を取り戻し、相模国湯河原の領主・土肥実平の子、遠平に嫁がせてしまいました。
恨み骨髄に達した祐経は、祐親親子の暗殺を画策。
1176(安元2)年10月、河津祐泰は祐経の放った刺客に射殺されています。これが後の「曾我兄弟の仇討」につながっていきます。
1180(治承4)年、源頼朝が挙兵すると、平家の家人となっていた祐親は先の八重姫の一件もあり、大庭景親らと共に頼朝を討つ側に回ります。
最終的に頼朝方に捕らえられた祐親は、娘婿・三浦義澄の尽力で命を助けられたものの、それを由とせず自害。
祐清は頼朝に父・祐親の企み(八重姫の子を殺害した後、祐親は頼朝自身も討とうとした)を通報した命の恩人でもあったことから、恩賞を与えられますが、それを断って平家と運命を共にし、後に平家軍の北陸征伐隊に加わって源義仲との篠原の戦いに参戦、討ち死にしています。
この祐清の子・祐光の子孫が尾張国岩倉に移住し、尾張伊東氏を興したとされています。
織田信長や豊臣秀吉にも仕えた伊東長実はその末裔で、江戸時代は備中岡田藩として幕末まで存続しています。
実は後々、この尾張伊東氏とのつながりが、日向伊東氏の一度は閉ざされかけた道を切り開くことになるのです・・・。
祐経は頼朝に重用されましたが、1193(建久4)年、曾我兄弟(祐泰の子)によって殺害されました。
そのあとを継いだのが長男の祐時(1185~1252)で、彼が伊東祐時を名乗ります。この祐時の子孫が全国各地に広がっていきました。
ちなみに次男の祐長は伊勢国長野の地頭職を賜って移住、伊勢の長野工藤氏の祖となっています。
この祐時の子らが、それぞれ「早川」「田島」「長倉」「門川」「木脇」「稲用」などの諸氏となって分かれていきます。
この中には後に日向国でもそのまま伊東氏に仕え、重臣となった家もありますね。
鎌倉幕府から日向国で地頭職を与えられていた祐時は、田島や門川、木脇氏らを日向に送り込んでいました。
彼らの子孫が、実際に当主が日向国に入った時に、それを支える力となったのです。
この祐時から5代後の当主が祐持(伊東氏第6代・日向伊東氏初代)です。
祐持は1335(建武2)年、足利尊氏より日向国都於郡三百町を与えられ、日向国に下向し都於郡城を築きました。
子の祐重が再度日向に入り、都於郡城と旧領を奪還してからは、日向守護である島津氏の配下として「国衆」とか「国方」と呼ばれていました。
この頃の伊東氏は守護である島津氏に仕える国人領主でしかなかったのです。
しかし、島津氏が奥州家と総州家に分かれ、さらに庶家を巻き込んで内紛を起こしている間に、徐々にそのくびきから逃れ、独立の道を進みます。
祐持、祐重父子は北朝に忠誠を尽くしており、祐重は後に尊氏から一字拝領して「氏祐」と名乗っているほどです。
こうして伊東氏は室町幕府の威光を後ろ盾として、島津氏と争うようになり、徐々にその地位を改善していきます。
日向伊東5代・祐尭の時、1461(長禄4・寛正元)年には内紛続く島津氏に替わって日向守護を代行するよう8代将軍・義政から御教書を賜り(偽文書の可能性もある)、自身も幕府御相伴衆に任じられました。
8代・尹祐や11代・義祐も将軍家より一字拝領しています。特に義祐は将軍の「頭字」=「義」の一字を賜っており、これは今川義元や島津義久、大友義鎮など高い家格の家にのみ与えられたものです。
伊東氏は尹祐(1468~1523)が急死したのち、祐充(1510~1533)が若くして9代となり、最盛期を迎えていました。
近隣の北郷氏や北原氏を圧倒し、島津氏と直接対峙するだけの力を得ていたのですが・・・。
若い当主を支えるはずの叔父・祐梁が尹祐死後1ヶ月で病死してしまったことで、祐充の外祖父・福永祐炳の専横が目立つようになり、家中に不穏な空気が漂っていました。
祐炳は祐充の威光をバックに、稲津重由などの若キ衆ら反対勢力を大量に追放するなど、内紛状態に向かいます。
そして、1533(天文2)年、祐充が若くして死去すると、ついに溜っていた「不穏な空気」が発火し、爆発!
もう一人の叔父・祐武が反乱を起こし、福永父子を自害に追い込み、都於郡城を占拠してしまいます。
祐充の同母弟である祐清と祐吉は、外祖父一族を叔父に討たれ、拠るすべを亡くし、日向を離れて京に上る決心をします。
しかし、祐武を伊東氏の家督と認めない荒武三省ら一派に二人は擁立されることとなり、最終的に祐武を討ち果たすことができました。これを伊東武州の乱、と言います。
三省が米良氏との戦の中で戦死すると、一派の頭目となった長倉祐省らは祐清を嫌い、弟・祐吉(1517~1536)を日向伊東氏10代に迎えることとなりました。
彼は宮崎城に入って伊東氏の家督を相続しています。祐清は出家させられています。
しかし、わずか3年後、祐吉も病死してしまいます。
ことここにいたって、ついに祐清、後の義祐(1512~1585)が、還俗して日向伊東氏11代当主となり、佐土原城に入ります。
この1530年ぐらいからの数年間、伊東氏は外征どころではなくなり、激しい内紛状態で多くの一族・重臣・家臣が命を落としました。
祐清は当主になった翌年、室町12代将軍・足利義晴から一字拝領し、名を「義祐」と改めます。
幕府や京へのアプローチは継続しながら、疲弊した領国・家臣団の復興復旧に励むほかありませんでした。
義祐は1550年代後半から、他領に踏み込んで勢力拡大を図ります。
主な方向は二つ。
積年の念願である、豊州島津氏が守る飫肥。
日向の完全制覇には欠かせない、豊穣の地、真幸院。
飫肥を巡っては6代祐堯より続く9度の攻防戦を経て、1568(永禄11)年6月、ついに義祐の手中に落ちました。
特に9度目の戦いでは、義祐は2万と号する大軍を終結。
飫肥城を包囲した上で後詰に出てきた北郷・島津氏の援軍を一蹴して大被害を与え、ついに決着を着けました。
一方、真幸院の方では、1558(永禄元)年から婚姻関係を結んでいた北原氏の家督継承問題に介入。
1564(永禄7)年頃にはほぼ北原氏の勢力を吸収する事に成功しました。
しかし、完全制圧にはどうしても避けられない強敵がいました。
最後の地、飯野地区の飯野城には、島津義久の次弟・猛将でなる義弘が城主となっていたのです。
1566(永禄9)年から積極的に飯野方面に進出した伊東氏ですが、なかなか飯野城を抜けません。
1571(元亀2)年6月、島津貴久が死去し、義久が後継となると、隣国・大隅の肝付氏が島津氏に対し侵攻を開始しました。
義祐はこれを好機と見て飯野侵攻の機会をうかがっており、翌1572(元亀3)年5月、伊東祐安を総大将とする3千の兵を、飯野城攻略に向かわせます。
迎え撃つ義弘の手勢は3百。
しかし、地の利を得、さらに事前に幾重にも策略を巡らし準備していた義弘に対し伊東軍は完敗。
木崎原の戦いと呼ばれるこの戦で、伊東氏は多くの重臣クラスを失う大敗を喫し、真幸院攻略は完全に頓挫。逆に伊東氏の凋落の引き金となってしまいました。
この後、伊東氏は義祐の奢侈な生活と、一部の近臣を重用して家中の不満・混乱を招いた事が災いとなり、急坂を転げ落ちるように衰退していきます。
そして、1577(天正5)年12月、佐土原城にいた義祐を筆頭とする伊東一門は日向退去を決意。
姻戚である豊後の大友宗麟を頼って落ち延びることとなったのです。
これが、後の大友氏と島津氏の雌雄を決する一戦となる耳川の戦いのきっかけとなっていきます。
日向を退去した後の伊東氏については後に触れる事にいたします。
ともかく、この「豊後落ち」を最後に、都於郡城に伊東氏が入る事はなくなり、南北朝の時代より日向に蟠踞した伊東氏は「一時」日向から消える事となりました。
〇行き方
東九州道「西都I.C.」を下ります。
国道219号線に出ると思いますが。出口を右に出て北上。
「四日市」の交差点を左折して県道18号線へ。
道なりに県道18号線を走ると、都於郡小学校までたどり着きます。
この小学校の手前に城跡への案内板があり、駐車場に入っていきます。
非常にわかりやすい道です。
この小学校をナビなどで目印にされるといいでしょう。
電車と徒歩では到底いけません。
バスの便があるように見えますが、できれば車で訪れる事をおすすめします。














