今回も城巡りアーカイブスネタです。

九州シリーズ2つ目は、宮崎県都城市にある都之城(都城)跡です。

登城は引き続き2010年2月です。

北郷氏の歴史や庄内の乱まで書いたらやたら長くなってしまいました・・・。

 

文字通り都城盆地全体を締める位置にある、島津氏の分家・北郷氏の本拠であり、後年の伊集院忠真による庄内の乱の舞台となったお城になります。

かなり大規模なお城だったようですが、都市化が進み遺構は本丸周辺しかありません。

今その本丸は都城歴史資料館が建てられておりますが、時間の都合で私は入っていません。

では、その数少ない状況写真をご紹介します。

 

〇都之城

 

これは模擬大手門。

文章をよく確認してみるとわかりますが、何をもとにしたのか、何を復興したのか、の記述は全くありません。

あくまで本丸に建てられた資料館に合わせて、という内容です。

ですので、「復興大手門」ではなく「模擬大手門」と表現させていただきました。

 

本丸跡と西城跡と呼ばれる間の空堀が通路となっており、その通路にある木碑。

鶴丸城とも呼ぶようでした。

 

城の遺構はJR日豊本線の線路の向こう側(図面南方)にも広がっているようですが、私は時間の都合で行ってません。

通路がまさにこの2つの曲輪の間の空堀だったところにあるのです。

 

門跡。あまりにそのまま。

あまり遺構がないので思わず撮影した感じ。

空堀から本丸に登っていくところにあった門です。

 

撮影が文章ばかりになってしまいます。

 

縄張り図の拡大図。

こうやってみると、相当広大な城だったことがわかります。

パッと見、本丸から西に向かって11の曲輪を数える事ができます。

本丸と西城は、図面中央やや下側を東西(左右)に走る日豊本線の線路の北側、東隅にあります。

 

航空写真で見ると、わかりやすいです。

この地域特有のシラス台地を削り取って築かれた、曲輪が島のように浮かんで見えますね。

中央が本丸。資料館の建物が見えます。

 

いかがでしょうか??

ちょっと遺構の写真が少なくて申し訳なさ過ぎる感じです。

時間があればもっと歩き回ったんですがね、、、本丸周辺が精いっぱいでした。

時間のある方は歴史資料館と一緒に訪ねられてはいかがですか?

 

〇都之城とは?

 

最初にセールスポイント。

この城は一度も落城した事がありません。大軍に包囲された時もしのぎ切っています。大したお城なのです。

遺構がないと、侮ってはいけないのです(笑)

 

さて、このお城は南北朝時代末期の1375(天授・永和元)年、島津一族の北郷義久(北郷氏2代)により築かれました。

もともとは薩摩国迫一帯を足利将軍家より与えられ北郷氏を名乗っていましたが、義久の代にここ都城に移り拠点としたのです。

今後、この都之城の周辺が都城盆地の中心地となっていきました。

「都島」というところに築かれた城であったため、「都之城」という名前となったと伝わります。

 

この城の最初の大きな危機は、築城から4年後の1379(天授・永和5)年に訪れました。

島津本宗家の当主・氏久は義久の従兄ですが、彼は九州探題・今川了俊と争い、北朝方から南朝方に鞍替えします。

了俊は5男・満範率いる南九州の国人衆の大軍に、この都之城を攻めさせたのです。

義久は弟・樺山音久らと籠城戦を戦い抜き、また、氏久も後詰に出陣。

満範軍と島津軍の対峙は、ついに蓑原にて大規模な野戦に発展。義久、音久らも城を出撃して戦に加わり、島津軍は大勝します。

都之城は落城しませんでした。

その後も1381年までは態勢を立て直した数度に渡る満範らの攻撃を受けながらもついに落城せず、この城の堅城ぶりを示すこととなったのです。

 

この都之城が難攻不落を誇ったのは、この城を囲むように都城盆地に配置された「庄内十二外城」と呼ばれる支城網があったからでもあります。

この支城網は後々、庄内の乱においてもその効果を発揮することになります。

 

都之城は、本丸を東隅に置き、西に向かって扇を開いたように曲輪が配置されています。

城の防備がこの方向に重点的に配されていることがわかります。

火山灰土であるシラス台地にある南九州のお城跡は非常に特徴があるのですが、それこそ城が平地部分から浮き上がっているように見えるはずです。

このお城もその典型例であり、各曲輪が平地からそれぞれ島のように浮き上がって存在しています。そして、その間の窪地が空堀や通路の役割を担っているのです。

曲輪はすべてで11が確認されるのは前述の通り。なかなか広大な規模を有するお城であると言えるでしょう。

 

もちろん、初めからこのような規模のお城であったとは思えません。

城主である北郷氏も、この規模を維持できるだけの勢力を当初から持っていたわけではありませんでした。

その勢力拡大に合わせて、城も大きくなっていったと見るのが普通かと思われます。

 

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北郷氏は、薩摩国の島津氏から分かれた有力氏族の一つです。

島津第4代・忠宗の子、資忠を始祖とします。

資忠は北朝方の有力武将として知られ、足利将軍家より薩摩国迫一帯を与えられ、郷名より北郷を名乗りました。

この地方に進出し、都之城を築いた義久はこの資忠の子にあたります。

 

しかし、戦国初期にはその勢力は衰え、この都之城と安永城を支配するのみとなっていました。

 

北郷第8代・忠相(1487~1559)は智勇兼備の名将として知られ、飫肥に本拠を置く豊州島津氏と盟約を結び、北原氏や伊東氏、新納氏らに侵蝕されていた都城盆地の旧所領を取り返し、さらに進んで所領を拡大しています。

第9代・忠親(1512~1571)は、跡継ぎの絶えた豊州島津氏に自らが養子に入り、北郷の家は嫡男・10代時久(1530~1596)に継がせています。

これで二家は一つとなり、北郷氏全体としては南日向全体と大隅の一部を押さえ、強大な勢力となったのです。

都之城が、今、縄張り図で見るような広大な規模を持つ城になったのは、この忠親、時久の時代の事だと思われますね。

 

後に忠親の支配する飫肥地方一帯は、内紛による弱体化から勇躍家中をまとめ上げた伊東義祐に攻め立てられて明け渡していますが、北郷本家の時久の方はその後も島津本家の貴久と結んで勢力を拡大。

日向方面の先鋒隊としてその武勇を轟かせます。

 

豊臣秀吉の九州征伐時は徹底抗戦を主張。

時久自らは都之城に籠城し、先の庄内十二外城に将兵を配置して準備を整えていました。

しかしながら、敵うはずもなく、石田三成と伊集院忠棟を介して降伏しています。

この後、九州でも太閤検地が行われその時に北郷氏は国替えとなり、薩摩国祁答院に減封の上、転封となりました。

この時、時久は旧領が懐かしかったのでしょう、新領地の居館を「宮之城」(みやのじょう)と名付け、この地名は今もそのまま残っておりますね。

 

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この時久の後にこの庄内の地を治めたのは島津義久の筆頭家老・伊集院忠棟(1541?~1599)でした。

彼は都之城に入り、豊臣秀吉から直接朱印状をもらい、石高も8万石の知行を得ていました。

これは時久の転封先の倍以上の石高です。

島津氏の筆頭家老という地位のまま、秀吉直属の大名扱いでもあり、彼の存在は徐々に島津家中で浮いた存在となっていきます。

これは単純にその地位の問題だけではないでしょう。

 

秀吉は有力大名の優れた手腕を持つ家臣に対し、直臣になればより厚遇する事をもちかけ、直接間接的にその大名の勢力を削ぐ対応を行っていました。

古いところでは丹羽長秀が死去した際に、後継の長重が幼いところに付け込んで、長秀の優秀な家臣団を分解させ、自らの家臣にかなり加えています。五奉行の一人・長束正家や、溝口秀勝らがそうです。

やや趣は違いますが、石川数正とてその事例の一つでしょう。

誘いを受けながら断った事が有名になる、というのは、逆にその誘いに乗った武将が多かった事を意味しています。

上杉景勝の直江兼続、伊達政宗の片倉景綱などがその少ない例と言われています。

 

この忠棟についても誘いがあったと言えるでしょう。

忠棟がどこまで自身の立身出世を考えていたかはわかりませんが、秀吉の力をいち早く見抜き、早期降伏を主張したのも彼でした。

彼は降伏時、進んで秀吉への人質となり、石田三成とも親交を持っています。

この忠棟の行動は結果として、秀吉や三成の島津氏に対する心証をかなり良くしたことは間違いありません。

太閤検地やその後の豊臣政権下での身の振り方について、三成はあれこれとかなり世話を焼いており、義久隠居後の当主・義弘も恩義を感じていたと言われています。

忠棟は豊臣家への人質として政権の懐に入り込み、政権と島津氏のパイプ役、交渉役として、その能力を発揮したのです。

 

しかし、島津氏の内部ではこの忠棟の政権へのあまりの傾斜姿勢について疑いの目が向けられていたでしょう。

島津氏からの正真正銘の独立大名、あわよくば本家・島津氏に取って代わる野望を持っている、と思われていたようです。

無能者であれば、そのような疑念は生じません。裏を返せば、それだけ忠棟の能力は島津家中でも認められていたはずです。

 

またこれは島津家中にも要因があったと言えます。

島津家中は一枚岩ではなかったのです。

先の当主・義久は九州統一の目前まで島津を導いた名将で隠居後も隠然とした発言力・実行力を有していました。

現当主・義弘は義久の実弟であり、当主とはいえ完全に家中全体を抑え込める立場にまだなっていません。

また後継当主候補の忠恒(後の家久)は、義弘の三男でありながら兄達の早世で当主候補となり、男子のいなかった義久の娘と婚姻することでその正統性を確保している立場。

この忠恒の対抗馬とされていたのが、忠棟と共に秀吉の元で人質生活を送った事もある、義久のもう一人の娘婿・島津彰久(1595年に朝鮮で病死)で、忠棟はこの彰久を後継候補に推していた過去があります。

それに、そもそも、秀吉の息がかかった者が筆頭家老では、家中に大目付がいるようなもの。当主も家臣団も息がつけません。

それでも、この疑念や不満、憤懣は、秀吉が生きている間は水面下に沈んでいたのです。

 

秀吉の死により、水面下に沈んでいたそういったぐちゃぐちゃが一気に浮上してくることとなりました。

 

1599(慶長4)年3月9日。

京の伏見にある島津家の屋敷に忠棟は呼び出され、忠恒の差配のもと謀殺されてしまいました。

この一件は、忠恒の独断によるもの、先君・義久と忠恒が結託したもの、父・義弘と忠恒が結託したもの、諸説あります。

忠恒自身は、先の後継候補問題や朝鮮出兵時の島津軍の補給の問題など(忠棟が取り仕切っていた)で個人的に怨恨があったのは間違いなさそうです。

しかし、島津氏の立場としては、正直なところ忠恒一人に罪を被ってもらわなければ、亡き人とはいえ秀吉の「直臣」を謀殺したのですからお家がどうなるかわかりません。よって、義久も義弘もあくまで忠恒の独断であると弁明しています。

 

この時、忠棟の嫡男・忠真は都城にいました。

父の訃報を聞いた忠真は、当初は義久・義弘・忠恒に旧領安堵を前提として従おうとしていたようです。

しかし、島津本家が庄内への道を閉ざし通行止めとした事、義久には要望を受け入れられず、義弘には調停を願い出ても降伏を勧められるに及んで挙兵を決意。

6月には都之城を拠点に先の庄内十二外城を守り固め、総勢8千の兵力で島津本家への抵抗姿勢を鮮明にしました。

この忠真の挙兵に対し、島津本家は忠恒を総大将に、隠居の義久も戦陣に出、九州の一部の大名の援軍を受けて約3~4万の兵力で押し寄せますが、十二外城のうち二つしか抜く事ができず苦戦を強いられます。

ここでも、都之城を筆頭とする城塞群はその堅牢ぶりを証明したのです。

 

戦線は膠着して越年。

翌1600(慶長5)年3月。豊臣政権の事実上のトップである徳川家康の「降伏すれば、忠真を今まで通り島津家で召し抱える」という和睦斡旋により、忠真は降伏します。

忠真は帖佐2万石に移され、そのまま島津家に仕えました。

そして、都之城の主には、かつてこの地を支配した北郷氏の当主、12代の忠能が復帰したのです。

 

こうして後世「庄内の乱」と呼ばれる乱は終息しました。

乱の終結は、関ケ原合戦の半年前の出来事であり、本戦に島津義弘が十分な兵力を用意できなかった要因の一つ、とも言われています。

 

忠真はその寿命を全うすることができませんでした。

2年後の1602(慶長7)年8月17日、忠恒上洛の供奉を命じられていた忠真は、日向国野尻において忠恒が催した狩りの最中、「誤射」によって命を落としたとされています・・・。享年27歳でした。

誤射のわけがないですよね。現に、彼の三人の弟や母も、同じ日にそれぞれ預けられていた場所で殺害されています。

ただ、忠真の妻は義弘の娘であり、忠真の娘は義弘の孫にあたるためその命は助けられ、命を全うしています。

 

都之城はその後、元和の一国一城令により廃城となりその城としての歴史を閉じる事になりました。

 

〇行き方

 

長くなりました。

城は都城市都島町の城山公園になります。

車ならば国道10号線から「油田」交差点を経て市道→県道2号線→「鷹尾」交差点→県道31号線で行くか、同じ国道10号線から「広口」交差点→県道31号線→「岳下橋西」交差点で行く事になるかと思います。

他にも市道レベルならば道がありますので、ナビなどならば「城山公園」か「都城歴史資料館」を登録して向かわれるのがベストかと思われます。

徒歩でも行けるかと思います。

JR日豊本線の「西都城」駅下車です。県道31号線を経て城に向かう事になります。