今回は城巡りアーカイブスでまいります。
しばらく丹波方面が続きます。
登城は2010年1月です。
ご紹介するのは、兵庫県篠山市にある八上城跡です。
丹波のお城の中でも全国区の一つと言ってよいでしょう。
丹波平定を進める明智光秀を苦しめたお城ですし、この城を開城させ、城主・波多野兄弟を降伏させるために出した人質の件が、ひょっとしたら本能寺の変の遠因になったかもしれないとか、著名なお城ですよね。
単純に中世~近世山城遺構としても、見ごたえのある山城です。
◯八上城
車は専用駐車場がなかったので麓の神社に停めた記憶があります。
ちゃんとそこに案内板ありました。
城は「丹波富士」と呼ばれる高城山にあります。
もう一つの案内板。
綺麗な山容がわかりますね。
きれいに山一つを城にした感じ、
メイン登城道は春日神社口。
まず主膳屋敷跡。
屋敷跡だけありまして、ここが一番城内の郭の中では広いですね。
ここは波多野氏の遺構というより、最後の「八上藩主」である前田茂勝が主膳正であり、彼の屋敷がここにあったのです。
こんな感じの登城道を登っていきます。
国指定史跡ですから、整備されています。
先ほどの主膳屋敷跡から10分程度で、この、下の茶屋丸に到着。
すでに眺望がかなりよいです。
中ノ壇と呼ばれるところを過ぎて、ここが、上の茶屋丸。
ここまで来ると主郭部分はあと少し。
先ほどの場所から5分程度でしょうか。
ついに石垣登場。腰巻石垣ではありますが。
ここが主郭西側の入口にあたる右衛門丸。
石垣の写真はもう1ヶ所しかなかったです。
右衛門丸を一つ登って三の丸。
建物跡らしい礎石が確認できますので、設備がある程度あった事は間違いありません。
さらに一段登って二の丸。
私にしてはちゃんと道なりに写真に収めてます(笑)
もう一つの石垣写真。
上が本丸跡なので、本丸の腰巻石垣と言うものでしょうか。
この時代の山城遺構の石垣としては十分見ごたえあると思います。
だいぶ浅くなってますが土塁が。
本丸を取り囲むように二の丸が広がっています。
着きました。本丸到着。
高城山山頂、標高462mにあります。比高210mだそうです。
城跡石碑だけでなく、波多野秀治を顕彰する石碑あり。
かなり立派なものです。
本丸には篠山盆地の城跡などの配置図もありました。
本丸のまわりには腰曲輪があります。
段差が確認できるかと思って撮影したものかと。
保存状況が大変よいです。
東側の郭も確認に下ります。
こちらは蔵屋敷。
往時は兵糧蔵や武器蔵があったのでしょうか。
さらに下って上の番所と呼ばれるところ。
この先に下の番所があり、その先が波多野氏時代の登城口と呼ばれる野々垣口になります。
本丸から東側、出郭や上下番所など旧登城口側は、このルートで登城される方が少ないのか、やや荒れている感じがありました。
私は芥丸や西蔵丸と呼ばれる出郭部分までは行けていません。道はありましたよ。
眺望を。
木々の関係から本丸では撮影していません。
確か三の丸あたりではないでしょうか。
実は午後到着し、市街地の篠山城から先に行ったので、1月だから急速に暗くなってきた時間でした。
もう少し明るい時間なら眺望はもっと良かったはず。
いかがでしょうか?
篠山城までは100名城巡りなどで行かれる方が多いと思います。
ただ、篠山城は完全に平和な時代のお城跡であり、見事さは感じますがロマンは感じません(笑)
戦国好きなら、間違いなくこちらを登るべきです。
波多野秀治が籠城し、明智光秀が見上げたお城。
ぜひ、登城してみてください。
整備されてますから山城だけど、夏でも大丈夫かと思います!
◯八上城とは?
前述しました通り、きれいな山容から丹波富士とも呼ばれる高城山(標高462m)に築かれた中世山城です。
尾根伝いに郭をおいてますので連郭式という事になるでしょうか。
大小20以上の郭を持つ、中規模の山城といえます。
一部ですが腰巻石垣が確認できますし、建造物があったように見える礎石もありますから、単なる非常時だけの詰めの城ではなさそうです。
登城口はいくつかありますが、時代によって大手口は多少の変更があります。波多野氏時代は東側の野々垣口や藤ノ木坂口、明智氏・前田氏時代は西側の春日神社口だったようです。
私は車だったこともあり、春日神社口から登城しています。
いずれの大手口も北側の旧山陰道に向かってつけられています。
搦手口は西南麓、殿町にあり、波多野氏時代の初めはこちらに屋敷があったようですね。
・・・・・
築城は1508(永正5)年、波多野元清(後の稙通)によるものです。
波多野氏はもとは石見国出身の吉見氏(源頼朝の弟・蒲冠者、範頼の子孫)を名乗っていたようです。
丹波に来て数代、稙通の父・清秀の代に主君である細川勝元に認められ、主命により姓を母方の波多野に改めています。
応仁の乱の功績により、勝元の後継・政元から丹波国多紀郡を与えられました。
稙通は父が1504(永正元年)に死去したのちも勢力を拡大。
郡奉行であった難波氏を八上から追い出し、自分の城を築きました。
この八上城は数度に渡る籠城戦を経験しており、そのほとんどは細川氏綱を管領にいただき、晴元を排除しようとした三好長慶とのものです。
1549(天文18)年から1557(弘治3)年まで合計6回の攻城戦が三好氏との間で行われ、6回目についに落城。
城には松永長頼が入っています。
この時、波多野氏の当主は稙通の子・晴通でしたが、彼は1560(永禄3)年に死去。
子の秀治が後継となり、丹波支配を強化する三好氏、松永長頼(内藤宗勝)に抵抗を続けています。
そして、1566(永禄9)年、秀治はついに八上城を奪還しました。
1575(天正3)年6月。
丹波平定のため、明智光秀がいよいよ織田信長の命を受けて乗り込んできます。
翌年1月には赤井直正としめしあわせて光秀を欺き、八上城下で光秀軍に大勝して光秀を丹波から一度は叩き出します。
しかし、敗戦を糧に準備万端を整え、本来の用意周到さで、再度丹波入りした光秀には敵わず、じわじわと追い詰められていきます。
1578(天正6)12月にはついに八上城の籠城戦が始まります。
完全厳重に包囲され、周辺の味方勢力とは付城等で分断されてしまい、なす術なし。このあたり、光秀の戦略が徹底されています。
相手が悪かった。
秀治は6ヶ月堪えましたが、城内の兵糧尽き、草葉・牛馬を食べ尽くし、観念した秀治ら三兄弟は光秀の軍門に下りました。
ご存知の通り、その後秀治らは安土城の信長のもとに送られ、城下で磔刑となりました・・・
八上城には光秀の家臣・並河飛騨守が城代として入りました。
光秀敗死後、丹波亀山に羽柴秀吉の養子・秀勝が入るとその支配下になり、八上城は城番が置かれたようです。
そして、秀勝移封後は前田玄以(五奉行の一人)が亀山に入っており、その跡を継いだのが、最後の八上藩主といえる主膳正・茂勝です。
彼は亀山ではなくこの八上城を主府とし、屋敷を構えました。先ほど写真でもご紹介しました主膳屋敷というのは、彼の屋敷があったからです。
そんな茂勝ですが、1608(慶長13)年、重臣を殺害して八上城を出奔。
家臣が出奔するならまだしも、藩主自らが出奔してしまうという・・・。記録には「狂乱」とあるそうですが。
もちろん一発改易。
豊臣秀頼が未だ大坂城に健在だった時期です。
西国を抑える要衝だけに、譜代中の譜代(徳川家康実子との風聞あり)と言われた松平康重がこの地に入る事になります。
いやーそれにしても、このお話もあまりに出来すぎですねえ。
徳川幕府の願望通りの展開。
康重は八上城には入らず、今ある篠山城を天下普請で築きました。
築城から約100年。
幾多の戦下を潜り抜けてきた八上城ですが、この松平康重の篠山築城をもって廃城となりました。
◯波多野四代
波多野、という姓はもともと藤原秀郷流であり、今の神奈川県秦野(はだの、はたの)市を本拠として活躍した一族です。
分家筋には松田氏(現神奈川県足柄上郡松田町、後北条氏重臣・松田憲秀は有名)や大友氏(現小田原市大友、九州の戦国大名・大友宗麟が有名)、河村氏など、著名な武家を輩出している血脈になります。
そして、波多野義通が源義朝に従って活躍して以来、鎌倉幕府、次いで室町幕府でも評定衆に名を連ねている言わば古豪名門。
では、この丹波の波多野氏がその血脈なのかとなると、微妙です。
当時の「幻雲文集」所収の「波多野茂林居士(波多野清秀)肖像画賛」によると、丹波波多野氏の初代といってよい清秀は・・・
石見国の生まれであり、姓は源氏で石見の吉見氏の出。
18歳で上洛して管領・細川勝元に仕える。
勝元に評価され、母方の姓の波多野を名乗る。
応仁の乱でも活躍し、政元によって丹波国多紀郡を与えられた。
となっておりますので、少なくとも直系ではありませんね。
わざわざ母方の姓、かつ名前に秀の字を入れた名乗り替えを命じられたのは、波多野本宗家の影響力が室町幕府内にもあったからではないでしょうか。
勝元からすれば、彼の知名度を引き上げておけば、彼の才能をもっと引き出せると考えたと思われます。もちろん、勝元の立場的にも(笑)
この清秀の子、初名を元清といった稙通が八上城の築城者です。
彼は丹波国内で下剋上の流れに乗って戦国大名化していきます。
彼一代の間に、
・郡奉行難波氏を八上郡から追い出す
・八上城を築き自身の本拠とする
・守護代内藤氏を没落させ守護代格に
・主家細川氏の内紛に乗じて勢力拡大
・細川氏に反旗を翻し京に進出、細川高国を追い落とす
・将軍足利義稙から偏諱を許され稙通と改名、幕府評定衆に加えられる
・「丹波守護」とあだ名される
などなど、まさに一郡の領主から一気に駆け登った感がありますね。
彼自身が英邁な武将であった事は確かですが、それだけが勢力伸長の要因ではありませんでした。
それは、彼の弟妹です。
弟・元盛は細川家臣団の名門香西氏を継いで活躍しています。
もう一人の弟・賢治は柳本氏を名乗ってこちらも活躍して細川家の重臣となりました。
妹は国向こう播磨国の別所氏に嫁いでいます。
それにしても、細川家の当主を左右できてしまう程の人物・重臣が兄弟同士というのはすごいですね。
こういった兄弟達がまさに連動して稙通の栄達につながっていたのは間違いありません。
また、稙通は将来を見越して娘を三好長慶に嫁がせております。細川家内での勢力バランスを念頭においていた事は確かでしょう。
しかし、稙通が1545(天文14)年に死去すると、雲行きが怪しくなってきます。
すでに元盛、賢治(共に細川高国に暗殺されたと見られる)は亡くなっています。
稙通の跡を継いだのは晴通(別名・元秀)でした。
彼はかつて柳本賢治と共に京に進出して細川高国を追い出した事があります。
彼はそのまま細川高国に敵対して、一方の晴元を支援していました。
高国亡き後、晴元が管領におさまりいったん世情は安定しかけます。
妹が時の実力者・三好長慶に嫁いでいますし、平穏になるはずでした。
しかし、こんどは晴元が長慶を警戒し露骨に疎んじ始めます。かつて長慶の父を自害に追い込んだ家臣を改めて重用するなどしたのです。
いよいよ長慶は晴元打倒を決意。
細川氏綱を管領に担ぎ出し、晴元を追い払います。
敗れた晴元は、将軍・足利義晴と共に八上に逃れてきました。
長慶は正室となっていた晴通の妹を離縁。
八上城が数度の攻撃にあったのは先にも触れました。
晴通は1557年、ついに敗れ、八上城から姿を消します。
稙通の死去から12年、波多野氏は三好氏の台頭に反比例するかのように、急速に勢力を失い本拠を追われたのです。
晴通は八上城を奪還する事がかなわないまま、1560(永禄3)年に死去しました。
晴通の跡が秀治です。
祖父、父と違い将軍から偏諱をもらえていないところからも、当時の波多野氏の状況がわかります。
波多野氏を圧倒した三好氏ですが、その三好氏も1564(永禄7)年に長慶が亡くなると急速に分裂していきます。
丹波は守護代を継いだ内藤宗勝(松永久秀の実弟・長頼)が支配していました。
1565(永禄8)年8月、宗勝は赤井直正が守る黒井城攻めで戦死し、状況は一気に秀治らに傾きます。
翌年に秀治はついに八上城を奪還。三好勢力を丹波から追い出す事ができました。
秀治は当初、織田信長に協力的でした。
信長の最初の上洛の時も、兵を派遣しています。
そんな秀治が信長に反旗を翻したのはなぜでしょうか。
本当のところはわかりませんが、別所長治が娘婿でありますから、毛利氏や足利義昭からの誘いが別所氏を経由して入っていたと私は考えます。
また、祖父・父といわば将軍直臣だったこともあり、義昭からの檄に思うところもあったのかもしれません。
しかしながら、もう時代はその流れには戻りません。
一度は明智光秀を策をもって破りましたが、事実上戦場での裏切り行為。
信長の激怒を買い、光秀の再度の侵攻を招きます。
八上城籠城、開城については先に触れました。
波多野秀治・秀尚・秀香の三兄弟は、信長の命により、1579(天正7)年6月2日、磔刑に処されました。
三人とも辞世を遺し、「さすが思い切り候て、前後神妙の由候」とその最期が「信長公記」には見えます。
こうして丹波国に四代に渡って足跡を遺した波多野氏は滅亡しました。
秀治の幼い次男は難を逃れ、後に篠山藩に仕えたと地元で言われております。
◯行き方
長くなりましたが、ここで行き方を。
私は車で行きました。
舞鶴道の丹南篠山口I.C.を下りまして出口左折、県道306号へ。
ひたすら道なりに進むと国道372号に入ります。
すぐ、バス停「十兵衛茶屋」のあたりで一本右奥(南側)に国道と並行して走る道に右折して入り、春日神社付近に駐車して登城しました。
難しくはないので、春日神社付近を探していれば何とかなるはずです。
電車から徒歩で向かうのは無理かと存じます。
篠山城からでも3Kmはあります。
バスの便はあるはずですが、ちょっとそこまでわかりませんでした。
申し訳ありません。
せっかく篠山まで入られるのであれば、車で入り、これからご紹介する丹波の城巡りも一緒にしてみてはいかがでしょうか?