今回はお城ネタに戻ります。
2009年12月登城、大阪シリーズが続きます。
写真少ないのでまとめて2つご紹介。
◯三箇城
大阪府大東市三箇に所在。
石碑と案内板しか写真がありません。
つまり、城の遺構は何もない、という事になります・・・
しかしながら、文献には登場していますし、所在不明系のお城ではありません。
こちら案内板。
日本城郭大系にも記事ないんですが。
その他欄128番にはありまして、
「飯盛山城の西方、河内平野の正面に対する支城。
のち白井氏の城となる。白井氏はキリシタンで、豊臣秀吉によって教会と共に廃城となる」
以上、みたいな感じ。
なぜこの城が文献に出てくるのか?といえば、やはりこの時代の歴史記録で大変参考になる宣教師の記録に出てくるからです。
このお城はバスカル・ビレラやルイス・フロイスが滞在しているので、彼らの記録に出てくるのですよ。
日本側と宣教師側の記述に共通しているのは、
「水に囲まれた小さな島に城がある」
という点です。
今は全く想像つきませんが往時は大きな沼地=湿地帯の中に島が3つあって、それをつないで城になっていたそうです。
そうでもしなかったら平地の真ん中の城ですから、敵を防ぎようがないですからね。
もともとの城主は三箇氏です。
1561(永禄4)年に紀伊に追放されていた河内守護・畠山高政が、根来衆徒らを引き連れて河内国に侵攻した際に落城しています。
翌1562(永禄5)年、時の城主・三箇頼照はキリスト教の洗礼を受けてサンチョと名乗りました。
ここから三箇城の城下には教会が立てられ、信者も集まり、街ができていったものと思われます。
三箇氏は1582(天正10)年の本能寺の変の時に明智光秀に加担、没落します。
代わって城主となったのが白井氏、という流れです。
しかし、1587(天正15)年のキリスト教禁令により教会は破却され、三箇城そのものも廃城となったそうです。
◯高屋城
大阪府羽曳野市にある高屋城跡。
本来なら単発でご紹介していいお城ですが、写真も少なかったので・・・。
まず案内板。
どこに車を停めたのかちょっと記憶定かならず。。。
大阪府のお城にしばしば見られる「古墳を利用」したお城であります。
大規模古墳の周囲はもともと濠が巡らされている場合が多いので、そのまま活用されてます。
ここはれっきとした伝安閑天皇陵であり、立ち入りできません。
つまり高屋城の本丸跡には一般人は入れないんですね。
また、実際に高屋城を根拠としていた畠山氏の当主達も、帝の陵墓の上で生活をするのを憚り、二の丸で生活していたそうです。
仕方ないので周辺確認。
戦後まもなくの頃はかなり城域を特定できるくらい自然と共に遺構も残っていたらしいです。
しかし、宅地造成が進み、築山古墳として保存されている本丸を除けば、かなり城跡感はなくなっていますね。
まだ一部雑木林状態で残っている二の丸北半分。
私が確認できた「高屋城」はこれぐらいでして・・・
中世から戦国期にかけて、三管領家にして畿内の政局を左右し続けた、足利一門の名門・畠山氏の故地としてはいささか残念な登城となってしまいました。
まあ、都市化が進んだ地域のお城跡は史跡指定でもされない限り、バリバリ開発されて地上から消滅してしまった例も少なくないから、しょうがないですねえ。
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今ではその規模を実際に確認することはできませんが、記録や発掘調査、古図面などから、畿内の有力者・畠山氏のお膝元にふさわしい規模の城であったと推察されます。
本丸は城内で唯一の要害らしい築山古墳を活用しています。平野部の真ん中に比高約50mは目立ちますよね。濠もあるし。
先に述べました通り城主たる畠山氏当主でさえ帝の陵墓の上に住まう事を憚り、生活の場は本丸の南に広がる二の丸でした。
この二の丸には上級武士の居館が置かれていたようです。
このさらに南に三の丸が置かれ、下級武士や一部町人が居住していました。
また、本丸より北にも2郭が図面でも確認できます。
よって、全部で5郭からなる大規模な城郭でありました。
またどの郭も大規模で当時の城郭の中では有数の広さです。さらに深い堀と高い土塁で囲まれておりました。
城内には東高野街道が引き込まれており、戦略的に人・物の流れを押さえようとしたものでしょう。防御的にはややマイナスでしょうが。
他にも八幡神社に高屋神社、姥不動も内包し、事実上一つの街が城の中に造られていた模様です。
ただ、高屋城はかなり多くの戦を経験しており、城主も目まぐるしく替わりました。
よって、上記の城内が常に充実していたのかは疑問です。
戦火にかかればその都度灰塵に帰すわけで、城主の威光強ければ復興は早く、弱ければ遅れますから。
しかしながら、戦国期において有数の「守護所」であった事は間違いありません。
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高屋城は応永年間(1394~1428)に畠山基国によって築かれたと言われます。
畠山氏当主は三管領家であり京に常駐が基本ですから、城には河内国守護代・遊佐氏が入っていました。
この城の周辺にはもともと誉田城や古市要害と呼ばれるものがあり、高屋城との区別も難しく、「高屋城」という名前が文献に登場するのは応仁の乱以降です。
よって、実際の築城者ないし整備者は畠山義就、その子基家、または政長ではないかと考えられます。
それから約100年、高屋城はいくたの戦乱を受けながら存続しました。
応仁・文明の乱(1467~1477)の終結により、畠山氏当主の座を巡る争いはその主戦場を河内・和泉・大和に移して続けられました。
河内国内では、純粋に武士としての評価が高く地侍に支えられた義就派が優勢でした。
しかし、将軍・細川管領家・大和衆徒を後ろ楯に得ている政長派もしぶとく、河内国から追い出されてもまた態勢を立て直して侵攻する事を繰り返していました。
高屋城の主はコロコロ替わります。
政長→
義就(~1491死去)→
基家(義就の子・~1499死去)→
義英(基家の子・~1505)→
尚順(政長の子・~1519)→
稙長(尚順の子・~1539)→
政国(稙長の弟・~1543)→
稙長(~1545死去)→
政国(~1550死去)→
高政(政国の子・~1558)→
安見直政(守護代・~1559)→
高政(~1560)→
三好之康(長慶の弟・~1561)→
高政(~1565)→
三好義継(長慶養子・~1567)→
三好康長(三好一門・~1568)→
昭高(高政の弟・~1572自害)→
遊佐長教(守護代・~1573)→
三好康長(~1575)
畠山家督争いは、最後に義就のひ孫・義宣が1532年に討たれ、一応の決着を見ますが・・・
もはやかつて三管領の一家の勢威はなく、二度守護代の下剋上に遭い、三好氏にも追い出されみたいな感じですね。
これだけコロコロ城主が替わっても、高屋城が河内国南半分の主府であることは変わりなく、常に守護、守護代、一族一門が入っています。
重要度が高かったという事です。
最後は1575(天正3)年、三好康長が城主の時に織田の大軍に攻められて康長は阿波に逃亡。
この落城を最後に、高屋城は城として使われる事はありませんでした。
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高屋城だけ行き方です。
西名阪自動車道の藤井寺インターを下りて、国道170号線で。
築山古墳がありますからそれを目印にされれば問題ないです。
電車なら、近鉄南大阪線の古市駅下車、徒歩10分程度でしょうか。
固有の駐車場はなかったような気がするので、他にも登城されるわけではないなら、電車と徒歩の方がいいかもしれません。