週末更新できなそうなので、連投になりますが今日も更新します。

アーカイブスネタで、登城は2009年10月です。

 

滋賀県米原市弥高にある上平寺城跡です。

 

ここは短い間ですが、佐々木道誉(高氏)以来の名門・室町幕府四職の一家、京極氏の本拠地であったところです。

今では城下の庭園跡も含めて国指定史跡となっています。

私が登城したのはもう8年も前の事ですが、整備はその後いかがなんでしょうね・・・。

 

持っていた資料も少なく、地図とかにも古いのには載っていなかったので、登城までは苦労しました。

でも、行ってみただけの価値はあったと思います。

 

〇上平寺城

 

この史跡、案内板が豊富なんですよね。以下、順に。

史跡の全体像を把握するには、一番最初のこれが一番わかりやすいかもしれません。

これを見ると、上平寺城そのものは、中世山城によくみられる「詰めの城」であって、日常は麓の居館で生活していたものと思われます。

京の影響の多い地域であり、名門守護大名の居館だけあって庭園が整備されておりました。

 

古地図にするとこの写真のような感じになるのです。

もともと上平寺城のあったところには、それこそ上平寺という寺院があったようですが。

 

遺構に入っていきます。

 

本当に案内板が大井のですが、すべて麓にあります。

確か、もともと寺院があったんですよ、という内容だったような気がします。

 

居館跡の奥の方。庭園が広がっていました。

写真では紹介できておりませんが、庭園だったことを彷彿とさせる石などが置かれていた記憶があります。

この左手奥のところにある標識から登城していきます。

 

まず、三郭。最も南側にあります。

けっこう広いんですけどね。写真では今一つ伝わらないですね(笑)

 

堀なのか、道なのか、わからないところを登っていきます。

ここらへんが今一つ「国指定史跡」としての整備感がないですよね。これだとよくみかけるフツーの山城跡です。

 

三郭から二郭に入るところに虎口があり、城跡そのものの案内板はこれが一番わかりやすいです。

図の左下に麓の居館があるイメージ。

 

虎口の感じ。

 

ところどころに堀切が見られます。

虎口のすぐ後ろにある一番大きい堀切だったような記憶があります。

 

どんどん登っていきます。

問題なく歩けますけど、やはり誰もが気軽に行ける城跡とは言い難い雰囲気。

 

二郭に出ました。

奥に土塁がハッキリと見えますよね?

だいぶ低くなってしまっていますが、ほぼ手付かずで400年以上経ていてもこの高さがある、と思うと往時はもっと立派だったのではないかと推察されます。

三郭にはこんな立派な土塁はありませんでした。

 

二郭の上の最高到達点(標高666m)が本郭になります。

ここにも土塁が築かれているのがわかるかと思います。

後ろに伊吹山の山塊があるのですが、一応、この峰の最高到達点になります。

チラッと写真に見えていますが、さらに奥に虎口があって、伊吹山及びもう一つの詰めの城である弥高城につながっています。

 

振り返って南側を。

割と広い本郭と、奥は写真にすると光でよく見えませんが、山々が見える感じです。

標高は高いのですが、もちろん周辺も高いので比高はそんなでもありません。

 

写真ではよくわからないかもしれませんが、主要郭以外に帯曲輪などが設置されています。

真ん中に階段状で一段低い曲輪みたいなものが見えますかねえ。

 

いかがでしょうか。

城そのものは山城跡と考えてよろしいかと。

国指定史跡としては整備感が微妙な感じですけど、案内板もそうですがやる気は感じられる史跡でしたよ。

西濃~湖東、湖北は見どころのあるお城跡が多いので、ぜひ一緒にまとめて登城してみてはいかがですか??

 

〇上平寺城とは?

 

もともと同名の寺院があったことは先述しました。

近江北半国守護であった佐々木京極氏がここに居館と詰めの城を設けたのは、永正年間(1504~1521)の事と伝わります。

それまでは、同じ米原市内の太平寺城に拠点を置いていたものを、一族の内紛が京極高清の代になってようやく収まった事で、ここに本拠を移し、居館も造営しました。

 

麓の居館とコンビで、上平寺城を詰めの城とし、さらに弥高城という出城も設けています。

このあたりはこの時代の典型的な山城の位置づけであると思われます。

 

城は伊吹山山塊から伸びるいくつかの峰のうちの一つ、その最高到達点に本郭を置いています。

尾根伝いに南北に連なる、この時代の山城にやはり多い連郭式のお城です。

居館から登城すると、南から三郭、二郭、本郭となっており、二郭と三郭の間に虎口と大きな堀切、竪堀があります。

竪堀は他にも随所に見られることが判明していますね。

 

さて、これだけの整備をしたこのお城ですが、寿命は短いものでした。

 

大永4年(1524)、こんどは高清の二人の息子の後継争いに守護代や国人層がそれぞれ二派に分かれて争う中で、上平寺城も陥落、麓の居館もろとも灰燼に帰してしまったのです。

高清と材宗が先に和睦して長く続いた内紛が収まったのが永正2年(1505)の事。

その後にすぐ造営されたとしても、わずか20年ほどの間に落城、焼失、そしてそのまま捨て置かれていたそうです。

 

それから46年後。

元亀元年(1570)、同盟者・義兄である織田信長と袂を分かつことになった浅井長政は、美濃・近江の国境にあるこの城を重視し、城としての機能を復活させ、改修して備えました。

 

しかしながら、より南西にある鎌刃城の堀秀村らが、調略を受けて信長方に降ると、この城の防衛線としての意味はなくなってしまい、そのまま廃城となったと思われます。

 

こうやって見ると、お城としては本当に短い一生だったんですね。有名になっていないのも納得です。

自分としては、近江北半国の守護にして、幕府で四職を務めた家柄の一家の拠点だから、どこかに遺構があるはずだと思い、日本城郭大系やネットでいろいろ探している中で、ようやく発見したのです。

そういう意味ではかなり思い入れを持って登城したお城跡でした。

 

〇佐々木京極氏

 

以前にも触れましたが、宇多源氏佐々木流といえば、源平合戦の源頼朝挙兵時に率先して加わって活躍した佐々木四兄弟が有名です。

この四兄弟の末裔は、頼朝以来の有力御家人として鎌倉幕府内でも重きをなしていました。

その中で、嫡流として位置づけられていたのは近江南半国守護に後になっている六角氏です。

京極氏はその六角氏に次ぐ家格でありました。

 

その力関係を一度、逆転させたのが、佐々木京極高氏(号:道誉、1296~1373)です。

後の世に「バサラ大名」の代表格として知られるこの男。

鎌倉幕府末期、幕府内でも役職のある身でしたが、足利高氏(後の尊氏)を見込んで意気投合。

尊氏の挙兵に合わせて自身も宮方に鞍替え。積極的に活動した記録がありませんが、尊氏らに攻め立てられ鎌倉に向けて落ち延びようとした六波羅探題の北条仲時らを領内、近江国番場で阻止。

鎌倉落ちを諦めた仲時らは、番場の蓮華寺にて一族ら432名全員自刃しています。

また、幕府方となっていた六角時信の降伏を尊氏に仲介したのも彼。

 

後醍醐天皇と尊氏が争うようになると、ほぼ一貫して尊氏方の主力として活動。

新田義貞の尊氏討伐軍に駿河で敗れた際は義貞に降参するも、その直後の箱根・竹ノ下の戦いでは尊氏方にすぐ寝返り、尊氏大勝に大きく貢献します。

 

室町幕府創成期の、足利直義・高師直の争い時は、一時師直を支持するも早い段階で勝者となった直義方に。

次いで直義と将軍・尊氏が争うようになると、こんどは尊氏方に。

 

この時、六角氏頼は直義方に組していた(後に出家して赦されています)こともあり、一時期、「佐々木惣領職」を認められています。

 

尊氏の跡を継いだ2代将軍・義詮の信頼も厚く、幕府内では政所執事などを務めていますが、この「政所執事」というのが後に「管領」と呼ばれる地位です。

彼はこの執事の一段上に君臨し、執事の任命権を握っていたと言われています。

 

晩年は同じ幕府内の重鎮である斯波高経と争い、彼を讒言で失脚させるなど、最後の最後までなかなかの食わせ者でした。

彼の代に、京極氏は嫡流家である六角氏を大きく上回る、若狭、近江、出雲、上総、飛騨、摂津の六ヶ国の守護に任命されています。

 

・・・・・

 

しかし、その京極氏の勢威は一族の内紛により急速に瓦解していきます。

 

そもそもの発端は、文明2年(1470)の京極持清の死から始まりました。

彼はまだ近江、出雲、飛騨、隠岐の四ヶ国守護でした。

持清の嫡男・勝秀も立て続けに死去してしまったため、跡目を決めることになったのですが・・・。

 

「筋目である」として、嫡孫である勝秀の次男・孫童子丸を推す、持清三男の政経、近江守護代で一族の多賀高忠

「先君(持清)が溺愛していた」として、勝秀の庶長子・乙童子丸を推す、持清次男の政光、飛騨守護代の多賀清直

 

折しもこれは応仁の大乱の真っ最中。東軍・西軍両方の陣営の綱引き合戦も絡み、事態はどんどん複雑になります。

 

一度は孫童子丸が政経の後見を受ける形で家督を継ぐのですが・・・。

 

ややこしく言うと、ここに隣の同族・六角氏の家督争いも絡んでいてまさにぐちゃぐちゃ。

 

しかも!!

孫童子丸が翌年、夭折してしまいます。(享年6歳)

 

文明4年(1472)、乙童子丸派は近隣の六角高頼や隣国・美濃の斎藤妙椿らの援軍を受けて総反撃を開始。

政経や高忠を近江から追い出し、越前へ敗走させます。

ここに、家督はこんどは政光を後見にして乙童子丸に。飛騨・出雲・隠岐の三ヶ国守護に任命されました。

 

ところがところが収まらないのは政経や高忠。

出雲に逃れて再起を窺っていましたが、文明7年(1475)、出雲の国人衆を引き連れて上洛。

幕府は政経を近江守護に任命します。そして、近江国の奪還を命じるのです。

 

・・・・・

 

こんな一進一退の争いは、最終的には孫童子丸の後見であった政経とその子・材宗VS乙童子丸=高清の争いとして延々と続きます。

最終的には永正2年(1505)、北近江の国人領主層で最大の京極氏被官であった上坂氏らに擁立されていた高清が勝者となり、材宗と和睦が成立。

35年もの長きに渡った内紛は落着しました。

ただ、材宗はそのわずか2年後、高清によって自害に追い込まれています・・・。

 

・・・・・

 

この時、すでに京極氏の勢威は、近江北半国にしか及ばなくなっていました。

出雲や隠岐は台頭した一族で守護代の尼子経久に。

飛騨は旧勢力である守護・姉小路氏や、過去に取り上げた同族の三木直頼らに実権を奪われていました。

 

一度は京極家中に安寧をもたらした高清ですが、大永3年(1523)こんどはその高清の子、高広と高吉の争いが勃発。

 

長男・高広派・・・浅見貞則、浅井亮政ら中小有力国人

次男・高吉派・・・当主・高清、上坂信光ら支配階層

 

当主自身がどちらかの派閥に入ってしまっている段階でもはや統御不能ですね。ここには下克上の流れが対立軸に確実に見て取れます。

大永4年(1524)、ついに貞則や亮政らは国人一揆に及び、高吉派は敗れて尾張に逃亡しています。

 

この貞則が、領主ヅラして振る舞った事がよくなかったのでしょう。同じ年のうちにこんどは亮政らによって彼も近江を追放されてしまうのです。

 

いやー、この経緯を見ていると、本当にこの浅井亮政という人、なかなかの策士ですよねえ。

まず自分の上の勢力=上坂一族を同列で協力して陥落させ、次いで同列の浅見一族を蹴り出し、終わってみれば自分が高広を立てる形で実権を握ってしまう!!

・・・ウマい、話がウマ過ぎる!!

 

そんな亮政に不満を持ったのは、やはり傀儡にされてしまった高広。

高広は弟を推して争った高清と和睦。六角氏の支援も受けて父子で亮政に立ち向かいますが・・・。

 

結局、時代の流れにも抗せず、天文3年(1534)、亮政の本拠・小谷城を訪れ、和解。

実権を亮政に委ねることとなったのです・・・。

 

一方、高吉本人は六角氏の庇護のもと、なおも江北奪還を目指して活動していますが、永禄3年(1560)の敗北を最後に二度と兵を動かす事はできなくなりました。

 

なお、この高吉の子が、関ケ原合戦で西軍から東軍に寝返り、大津城籠城戦でその名を上げ、江戸幕藩体制下で京極氏の命脈を保つこととなる高次です。

 

〇行き方

 

名神高速の米原ジャンクションから北陸道の米原インターで降ります。

関ケ原方面ですから、国道21号線の出口は右へ出る方へ。

国道21号線を東進して、東海道線沿いに進み「一色」の交差点を左折。

次の交差点を右折して、また東海道線に沿って進みます。

県道248号線、244号線(道なり接続)をひたすら走り、「大野木」の交差点で国道365号線へ右折方向で。

次の(といってもかなり距離ある)信号のある交差点、「藤川西」の交差点を左折。

そしてすぐ次の交差点を左折して直進すれば、突き当りあたりから史跡まではすぐそこです。

 

この突き当りのあたりにバス停の記載があるので、バスの便があるかもしれません。

最寄り駅はJR東海道本線の「柏原」か「近江長岡」になりますが、5Kmは離れていますので、徒歩で行くのは現実的ではないと思います。

 

車でないと行きづらいですが、ぜひ登城してみてください!