今日も更新ですが、アーカイブスネタです。

登城は2009年10月。九州シリーズ(2009年9月)が終わり、ここから数回は岐阜県飛騨地方が続きます。

 

今回は岐阜県高山市にある松倉城跡です。

ここは飛騨を統一した姉小路自綱が、夏の時期の本拠としていたお城で、かなり高い山の上にあります。

中腹までは車で行けますので、そんなに厳しい登城ではありません。

山城としての石垣、景色の良さは有数だと思っています。

続100名城とかに入らなかったのは残念!!

 

今回は写真多めにしてみました。

まずは御覧ください。

 

○松倉城

 

駐車場から、本丸付近構造物に登城する途中に堀切。

ちょっとわかりづらいですかね。横堀でなく、竪堀です。

 

三の丸下の石垣が見えてきます。

道幅狭いですが、十分整備されていると言ってよいレベル。

 

いやー、立派な石垣。

上が本丸です。

この石垣ですが、姉小路時代ではなく、後に飛騨一国を拝領した金森長近が、高山城に移る前の改修時のもの、とも言われています。

 

下にも石垣が見えますね。

 

ここには櫓がありました。

 

三の丸から二の丸へ上がっていきます。

左手が本丸になりますね。

 

開けた二の丸。

細長く先端に向かっています。

 

後でこの階段を上って本丸へ。

 

二の丸の先端の方に下へ向かう石段があるのに気づきました。

 

降りた先に大手門跡が!

こっちが本来の大手門でした。

実は駐車場は、市街地から見たら松倉城の裏手=搦手側にあるので、その反対側に大手門があるのはある意味納得。

 

三の丸、二の丸よりはスペースが狭いですが、本丸です!!

ここは、なんか清々しい気持ちになります!!

 

案内板と石碑がありましたが、とりあえず案内板の方を。

1558年に自綱の父、三木良頼の代にこの高山盆地を制圧して築城に取り掛かったようですね。

図を見ると正面=大手門側の守りは二の丸、裏手=搦手側の守りが三の丸、二の丸の先に出丸を設けて石垣で固めた造りのようです。

 

いやー絶景かな、絶景かな。本丸より市街地方面を。

晴れた10月の青い空と清々しい空気。

 

遠く北アルプスをしっかり望めます。

肉眼だともっとハッキリ見えますよ。

すいません、よく見えませんよね・・・。

さすが標高856m(比高360m)の松倉山山頂にあるお城だけの事はあります。

 

野面積みの豪快な石垣。いいですねー。

 

よく見ると石垣構造のさらに外側に曲輪があるのが確認できます。

主要部は石垣造りですが、ここだけがお城なのではなく、姉小路時代は大小問わずもっと曲輪が設けられていたと思われます。

 

ちょっと搦手側の石段を下りてみます。

 

櫓跡になっていました。

 

いかがですか??

いつもより写真多くしてみましたが。

 

山上の石垣遺構がまず立派。よくこんな高い場所にこれだけの石垣を組んだものです。

造りはシンプルなんですけど、本丸、二の丸、三の丸の位置関係は、この時代の造りを備えていますし、見応えがありますよ。

そして何より、あの景色!!

晴れていないと微妙ですが、見事としかいいようがない!!

10月上旬の登城でしたが、山はすでにうっすら雪化粧でした。

時期的に11月下旬の今だともう厳しいですかねえ。ただ、中腹までは車だから、冬山セットなら全く問題なく登城できると思いますよ!!

空気がきれいな冬なら景色も格別でしょう。そして夜は近くの温泉でゆっくり・・・。

 

○松倉城とは?

 

飛騨の城下町、高山市街地を望む標高856mの松倉山の山頂に築かれた山城です。

石垣造りの本丸、二の丸、三の丸、出丸から山頂構造物はできており、すべて見学可能ですね。

山の裏手、搦手側中腹まで車で行けますので、登城はそんなに難しくありません。

 

ただ、山城の造りを考えた場合、この山頂構造物から麓にかけて、大小の曲輪があったのではないかと考えます。

山頂の構造物だけでは到底敵を防げませんし、飛騨国内では「難攻不落」と呼ばれていたようなので、そういった山腹構造物も多くあったと推察できるわけです。

 

築城は1558年となっています。

飛騨南部を掌握していた三木良頼が、嫡男・自綱に命じてこの高山盆地を制圧したのがこの年でした。

飛騨の中央部を制圧し、南の美濃、東の木曽、北の越中、西の郡上、それぞれに向かう街道を抑えるこの地に築城したものと思われます。

 

自綱は築城から1584年の金森長近の飛騨侵攻まで、この城を「夏の本拠」としていたようです。

当初、三木氏=佐々木源氏京極流の一族を名乗っていた良頼、自綱親子ですが、飛騨一国掌握を目論み、その大義名分を得るべく活動をし、後醍醐天皇の御代から飛騨国司であった姉小路氏の名跡を継ぐことになります。

この松倉城は、そういった三木氏=姉小路氏の上昇期、統一期を見届け、最後はその終焉を自らの落城をもって見届けることになります。

 

実際のところ、姉小路頼綱(自綱より改め)が飛騨一国を完全に掌握していたわけではありません。

合掌造りで有名な白川郷には内ケ島氏がおり、いわば織田氏という共通の同盟者を介して争いを避けていました。

よって、一部除いて統一、という形になるのですが、これもわずか1年ほどでしかありませんでした。

 

1584年、前年に柴田勝家、本年に佐々成政を降伏させた豊臣秀吉は、両者に組みしていた頼綱を攻め滅ぼすべく、越前大野の城主であった金森長近に侵攻を命じます。

長近は、かつて頼綱に滅ぼされた飛騨の国人領主らの子孫や、一足早く降伏していた内ケ島氏らの先導を受けて飛騨に侵攻。

頼綱は隠居先の高堂城で、そして次男で後継となっていた秀綱がこの松倉城で、長近軍を迎え撃ちました・・・。

 

しかし、難攻不落とも言われた松倉城は、長近の養子・可重の率いる軍勢に攻め立てられ、城内から内応者が出て落城。

秀綱は逃亡先の妻の実家である信濃で自害したとも、落武者狩りにあって討たれた、とも言われています。

 

こののち、飛騨一国を与えられた長近の支配下で修築を加えられたのが、今見る松倉城の姿なのではないかと・・・。

長近は一時期鍋山城に入っていたようですが、今の高山城に本拠を定めるにあたっては、この松倉も候補だったと思います。

ただ、この時代の築城が、平野部の平山城、政庁としての機能を果たす本拠である流れを考えると、あまりに峻険な山城は、不向きであると考え、その後使われなくなったのではないでしょうか。

 

ただ、間違いないことは、1605年に高山城が完成し、長近がそこに入る段階で廃城になったであろうことです。

意外と、城としての歴史は短いお城だったんだなあと思いました。

 

○三木自綱=姉小路頼綱という男(1540~1587)

 

この父、良頼から触れだすと、小説が一つ書けるぐらい(笑)のボリュームになりそうなので、この自綱、頼綱だけザックリ触れておきます。

なかなか面白い、というか戦国らしい武将です。

 

三木氏とは前に書きましたが、近江国の発祥である宇多源氏の佐々木氏京極流の一族です。

よって、六角氏や尼子氏、朽木氏、米原氏、塩冶氏、あの官兵衛の黒田氏などと広義の同族ということになりますね。

官兵衛の高祖父・高政の代まで黒田氏は近江にいたことになっていますからね!

主家・京極氏の飛騨守護任命の際に飛騨入りしたものと思われます。当時の守護大名の多くは京に常駐ですから、いわば現地代官。

 

祖父・直頼の代から、積極的に領土拡大を開始。

父・良頼の代にはほぼ益田郡と高山方面を制圧。

この父の代に飛騨国司(1558年)及び姉小路氏の名跡(1560年)を正式に継ぐことになり、改名。自綱から頼綱へ。

国司・姉小路氏は、飛騨国内に居を構え、小島、向、古川の三家に分かれて土着していました。

良頼はこのうち小島姉小路氏と提携して、他の二家を追い落とし、その古川姉小路氏の名跡を継ぐ形で飛騨支配の大義名分を得ることとになります。

 

良頼が1572年12月に死去すると、跡を継ぎます。

飛騨国司となり、姉小路氏の名跡を継いだ後も、彼らの周辺は安定しませんでした。

1564年には飛騨北部で根強い勢力を持つ江馬氏が、信濃の武田氏の傘下に収まり武田軍を飛騨に手引き。

木曽より山県昌景の侵攻を受けて降伏。領土の江馬氏への一部割譲などを余儀なくされています。

こういった経緯から、良頼・頼綱父子は、武田と対立し江馬氏を背後から牽制できる越後の上杉氏と同盟しています。

いわば、武田・上杉の代理戦争が飛騨では江馬・姉小路の対立となって表れていた、ということです。

しかし、頼綱はこの2大名の動向だけを探っていたわけではありません。

 

そう、すぐ南、美濃国を制圧し、一大勢力となった織田信長です。

 

頼綱には信長に近づきうる「人脈」がありました。

頼綱の正室は、斎藤道三の娘です。

そう、同じく道三の娘・濃姫の婿である信長と頼綱は「相婿」なのですねー。奥さんが姉妹、というやつ。

 

信長は1570年に上洛すると、近隣大名に対し上洛して新将軍・義昭に拝謁するよう促します。

当時はまだ良頼が当主でしたが、まず頼綱が名代として上洛。

後に父・良頼も上洛し、信長や義昭と能を観劇した記録があります。この時に良頼は昇殿を許され、「公卿」(彼は従三位でした)として時の正親町天皇に拝謁しています。

 

美濃と飛騨の国境、美濃側の加治田の領主は妻の実家・斎藤氏の一族、斎藤利治でしたから、頼綱はこの縁を最大限に活用しつつ、信長とはあくまで「同盟」(徳川家康と同じかな)という関係を維持しています。

 

つまり・・・

一つの顔は上杉謙信に従属して、武田信玄・江馬氏と対抗する。

もう一つの顔では、「飛騨国司姉小路氏」として、朝廷=足利義昭=織田信長に「直参衆」チックな関係を築く。

 

まあ、大勢力に挟まれた小国によくあるパターンではありますが、なかなかのバランス感覚ですよ、これ。

 

一方、国内に目を向けると、高山盆地周辺に勢力を持つ鍋山氏に実弟・顕綱を婿養子に送り込みます。

この顕綱。

頼綱の指示かどうかわかりませんが、養父・鍋山安室を毒殺。さらに養母や安室の実子を殺害して、鍋山氏を完全に乗っ取ります。

着々と飛騨統一に向けて歩を進めていきます。

しかし、白川郷の内ケ島氏とは数度鉾を交えるも、内地戦にはめっぽう強い内ケ島氏には勝てず。

内ケ島氏が後々織田氏の傘下に入ると争いを止め、共同歩調をとります。

 

江馬氏とはその後も一進一退を続けていましたので、あくまで上杉謙信には従属。

つまり謙信が越中に出兵すると、飛騨から越中に遠征しています。

 

1578年、決定的出来事が起こります。

謙信が死去したのです。

謙信死去の段階を持って、いよいよ北陸・越中方面は柴田勝家や佐々成政による織田氏の優勢が決定的になります。

頼綱はここでも「人脈」を有効活用。

織田氏の越中侵攻に協力していた、頼綱の妹婿・越中斎藤氏の斎藤信利のツテを頼って成政に合力します。

ここに頼綱は「織田信長の同盟者」としての顔に統一、いよいよ飛騨を統一すべく動き出します。

武田氏は1575年の長篠の戦い以来、飛騨に手を出す余裕はなくなっていました。

 

1579年、頼綱は武断的な手を用いて一族粛清を行っています。

 

まず、実弟・顕綱とその妻を暗殺。

彼の謀略力とその貪欲さを恐れたと言われていますが、ひょっとしたら武田氏や上杉氏の間諜が紛れ込んで吹聴していたのかもしれませんね・・・。

 

「顕綱は、姉小路の家を狙っている」「跡継ぎに収まろうとしている」と。

 

さらに、その顕綱の謀略に加わっていたとして、嫡男で松倉城を預けていた信綱を謀殺してしまいました。

確かに、自分の嫡男と実弟が組めば、頼綱の地位は危ういのは事実でしょう。

けっこうそれまで一歩一歩やらしく布石を打っているようにみえる頼綱ですが、どうしたのでしょうか??

信長の後ろ盾が得られると思い、気が大きくなったのでしょうか?

私が思うに、この一件から、実は頼綱の運気は下降し始めていたように見えるのです・・・。

 

殺害した信綱に預けていた松倉城に、頼綱は進出。江馬氏に味方する(というより武田・上杉に従属する)勢力を屈服させていきます。

江馬氏との決戦のときは近づいていました。

 

ここでまた決定的な出来事が起こります。

1582年6月、京、本能寺にて信長が討たれます。

 

これで力を得た「気になった」のは江馬氏の当主・輝盛です。

信長の死とその後の織田家中の混乱を見てとった輝盛は、頼綱にもう後ろ盾はないと確信。

頼綱と雌雄を決すのは今をおいて他にない、と考えたのでしょう。頼綱に従う他の諸勢力も動揺するに違いないと思ったはずです。

 

1582年10月、輝盛は麾下300騎を率いて、本拠・高原諏訪城を出発。大坂峠を越えて、今の高山市国府町八日町に進出。

自領を出て、姉小路氏の所領内に攻め込んだのです。

10月26日の夜明け前、輝盛は頼綱に組みする小島姉小路時光の小島城を夜襲。

時光は応戦して激戦となり、輝盛はいったん八日町の陣に戻ります。

翌27日、態勢を整えた頼綱ら姉小路方1000名は八日町の輝盛の陣に攻撃を開始。

しかし、勇猛をもって鳴る輝盛率いる江馬軍は強い。

「勇将の下に弱卒無し」

一時、頼綱方は先鋒が切り崩されて押されます。

 

ここで、頼綱麾下の鉄砲隊が流れを変えました。

 

輝盛は自ら先鋒となって姉小路軍に攻め込んでいましたが、鉄砲隊に狙撃され負傷。

そこを牛丸又太郎に討たれてしまったのです・・・。

 

総大将を失った江馬軍は総崩れとなり、大坂峠では江馬氏の家臣13名が主君の後を追って自害しました。

大坂峠を地元の方は「十三墓峠」と呼び、「十三士の碑」が今では建てられています。

 

28日には姉小路軍の先鋒、小島時光が江馬氏の本拠、高原諏訪城を落とし、ここに北飛の雄・江馬氏は滅亡しました。

 

盟約関係にあった内ケ島氏を除いて、飛騨で頼綱の支配下にない勢力はなくなりました。

頼綱はついに飛騨一国を統一することになったのです。

 

頼綱はそれまでの経緯から、越中を支配していた佐々成政と連携関係にありました。

また、美濃方面では本能寺の変で亡くなった織田信忠の家臣団を継承した織田信孝が岐阜に入っており、信孝→勝家→成政連合と組んでいる方が領内安全と恐らく考えていたのかもしれません。

 

これが結果的にはアダになってしまいました。

 

立て続けに勝家が滅亡、信孝が降伏→自害、成政が降伏してしまうと、頼綱は他に頼る味方はなく、完全に孤立。

秀吉の命を受けた金森長近に単独で抗する力はありませんでした。

先の「八日町の戦い」の時に動員した兵力が1000騎、と考えると、十分、長近の配下と協力者で追い込む事ができたのでしょう。

 

統一戦の中で討ち滅ぼしてきた飛騨の旧族の生き残りが、長近に協力していました。

盟約関係にあったはずの内ケ島氏は一足先に秀吉・長近に降伏し本領安堵されており、先導役を果たしました。

 

頼綱の運気が下がっていたと言ったのは、やはり親族さえ信じることができず、謀殺した頃から、士心が離れ始めていたのではないか、という事です。

この「雪崩現象」のような展開はそう思いたくなります。

 

次男で松倉城に籠城して抵抗した秀綱の末路は先に書きました。

 

頼綱はどうなったのでしょうか??

 

実は頼綱はその「姉小路氏」の肩書が最後は物を言いまして、「公家の血脈」ということで命は助けられ、京で幽閉生活を送っています。

そして、3年後の1587年に48歳で亡くなっています。

 

長男・信綱 父により謀殺。

次男・秀綱 長近の飛騨侵攻時に徹底抗戦。その後逃亡。自害ないし討ち死に。

三男・元綱 叔父・顕綱謀殺後、鍋山の名跡を継ぐ。その後不明。

四男・直綱 尾張藩士となる。子息は美濃・郡上八幡藩遠藤氏に養子に入り藩主に。血脈は絶えるが遠藤氏は幕末まで残る。

五男・元頼 小島姉小路氏に養子に入り、継承。その後不明。

六男・近綱 人質として送られていたため命を助けられ、縁戚の遠藤慶隆の援助の元で成長。京に滞在して姉小路氏再興を目指す。最終的には江戸幕府下で旗本(500石)に取り立てられ、御家再興を成す。

 

子供たちのその後を見ると、本当にいろいろですね。

戦国時代、戦と謀略に明け暮れてその一生を終えた父を、子供たちはどう思って、その後の人生を歩んだのか、ちょっと興味がわくその後でした。

 

○行き方

 

目印は「飛騨民俗村 飛騨の里」になります。「飛騨高山美術館」でも可。

高山市街を東西に走る国道158号線にまず出ていただくことです。

「上岡本町南」交差点と「松倉中学校西」交差点の国道沿いに間に、入っていく曲がり口があります。

そこから飛騨の里まで上がっていくと、飛騨の里から先に登っていく山道(ちゃんと車で走れます。舗装道。)があります。

確か、案内矢印板もあったような気がします。

どんどん登っていくと、中腹の最高到達点に駐車場があるので、そこに車は停めて登ってください。

電車の場合は、高山駅からバスの便があります。

濃飛バスで「飛騨の里」まで来れます。そこから登城ですが、徒歩20分ぐらいだと聞きました。

そんなに無理はないと思います。

飛騨の里はそれはそれで十分楽しめる施設なので、高山城やこの施設と一緒に訪れてみてはいかがですか??

 

この近辺はいい温泉が多い!!

奥飛騨行ってもいいし、下呂に行ってもいい。それに今は高山市内でも立派な温泉が湧く温泉旅館があります。

この登城とは別に私が友人たちと行ったのは、「飛騨高山温泉 高山グリーンホテル」でした。市街地にあるんですよ!!

よろしければ、一泊どうぞ。

確か、夜、飛騨の里のライトアップイベントにバスを出して連れて行ってくれましたよ!!

ちなみに我々が行ったのは2月。めっちゃ寒かったですけどね(笑)