今日もこんな時間に更新します。またもや城巡りネタです。

競馬のない日の休みは時間を持て余している、というのもありますが、腰痛がひどくて出かける気になれないというのが本音・・・。お金もかかりますしねー(笑)

 

で、名島城に引き続き、福岡県福岡市東区、新宮町、久山町にまたがる立花山城跡です。

 

実は九州シリーズの予定を決めた時、必ず行きたいお城跡にしていたほど、期待していたお城です。

 

北九州の、博多の覇権を握るにはこの城を抑えなければならないという、重要拠点中の重要拠点だったところですからね!

 

ただ・・・。

残念ながら、写真が少ない・・・。なぜだろう・・・。山登りでバテたのか??

 

◯立花山城

 

この城跡はハイカーも多いので、専用の大きな駐車場がちょっと離れたところにきちんとあります。

そこにあった大きな案内板。

赤い点で現在地が。

私は城を挟んで博多とは反対側、北東方面から登城しました。

 

途中、大友氏最晩年の名将・勇将・猛将、立花道雪(1513~1585)のお墓がある梅岳寺の前を通ります。

道雪は初名、戸次鑑連といい、立花山城の「城督」(大友氏はこう呼びます)だった立花鑑載が毛利氏に寝返って道雪らに討たれてからは、彼が立花山城督になっています。

確か道雪の今に伝わる肖像画はここ梅岳寺の所蔵ではなかったか、と。

 

なんか看板の写真しかないという・・・。

これ井戸。

山城の井戸は生命線です。

 

これは城跡にいよいよ入っていく入口の前にあった城の案内板。

 

で、入口。

ここまでは写真があるんですよ。

ここからぱったり写真がなくなります。

確かに私が登城した北東方面は遺構が少ない。

城そのものは山頂から博多方面にあたる北西に尾根伝いに遺構があるので・・・。

 

いきなり山頂。本丸跡。

ハイカーがいっぱいいるのが確認できますよね(笑)

ここの本丸、かなり広いんですよね。皆さん座ってお昼の準備している感じでした。

 

目の前には福岡、博多の一大市街地を望めます。

海、山、そして街。なかなか絶景かな。

天気も良かったんですよ!!

 

道中の道はこんな感じ。

下城時は写真を撮る余裕があった、ということですね(笑)

一見、厳しそうですが、暑い九月でこれですから、そこを外せば問題ないです。

 

再び、梅岳寺の前より本丸跡を望む。

真ん中のひときわ高いところが本丸跡。

 

私は北東方面から登城し、すんなり同じ道を下城してしまいましたので、あまり遺構に出くわしていません。

遺構を見ながら登城するのであれば、城の北西方面、福岡市方面より登城すればよいのかと思います。

石垣の多くは名島城と同じく、福岡城の築城時に移設されたようですが、まだ一部石垣が遺っているはずです。

 

100名城にも続100名城にも入っていませんが、城の歴史や関わった人物を考えれば、一度は登城しておきたいお城であると考えます。

 

◯立花山城とは?

 

城は標高367mの立花山の山頂に本丸を置き、北西方面の尾根に沿って松尾山(349m)、白岳(315m)というもう2つのピークを取り込んだ、大規模な山城です。

最初は中世によくあるタイプの山城だったと思いますが、最終的には石垣を巡らした中・近世同居のお城になっていたようですね。

 

今、遺っている石垣は、福岡城に持っていかれなかった石垣で、あとは井戸だけが遺構として存在するのみになっているのが残念・・・。

 

築城は南北朝期初期の1330年、大友貞宗の次男・貞載。

この貞載が、姓も立花を称したと言われており、初代になります。

この貞載、太平記の中でなかなかの悪役になっています。

新田義貞が後醍醐天皇の命を受けて大軍を率いて、鎌倉に残る足利尊氏らを討つために東下し、相模の国の入口、箱根・竹之下で激戦となります。

この時、貞載らが義貞を裏切って尊氏方に加わった事が一因となって宮方は大敗。

 

この時、主上(後醍醐天皇)らは比叡山に立て籠もりますが、その下で「三木一草」とうたわれた忠臣の一人、結城親光が足利方に降参してきます。

親光はある覚悟をもって降参したのですが・・・。

 

足利陣中で、貞載らに迎えられた親光。

貞載から見れば、自分達と同じ、降参、寝返り組。みんな同じ価値観ならわからないでもないのですが、一瞬油断したのではないでしょうか。

「仲間が増えた」と思ったのかもしれません。

 

しかし、親光は違いました。彼は「降参」したのではなかったのです。

 

「貴様らの寝返りのせいで、このような一敗地にまみれることとなったは悔しい限り。これでも食らえ!!」

とばかりに太刀を振るって貞載に斬りかかります。

親光はその後も「尊氏めにひと太刀浴びせん!!」と周囲を斬りまくったようですが、最後は討ち取られました。

 

貞載は即死は免れましたが、この時の傷が悪化し、まもなく亡くなりました。

 

おっと、またまた脱線してしまいました。

太平記の中で、けっこうこの場面好きなんですよね・・・。

この忠臣を引き立てる場面で、貞載は完全な悪役です。

 

しかし、彼もその3年前は、九州で反鎌倉幕府、反北条の旗を掲げて宮方となり、鎮西探題・北条英時を攻め滅ぼした功労者の一人なんですけどね。

 

立花山城は北九州の要衝にして、大貿易港・博多を抑える城として、代々大友氏の一族たる立花氏がほぼ城督を務め続けています。

この城はそれこそ、大友氏・少弐氏・大内氏、後は毛利氏の争奪戦の的となります。

ここを抑えたものが博多を、ひいては北九州を抑えることができるのです。

 

戦国時代、最後の城主は、あの立花宗茂でした。

 

彼が弱冠20歳の1586年、実父・高橋紹運を筑前・岩屋城で討った島津軍約4万が北上。

この城を取り囲みます。

ここを落とされれば、九州は島津のものとなってしまいます。

宗茂は、豊臣秀吉の九州征伐軍の上陸が近い事を知っていましたから、その時間を稼ぎ出すため、徹底抗戦の道を選びます。

彼の気性や立花家(というより立花道雪)の家風を考えれば、秀吉の来援が先であっても徹底抗戦したと思いますけどね。

 

先に岩屋城、次いでこの立花山城で徹底的に足止めされた島津軍はついに秀吉の来援までに九州を抑え切ることができず、いったん薩摩へ撤退していきました。

立花山城を抑えない限り、北九州を抑えることはできないのです。

 

立花山城はその城としての運命が終わるその時まで、ずっと「北九州の要衝」であり続けたのです。

 

宗茂はその後、筑後・柳川に移り、紆余曲折を経ながら、最後は幕末まで続く、筑後・柳川藩立花家の藩祖となりました。

 

替わって筑前に入った小早川隆景は、先にご紹介した名島城に移ります。

時代の趨勢に、もう要害堅固な山城は不要になっていました。

この隆景の名島築城、移転をもって、立花山城はその550年以上に及ぶ城としての歴史を閉じる事になりました。

先に述べた通り、石垣は福岡城の石垣に転用されています。

今は、福岡市街からすぐ行けるハイキングコースとして、市民の憩いの場になっているのです。

 

本当にそれこそ「つわものどもが、夢のあと」ですよ、このお城は。

 

◯行き方

 

私は車で行った関係で駐車場が十分確保できる北東からの登城口を選びました。

国道3号線、新宮町内の須川交差点から県道540号線「山田新宮線」に入ります。

立花小学校前の三叉路は右側へ。

六所宮を過ぎた立花口公民館の対面に広めの駐車場が整備されています。

案内板を見ると、城に向かうのは徒歩の登城道が他にも数ルートあるようです。

遺構を見学しながらであれば、福岡市側から登る(見た目大変そうですが・・・)方がいいのではないかと思います。

バスの便は麓近くまであったように思います。

すいません・・・。

 

ここは100名城でも続100名城でもなく、そちらを優先されている方にとってはどうかと思いますが、戦国山城ここにあり、みたいなお城なので、ぜひ一度登城してみてください!!