ごぶさたしている城ブログですが、がんばって復活です。

アーカイブスネタではありますが・・・。

 

実は和歌山城巡りは他に2つありました。

和歌山城と田辺城です。

和歌山城は100名城の1つ。写真も新鮮味がないでしょうから止めました。

田辺城は今は水門跡しか残っていません。そこで止めました。

そこで・・・和歌山県新宮市にある新宮城です。

ここは・・・掘り出しものですよ!!国指定史跡ですが。

登城は2009年9月です。

 

○新宮城

 

車で行きましたし、公園指定されていて駐車場もあったはず。

これ最後に撮影した写真でした。

登城口を間違えたみたいで・・・。

 

立派な石垣が迎えてくれます。

ワクワクしますねえ。

 

歩くのにも困らないので、順調に登っていきます。

 

本丸だったかな・・・。

 

天守台のようですが、本丸の北西に突き出た出丸。

下に通路みたいになっているところがありますが、もともと本丸とは切り離された構造だったようですよ。

 

絶景かな。絶景かな。

城下を流れる熊野川の流れ。

ただ、この2年後の11年9月、台風12号での大水害時は、この新宮城の麓でも被害があったようです。

 

この構図好きなんですよね。

大分の岡城にもこんな構図があったような。

石垣がよくわかります。

 

石垣造りが実感できます。

 

 

実は私の登った登城口とは別に、正しく「西側登城口」というのがあって、冠木門もあったんですよね。

これ、降りてきて気づきましたよ。

 

いかがでしょうか?

これ30枚以上撮影したうちの10枚です。

遺構は石垣を中心にかなりの範囲・規模ですよ。国指定史跡としての整備感もあります。

ちょっと住まわれている地方によっては甚だ行きづらい場所かもしれませんが、一見の価値があります!

 

○新宮城とは?

 

別名は丹鶴城といいます。

これは、この城のあった山に、源為義(義朝の父・頼朝の祖父)の娘である丹鶴姫の住まいがあった事に由来しています。

この丹鶴姫の弟が、頼朝に以仁王による平家打倒の綸旨を届けた新宮十郎行家です。

行家は、地元の勢力・新宮氏の祖と言われる人物です。

 

この地はもともと、熊野三山を支配していた熊野別当の別邸があったようです。

 

戦国時代この地は、堀内氏が支配しており、この堀内氏の城と館は別の場所(新宮市内全龍寺のところ)にありました。堀内氏といえば紀州水軍を率いて秀吉の下で働いた堀内氏善が有名ですね。

 

氏善は関ケ原の際に西軍につき、改易。

替わって紀伊は浅野幸長が甲斐から入ることになります。

新宮は、幸長の一門で重臣である忠吉に任され、2万8千石を領することになりました。

今に残る新宮城のもとを築いたのはこの忠吉です。1601年のことで、一応1602年には完成を見たようです。

 

一国一城令でいったん城は廃城になりますが、1618年に再度築城が認められると、忠吉は再築城を初めています。

 

しかし、完成を見ない1619年、主家・浅野氏は安芸備後に移封となり、忠吉も備後三原城の城主となったため、新宮を離れました。

 

浅野氏に替わって、徳川家康の十男・頼宣が紀伊藩主となり、御三家の一つとなりました。

新宮には付家老であった水野重仲が入り、途中になっていた新宮城の築城を引き継ぎます。

この城が最終的に完成したのは、それから50年近く経た1667年でした。

 

このように、この城は近世城郭であり、戦火を交えたこともないため、戦国の気風を楽しみたい方にはちょっとドラマが不足しているかもしれません。

 

城は熊野川の右岸にある丹鶴山に築かれた平山城です。

中心である城山には本丸が置かれ、天守台と天守閣(天守台の石垣は今は崩れてしまった)があり、出丸、鐘ノ丸、松ノ丸があります。

一方、西側の山麓には二の丸などがあり、川沿いの舟着き場を包み込むような城の構造になっています。

随所に石垣が残っております。

 

○行き方

私は車で行きました。

南北どちらから接近するにしろ、国道42号線「紀宝バイパス」を使って接近します。

熊野川にかかる橋の南のたもとの「速玉大社前」の交差点を紀宝町側からなら左折、新宮市側からなら右折します。

そのまま直進すれば、すぐ城跡の公園です。

徒歩なら、JR紀勢本線「新宮駅」下車です。

北へ800mほどの距離なので、徒歩でも十分行けますよ。

三重県と和歌山県の境目にあたります。ちょっと移動距離が大変ですが、せひ一度登城してみてください!!