本日は2回目の更新になります。これで今回の「宮崎城巡り」は終了です。

今回は高鍋藩秋月家3万石の首府、高鍋城跡です。


所在地は宮崎県児湯郡高鍋町になります。


「高鍋」(たかなべ)は古く(というより江戸中期まで)は「財部」(たからべ)と

呼ばれていました。


よって、当初は「財部藩」と呼ばれていたはずです。


江戸時代を通じて、筑前秋月出身の大名家・秋月家の藩でした。


かつてはこの城跡に、財部土持氏(県土持氏と同族で、宇佐八幡宮の神官の

出)の居城・財部城があったようです。

まずはうんちくの前にお城をご紹介しましょう。


規模は違いますが、どこか山口県・萩市の萩城と似た部分がありました。


○行き方


私は高城城跡(児湯郡木城町)より車で向かいました。

行き方は、正直言うと東九州自動車道の高鍋ICからだとわかりにくいのでは

ないかと思います。

ともかく県道19号を使って高鍋市街まで入ったら、高鍋町役場か県道313号

を目印にしてください。

舞鶴公園を発見できれば、それが城跡です。


JR日豊本線に「高鍋駅」がありますが、城跡までは相当距離があります・・・。


○高鍋城


ここは舞鶴公園と歴史総合資料館の駐車場になります。

けっこう広いです。


駐車場にあった城跡と公園全体の案内図。


これも遺構でしょう。

城地と外との境目の一つかな。


実際、旧城内のうち二の丸にあたる部分は舞鶴神社となっており、

その上に本丸があるのです。写真は一気に飛ばしました。


これが本丸の入口にあたる長峰門跡。


本丸は実質3段構えになっており、下段部分が政庁と御殿になっていました。


この本丸政庁跡からさらに階段が延びております。

さらに上へと向かいます。


するとそこには大きな石垣が。本丸の中段部分にあたります。

この石垣が一番、この高鍋城跡で立派な石垣でした。

この石垣の上が、総じて「本丸」と言われる場所の上段になります。


普通のお城跡なら、ここで終わりになるところ。

しかし、この高鍋城はこの先がまだあるんです。本丸のさらに上に。

これが、萩城と似ているといった部分です。


本丸上段からさらにやや整備された山道が上へ向かっています。


こちらが城跡のある山の最高所・山頂になります。

明らかに削平されており、一般に「詰めの丸」と呼ばれているそうです。


この写真の途中にはいくつも曲輪があり、本丸から上にもう一つ、山城があるような

状況になっておりました。


そしてその曲輪の一つ、「見張り台」と書かれていた場所からの眺め。

天気は悪かったですが、高鍋市街地が一望できます。

本来の城の上に、いざという時の山城の備えを用意しているのです。

昔からの財部城の跡を転用したのかもしれませんね。


あくまで、江戸期の高鍋城は、山の中腹の本丸までなんですが。


城跡遺構としては、よくある江戸期のお城に、旧来の山城の造りもあり、いっぺんに

「二度おいしい」お城跡です。

このお城は他の歴史もあるんですけど。

ぜひ、訪問してみてください!!


○高鍋城


もともとは財部城だった、というのは先に述べました。

財部土持氏は県(延岡)土持氏と同族で、宇佐八幡宮の神官の出です。

平安時代からずっと日向国の名族でしたが、鎌倉時代以降、日向入りした伊東氏と

争うことが多くなります。


室町時代の1457年、伊東氏の大軍に攻められ敗北。財部土持氏は没落し、城は

ついに伊東氏のものとなりました。

伊東氏の領国支配の要・「伊東48城」の一つとなり、伊東氏の日向入国以来の

重臣・落合氏が城主を代々務めることになります。

その後、1577年に伊東氏が自壊した際に財部城主となっていた落合氏も島津氏

に降り、城は島津氏のものとなります。


その後の豊臣秀吉の九州征伐後、筑前から秋月氏が入り、領主となりました。


○高鍋藩秋月家


高鍋藩の秋月家は、言わずとしれた筑前の名族、最盛期は筑前一帯に36万石を

治めていた家です。


しかし、豊臣秀吉の九州征伐時に島津方について戦うも緒戦で圧倒的な差を見せつけ

られ、早々に茶道の名器「楢柴の肩衝」を譲り渡して降伏したのは有名なお話。


戦後処理の中で、秋月氏は日向国に国替を命じられ、移ってきました。


しかし、秋月氏は当初は日向最南部・櫛間に本拠を置いていました。


この財部に移ったのは、関ヶ原後の1604年のことです。

そして、城を作り直したのは1607年のこと。

その後も改修を重ね、ほぼ現在の姿になったのは1678年のことだそうで、相当時間を

かけて城を少しずつ作り上げていったことがわかります。

この最中の1673年に「財部」から「高鍋」に改名したようです。


この高鍋藩において、最も名君と呼ばれているのは第7代・秋月種茂公でしょう。

この人は、あの上杉鷹山公の実兄です。

鷹山公はこの種茂公のすぐ下の弟で、母方の縁で出羽米沢藩・上杉家に婿養子に迎え

られたのです。

ちなみに、種茂公の号は「鶴山」です。


種茂公は藩主となるとすぐ藩政改革に着手。

藩校「明倫館」(この名称各地にあるような・・・)を創設。

武士だけでなく、民百姓にも通える限り門戸を開いており、後にここから多くの人材を

輩出することになります。

さらに、農村に蔓延していた「間引き」(子供を捨てる行為?)を止めるため、子供の多い

家に対し補助米を支給するなど、まさに現代の子供手当のような施策を行ったのです。

この多子家庭救済策は、世界初と言われています。


弟の鷹山公の方がはるかに有名ですが、この種茂公もなかなかの名君でしょう!


こういった歴史も踏まえながら、城跡を散策してみるのもいいと思いますよ!!