奥の院の墓域にも、町石(ちょういし)がずっと建てられています。

 

これは27町石。

高野山のいわゆる「高野七口」の参詣道に建てられた道しるべの卒塔婆で、これは根本大塔から奥の院の御廟前までの36本のうちの1本。

 

そもそも、町石は、高野山の麓の慈尊院から、大門口のルート上には、伽藍まで1町ごとに180本、さらに根本大塔から奥の院へ36本も建てられていて、両界曼荼羅のうち、胎蔵界の仏を表す梵字を刻んだ180本と、金剛界の36本なのだそうです。

 
この町石ですが、例えば、正和2年(1313)参詣した後宇多法皇は「一本ごとに立ち止まられ、その一つ一つ丁寧に拝される。それで御幸はことのほか遅々としてしまった」という様子が山陰さんの本に出てくるのを前にも紹介しました。
法皇が1本ずつお詣りしたという、まさにその町石を前にすると、なにか感慨深いものがあるんですおねがい
 

 

これは25町石。

「文永五年閏正月十七日」の銘が見えます。

文永5年は1268年です。

 

25町石の「秋田城介藤原朝臣泰盛」というのが安達泰盛のこと。

 

石造りの町石は、鎌倉幕府の安達泰盛たちが中心となって支援して、弘安8年(1285)に落成供養の法会が行われたのでした。

 

22町石。

カステラくんたちの後ろに「文永五年閏正月十七日」の銘が見えます。

 

奥の院の入り口まで来ました。

入り口の一ノ橋でカステラくんたちの記念写真をカメラ

 

高野山は、山の上とは思えないほど相当に広いんです。

 

一の橋前の17町石。

手入れされているのか、白さが際立っていますキラキラ

 

2021年10月, 和歌山県高野町

Canon EOS6D

 1-3枚目 SIGMA 50mm F1.4 DG HSM[ART]

 4枚目 EF24-70mm F4L IS USM

 5,6枚目 EF16-35mm F4L IS USM