竹橋から少し歩いて、将門塚におまいりしました。

 

カステラくんたち以外にも訪れている人がたくさんおられました。

 

立派な石碑は、板碑のようなデザインですが、戦後に改修されたもの。

右のガラス張りのケースに入っているのが、元からあった石灯籠で、平将門の墓といわれています。

 

いわゆる承平・天慶の乱の後半、天慶3年(940)に平将門は討たれてしまいます。その首級は京都に運ばれた後に飛び去って、この付近に至り、塚を築くことになった、というのが、将門の伝承です。

 

鎌倉時代後半、徳治2年(1307)に、通りかかった遊行寺の上人(しょうにん)によって、将門を祀った明神社にあった荒れていた塚を直し、板石塔婆を立てて供養したそうです。

その板石塔婆が、はたしてケース内の石灯籠なのかどうか分かりません。

 

この地が江戸時代になると武家屋敷地となった地域になるので、明神社は移転して、神田明神となり、また、塚は残されていたのが明治になってから大蔵省の敷地になり、関東大震災後には整地されてしまいました。

 

そこであらためて、昭和45年(1970)に整備されたということです。

 

 

 

さて、承平・天慶の乱については、その呼称を含めて、最近ではずいぶんと研究が進んできて、位置づけも変わってきています。

特に、平将門は承平年間にはまだ「反乱」を起こしていないため、「藤原純友の乱」も合わせて、「天慶の乱」とだけ呼ぶのが一般化してきているというのが、目立つところでしょうか。そして、そもそも「反乱」かどうかといった点などの研究が進んでいます。

 

読みやすく、教科書で見たことのある各戦乱が要領よくまとまっていて、おすすめの一冊。

 

このビルの狭間です。

 

20191126 千代田区

 EOS6D

 EF16-35mm F4L IS USM