浦和までやってきたので、見ておきたい場所が。
ひとまず、定期市の跡を目指しましたマリオ
 
中山道浦和宿の名残なのか、古い町家があるなーと思っていると、町家の陰に怪しい人影お~
 
レンズを望遠に交換して撮りなおしてしまいました(笑)。
もう、ほとんど、愛する『鬼平犯科帳』の、密偵おまさのよう!
 

市で野菜を売っている女性でしたニコ
ここの辺りが、目指す定期市のあった辺りだったそうです。
 
かぼちゃにさつまいもでしょうか。
近くでとれたものなんでしょう。
 
近世の雰囲気です。
それにしても、もう何人か売り子さんを増やせないものでしょうか。
 
さらにもうしばらく北に歩いて、慈恵稲荷神社まできました。
 
宿場町では、街道に面して、長方形に細長い敷地が並ぶことが多いように思いますが(短冊状地割)、ここも街道から細長~い敷地の奥にお社が見えます。
 
荘園調査で訪れた尾張国富田荘の絵図でも、街道沿いに細長く奥まった所に寺社が描かれていて、現地に行くと今もそのままだったことに驚いたことを思い出しました。
ちなみに、富田庄絵図にご興味があれば、東京大学史料編纂所データベースの「史料編纂所所蔵荘園絵図模本データベース」で「尾張国富田庄知行古図」を見ると、絵図の右上に街道と宿が見えますニコ
 
慈恵稲荷神社に入っていく所に、市神様が祀られていますお~
市(いち)から宿へ、そして町、いまの市(し)へと、移ろいゆく街の姿を見守ってきた市神様です。
 
カステラくんたちの後ろに見えるのは、「市場定杭(いちばさだめくい)」ですお~
市神様に市の杭が残っているのは本当に珍しいですね!
 
若狭国太良荘からほど近い遠敷(おにゅう)市跡に、なんか石塔か何かがあったかなぁといった曖昧な記憶しかない…。
 

駅から歩いて10分かかりません。
 
彫ってある字もいいですね!
「御免、毎月二七、市場定杭」、「天正十八年七月日」、
さらに裏面に「足立郡之内、浦和宿」とあります。
 
「二七」とは2の日と7の日に市が開かれていたわけで、月6回のいわゆる六斎市だったことが分かります。
しかも、説明板によれば、一・六日に蕨で、三・八日に鳩ヶ谷で、四・九日に与野で、五・十日に大宮で定期市があったそうで、5日単位で巡回していた商人達もいたのでしょうか。
 
また、天正18年は1590年のことで、この年は豊臣秀吉の小田原征伐の年です。
小田原を攻めるのと合わせて、関東各地の後北条方を攻める一環で、岩槻城を攻撃。
 
攻略後に浅野長政は浦和の市の保護のために禁制を発布しています。
 
岩槻城攻略が6月なので、翌月浅野長政が市の保護をしたのでしょう。
その時からの杭かどうかは分かりませんが、よく残っていたものですお~
 
というわけで、用事のついでにちょっと寄っただけでしたが、こんなに面白いものを見られるとは思っていませんでしたニコ
 
20190314 埼玉県さいたま市
EOS6D+SIGMA50mm F1.4 DG HSM[ART], EF70-200mm F4L IS USM
 
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