我が町のシンボルでもある。
熊本城!日本3大名城の一つ!
今年築城400年を迎えました。
昨日行って来ました。
いつでもいけると思うとなかなか足が運びません。
ちょっと歴史を覗いて見ましょう。
秀吉は九州平定に従軍していた佐々成政に肥後統治をまかせました。
しかし、検地をめぐり国衆一揆が起こり多数が亡くなる。
その為、責任を問われ切腹。
その後、肥後の国北半分を加藤清正
南半分を小西行長に与えられた。
一説には秀吉の母と加藤清正の母同士が従姉妹との説です。
その後秀吉の死後関が原の戦いを経て家康の時代へと。
この戦いで家康側の清正。石田側に行長。
これにより行長は捕らえられ処刑されたそうです。
その為、行長に与えられていた肥後の国の半分を
肥後統一して清正の領となったそうです。
清正は築城の名手といわれているのはご存知ですか。
入国して間もなく築城に着手はせず、
川の氾濫対策に重点おき防衛力の強化。
同時に米野生産力を高めたそうです。
治国後、秀吉の命を受け2度の朝鮮出兵。
この戦いで篭城戦の体験を活かし
日本にはない見事な石垣技術を身につけることになる。
武者返しという石垣を作り上げることになる。
ちなみにこちら熊本ではカッコいい事を
武者んよか!と言います。
とてつもない壮大な要塞と緻密な城下町の設計
城郭の周囲は約9kmあり、大小の天守をもつ複合天守閣
長さ約240mもの長塀をはじめ、櫓49、櫓門29を数える堂々たる偉容を誇った。
黒く雄々しい城を誇らしく思ったことだろう。
お城には、石落としや鉄砲孔などの様々な戦闘のための工夫はもちろん
籠城に備えて数多くの井戸が掘られ様々に食糧備蓄の工夫がなされていた。
河川を城の防衛線と考える歴戦の清正は、
坪井川・井芹川を合流させ自然の内堀とし白川を外堀とした。
その白川には唯一、
長六橋(ちょうろくばし)を架けたのみであったという。
二の丸・三の丸など本丸に近い場所に侍屋敷を定め、
新町・古町・京町などには商人や職人を住まわせ
敵の攻撃の際には戦闘の拠点として活用できるお寺を計画的に配置した。
このときの都市設計が現在の熊本市中心地の原型をなしている。
またとてもすばらしかったのが
昭君の間
昭君とは将軍の隠語であるといわれていて
もしものことがあればと抜け道なども作られていたそうです。
清正は豊臣家に万一なにあった場合秀吉の嗣子秀頼を
迎える用意をしていたとか。
家康と姻戚関係にありながら忠誠心にはあっぱれ!
しかし、家康は徳川天下を全国に知らしめる為
豊臣家を滅ぼす口実を探していた。
やがて、京都の秀頼に面会を申し入れる事に。
もし面会を拒否するような事があればこれ幸い
攻撃の口実にとたくらんでいた。
清正らはこの事を予見していた。しかし秀頼の母淀君が反対の意向。
説得あたり、会見を実現する事が出来たそうです。
もし、秀頼に何かあれば清正は家康と刺し違える覚悟であったとも。
皆さんもこちらにお越しの際は是非言ってみてくださいね。








