1

ピィピィヒャラドン、ピィヒャラドン。

「なあ、お父ちゃん。りんご飴買うてなあ」

美里は今夜、黄色地で金魚柄の浴衣の上に、絞り兵児帯を締めてもらい、自分の手を引いて歩く父親の顔を覗き込んだ。

遠くの景色が、まるでゆらゆらと写るほど暑い昼間に比べ、幾分風は涼しげにそよいでいる。

祭りの賑わいを知らせる笛と太鼓の音が、いつもならば、すでに寝静まっているはずの夜の空気に流れ渡り、村人の足元を浮かせるのである。

「ええけど、みっちゃん。綿飴も食べたいんやろ」
「うん」
「そんなに甘いもんばっかり食べたら、歯が痛うなるで。後で泣くかもしれへんで」

父親は、どちらか一つにするよう言ったが、
駄菓子屋にりんご飴は置いていない。
こんな時にしか食べられないのだから今日は許してくれと、美里は懇願した。

「お父ちゃんは食べへんの?」
「いらん」
「なんで?」
「お父ちゃんは、砂糖より酒やからなあ。酒好きは、甘いもんが嫌いと相場がきまってるんや」
「ふうん、けどタカ坊が言うとったで。この間、タカ坊とこのおじちゃん、
大福餅をいっぺんに三つも食べたんやて。でも、お酒もぎょうさん飲むねんて」
「それは、両党っちゅうやつでな。長生きしたいもんがすることやないなあ」

そう言うと、父親は大口を開けて笑った。
美里は、胸が膨らむほど大きく息を吸った。
山から降りて来る木々の香りは夜の湿り気を帯びて、一層濃く放たれているように匂う。
だんだんと近づく笛の音と共に、美里は胸の高鳴りを覚えた。

「境内に入ったら、迷子にならへんようにしっかり手をつないどくんやで」
「うん、わかってる」

美里は答え、ぎゅっと手に力をこめた。 
時折意識して、父親の分厚い手の感触を確かめる。
ふわっと広がる安心感が心地いい。
そんな時、いつも父親が大好きだと思う。

だが今日、放課後、男子生徒から言われた言葉を思い出してまた泣きそうになり、気づかれないよう暫く下ばかりを向いていた。

「みっちゃん、慣れてない下駄履いて足疲れたんか。もうすぐ着くで」

父親は歩を停め、しゃがんで彼女の下駄の鼻緒に手をやった。

「お父ちゃん」
「なんや」
「私な、お父ちゃんのこと悪く言う人、みんな消えてしもうたらええと思うねん」

美里より下にいた父親は、顔を上げ静かに聞いた。

「どないした。誰かに、なんか言われたんか」
「ううん、なんも」
「なら、ええがな」

立ち上がり、父親が軽く自分の頭を撫でたせいで、もっと泣きそうになった。


「うちのお父ちゃん見たんやて。この間、おまえの父ちゃんが“あおい”で酔っ払って暴れてたとこ」

焼け付くように熱い校庭の隅、如雨露に水を流し入れる美里の後ろからその言葉は、なんの前触れもなく突然、背中に投げつけられた。

びっくりして落とした如雨露を跳ね返った水しぶきが、勢いをつけて額にまで届く。美里は濡れた前髪を拭うこともせず

「そんなん嘘や。お父ちゃんはそんなことせえへん」

蛇口をひねる手が、震えているのが自分でもわかった。

「う、嘘やないでえ。なあ」

様子に感ずいたのか、少し語気を弱め、
隣の誰かに同意を求めているらしいが返事は聞こえない。
みるみるうちに涙は溢れ出すが、そんな顔を見られたくないと思い、背中を向けたまま、身を固めていた。

「おまえんとこの母ちゃんが死んでもうてから、おかしくなったんちゃうかって、そない言うてたもん」

逃げるように土を蹴る音と共にそれは遠くで聞こえ、その後あたりはしんとなった。
雫だらけの顔に、とめどなく涙がこぼれている。
どこかの木で、急に蝉の声が響きだし、それはやがて複数が競いあうようにだんだんとふくらんでいくのだった。


2

「美里、どうした」
「え?」
「いや、なんだかぼぉっとしてたから」

ピィピィヒャラドン、ピィヒャラドン
境内の入り口近くでは、人々がゆっくりと吸い込まれるように進んでいる。

「ごめんなさい。子供の頃、父さんにここへ連れてきてもらったこと、何だか急に思いだしてしまって」
「うん」
「こうして同じように手をつないでもらってるせいかな。すごくはっきり思い出してたわ」
「美里のお父さん、今年でもう7年か」
「ええ」
「よく覚えてるよ。体が大きくて、いつも物静かでどっしりしてはった」
「いつも優しかったわ」

二人は人波に身を任せ、少しの間黙っていたが、男の方が口を開いた。

「実は、美里に謝りたいことがあるねん。小学生の頃の話やけど」
「私ら、お互い小さい頃から知ってるもん。そんなこと言いだしたら、
私だって謝らなあかんこと、沢山でてくるわよ」

おかしそうに、けらけらと返したが

「美里のお父さんのことで、泣かしたの覚えてる?」

さっき蘇ったばかりの回想の続きであることに、笑みが消えた。

「あれ、あなただったの」
「やっぱり忘れてなかったね。あの時、僕は横にいただけやった。
あいつもあんな酷いことを言うつもりは、なかったはずや」

父親を“あおい”で見かけたという両親の会話を、夜、トイレに入るために起きた友達が偶然こっそり聞いたのは事実である。だが、暴れたわけでも、くだをはき散らかしていたわけでもない。
ただ、大きな背中を丸めて、ひっそりと涙を流したのだと言う。



一人娘を立派に育てあげることが、今の自分の生きがいだ。
先立たれた妻との間にできた二人の宝だから、妻のためにも私は責任がある。
ただ、娘の成長とともにやはり男手ではどうしようもないこともでてくるだろう。
会えるわけもない妻の姿を、わかってはいても私はこれからも追い続けてしまうのだと思う。

気の毒で見ていられなった。なにかあれば、惜しみなく手を貸してやろうという両親の会話を友達は聞いたのだ。

「あいつ、美里のことが好きやったんや。
けど一言も話したことなかったから、それをきっかけにしたいと思ったらしい。
一人ではよう近づかれへんから、僕について来てほしいと頼んできた」

「……」

「あの後あいつ、えらいしょげてしまって。なんであんな意地悪な嘘をついたんやろう、美里を泣かせた自分はどん底のあほやって。それ以上、責められへんかった」

「どうして今まで話してくれへんかったの」

「何度も打ち明けようとは思ったけど、その場で何も言わなかった僕も同罪で、やっぱりそれで美里に嫌われるのが怖かった」

「話してくれて、ありがとう」

そう言って、「ありがとう」とまた繰り返した。

「でも、あいつって誰?私には名前を知る権利があると思うけど。大丈夫よ、時効だもの。正直に話してくれたし、もう怒らないわよ」

すると、彼は

「魚屋の2代目」

と少しためらいがちに言った。

「えっまさか」
「そうまさか」
「立たされじん太!」

同時に口にした後、二人は大きな声で笑い合った。


「私ね、お父さんに教えてもらったことがあるの。ここの鳥居をくぐる時手をつないで、お互いがこの人といつまでも仲良くいられますようにと願うの。そして帰りもしっかりと手を離さずに鳥居をくぐれたら、二人は深い絆で結ばれるんですって」

「それ、誰かと試したことはある?」

子供の頃、お父さんとそうして鳥居をくぐったことがあると言い、

「だから、今でも時々近くにいてくれるような気がする」

と微笑んだ。

「じゃあ二番目やけど、今から僕と一緒にその願い事をかけへんか」
「え」
「ほら、もうすぐそこや」

人波に押されながら、口をつぐんだ二人は、さっきより少し強く手を握り、抜けた。
美里は、胸の中で、この人といつまでも仲良くいられますようにと願い、彼について行きますと、父親に言った。