目に見えるものは事実だ。しかしそれは真実とは限らない。

100円玉は100円の価値があるように見えるが、物価が上下すれば100円の価値も変わり、為替の概念で考えれば100円の価値は例えば1.2ドルにも0.8ドルにも変動する。実態は目に見えないところにある。

新政権に変わり、日銀との連携による積極的な金融緩和策を実行し、表面上インフレ率が高まり経済の活性化を演出することは可能であろう。しかし、この政策は実体経済の活性化を保障するものではないことを我々は認識しておかなければならない。

お金があってもそれを使って価値を生み出すことができる社会でなければ、そのお金は実体経済に吸収されないまま、世界中の機関投資家のマネーゲームの渦の中に消えていくことは容易に想像ができる。

もちろん、まだ日本には打ち手があり、たとえこの金融緩和策の副作用で痛手を負ったとしても「直ちに」日本が傾くとは思わない。しかし「直ちに」という言葉は「いつかは」を否定しないという真の意味があることを既に私たちは学んでいるはずだ。だからこそ私たちは「直ちに」価値を生み出すための備えを始める必要がある。

短期的には、新技術や新産業、新たな社会的価値を創り出すNPOなどに対する支援が必要だ。エコポイントやエコカー減税のような旧産業の延長線上にあるような事業にいくら支援をしても単に消費を先取りするだけで、その反動は必ず後で来るため実質的な効果は期待できない。必要なことは現在認められていない新しい価値への支援なのだ。

そして中長期的に必要だからこそ「直ちに」始めなくてはならないことは、新たな価値を創り出す人を育てる「教育」である。

「人は怠け者である」という前提に立った伝統的なアメとムチによる教育方法や偏差値による評価は、既に飢餓感を感じることのない現代の子どもにとって、同調性や社会的承認という外的リスク(ムチ)を回避するだけの動機と、表面上の解や人からの評価に辿り着くことを終着点とする学びしか生み出さない。これは既存社会の「駒」を育てるための仕組みなのだ。

IT化、グローバル化した現実の社会では、情報を活用して創造する力や多様な価値観や背景を持つ人々とボーダレスにつながり、未来を創造する力が必要であり、そのためには「自らが一人の人間としてどう生きるべきか」という軸と、「未知の問題を解決するために、常に知識を探究し、多様な人々とつながり、新たな価値を創造する」という回転力が欠かせない。

それが、自立し楽しみながら回り続ける「独楽」だと私は考える。

表面に色を塗って繕っても独楽は回らない。それは何度も倒れながら、何度も立ち上がり、何度もチャレンジし、もっと速く長く回るための方法を探究し続けることで、学び成長することができるのだ。

独楽がバランスよく高速で回っている時には、独楽が止まっているように見える。一見ではわからないところに真実があるのだ。

私たちは育てる「こま」を間違ってはいけない。