「世界」とは何か

このときの世界とは、地球のこと、ではなく宇宙、でもない。
不思議な世界そのもののこと。

魂や心に世界はあるのか。


世界は、まるで台車、である。

その台車は前へも後ろへも両側から押して引いても使える便利な台車で、車輪はとても滑りが利いてよく回る。

例えば一見平面に見えるところでも、置けば自由に動き流れ出して進んでしまう台車。

それがどういうわけか、バランスが取れて静止することがある。

このバランスが、世界というわけ。
世界はあらゆる方向へと進む可能性がありながらバランスを保ち静止している。

しかも。このバランスは崩れることがない。コップに水を満たしたときの表面張力に似ている。

………

また存在とは、回るタイヤのようである。
自動車のタイヤは進む方向の回転を繰り返すが、その分岐点以降は視覚的に逆回転をゆっくりとはじめる。

存在とはこのような錯覚に似ている。前へと進んでいるようで、記憶や思い出では逆回転をしている。
x方向へ進みながら逆方向へと同時に「存在」している。

……

一つの線状の金属部品がある。それは棒のようなものとして見てもらっても結構。
その棒状の「とても小さな」金属部品は、落下して地面に接触した際に、とても不思議に回転をし、その場にバランスよく留まることがある。大抵は弾けてどこかへ飛んでしまうのだが、その時の棒状部品は360度方向へ回転をして、まるで円形の丸い物体のような姿を見せるのだ。

これは本来は棒状であるから丸い円形のものではない。また「存在」とはそのようなものだと思う。

虚構と言えばそうかも知れない。だがそれは実際に「在る」のも事実で有るわけだ。

夢は現実ではないから、無いとは言えないだろう?
実際に夢を見て目覚める人がいるならば、虚構とは「実際に存在する」と言えるのではないか。

……

最後に、神についての存在論を、例えば仮定しよう。

もしも現実に、全てを理解して、あらゆるを歴史、地球、宇宙、科学、お笑い、演劇、映画、天気、アニメ、漫画、鉄道、飛行機、軍隊、海や深海魚、未知なる生命、フェルマーの最終定理、パイの行き着く先、占いや神秘的な事象、古代文明やあらゆる動植物やら昆虫、戦争兵器、宗教の全て、

などを理解し尽くし得た「人間」がいたとしたなら、それは「神」と言えるのか。

この場合は、未来は無いものとする。
「現実存在と過去の至るまで」

宇宙規模で今以下を知る人間がいたと仮定したならば、その人は神様とどう違うか。

その、人は神と同等か同等以下の上等級の大天使だが「人」がそのように「存在」を理解出来ることはないのだから。

だがそれがあれば「人」は神と違わない。
結論からすると、それが人により不可能であることに、神が証明されるである。

……

人は足を止めずに歩むことが肝心だ。それは足ではなく心も、頭も、凡ゆるを用いて「存在」に近づくのだ。


先に述べた通りに「存在」とはとてもバランスが取れて成り立ち、

それは前や後ろへもややすると動き出し。
まるで存在していないほどの虚構であるが、

また明日はやってくる。

存在とは君であり、今なんかな。




わからないが青空

海と溶け合う太陽