「努力をし続けられることは、一種の才能である」
という言葉がある。
持続というのは、大変なエネルギーがいるのだ。

しかし、その大変なエネルギーをかけて辿り着いたところへ、
一足飛びにポーーンと飛び跳ねて出てくる人達がいる。
それが、天才と呼ばれる人達だ。

天才は自分の才能に無自覚。
努力家は自覚的だが、思っているより自分のことが分かっていない。
なぜなら、自分の事を卑下しがちだからだ。だからこそ、努力をし続けられるのだけれど。

同じ表現の場(世界)にいるその人達は
凡人からみたらどっちもすごい才能だし、
どちらがどちらなんて分からない。

見せてくれるものの、全く違う二つのタイプの
辿り着き方や苦しみ方なんて
外側からは全く分からないからだ。


だからこそ、しばしば漫画でも
この二つのタイプの葛藤や心の内側や戦いが描かれ、
とても人気になっているのだろう。

かの名作。
『ガラスの仮面』の北島マヤと亜弓さんがそうだ。
これはもちろん、まやが天才タイプで 
亜弓さんが努力家タイプ。

最近だと、『のだめカンタービレ』もそうかと思う。
(むしろ天才二人とも言えなくはないが)
のだめが天才で千秋が努力家なのではないかと。
しかし、男女で恋愛関係になっているのがとても新しくて
おもしろい処の一つだと思う。
(しかも漫画の中でも、本人達が音楽というライバルであるところと
恋愛をきっぱり分けられてなくってそこがまたおもしろいし。)


今回、見に行った『ピアノの森』
そういう映画である。(http://www.piano-movie.jp/

ピアニストの息子に生まれたサラブレットの雨宮修平。
小学校の夏に田舎に一時引越したことで出遭った
独学で好きだからというだけでピアノを弾いていた一之瀬海(かい)。

この原作漫画(モーニングに掲載中)は読んだ事がなかったが、
自分の気持ちを隠したり偽ったり、整理したりすることが
下手な小学校5年生の男の子という設定が、
甘酸っぱさを覚えてまたいい。

努力家は、天才の行動や考えにときにいらつき、嫉妬を覚えるのだ。
「なんでこんなにやってるのに?!やすやすと上を越えていく??」と・・・

しかし、天才は天才で上手くいっているときはいいけれど、自分の中に壁や違和感や限界を感じると弱い。
そこを超えるには、もしかしたら努力家のそれ よりつらい葛藤があるかもしれない。
どちらがいいとはいえないのだ。
どちらもえらべないものだけれども。

だから、映画の後半の音楽先生の「自分の音を好きになれ」という言葉が響く。
人と比較してもどうしようもないってこと。
自分が自分を認めてあげなければ、ちょっとでも好きにならなければ、
自分と本当の意味でうまくいかないのだと思う。

・・・・と、つらつらと凡人の私が
天才と努力家の話をしてきたわけですが・・・
『ピアノの森』を観ていていちばん言いたかったのはこれですよ。

「修平君。
君はここで海君に出会ってよかったね。
君は将来絶対いい男になるよ。
お姉さんは、君が好きだ!!!

成功して35才くらいになって、ウィーンとかで
スーツでバールで飲んじゃって、
『俺、小学校であいつに出会わなかったら違う人生になってたんだ。』
なぁんて事を笑いながらいっちゃってて。
で、その横には、貴方の音楽を尊敬していて、
真っ直ぐ自分と勝負し続けている
そんな貴方が本当に好きよ。
って思ってくれている美女が横にいるのよ。絶対。

だから、大丈夫!
そのまま真っ直ぐ戦っていくんだ!」



映画を見終わった後、
「原作の本当に始めしかやらなかったねー」と
女の子が大きな声で言っていたのを聞いて、
あ、モーニング読まなくちゃなと 思った私でした・・・。

■追記
「ガラスの仮面」の亜弓さんを歩美さんと、
「モーニング」をアフタヌーンと間違って載せていたことを
訂正します。
大変失礼いたしました。