外国語の音読練習きっかけとなった一冊が國弘正雄先生の『新版 英語の話しかた』(サイマル出版会)です。残念ながら先生からのお葉書は2枚しか残っていませんが、どんな質問に対しても必ずご回答くださいました。

 

 私にとっては音読練習に飽きると手にする一冊になっています。この本は初版が1970年で、私のは新版1984年8月発行のものです。初版から50年というのに本質は古くなっていないと思います。

 今回は、子ども達へのメッセージ、私自身への叱咤激励のために本書からの引用をさせていただきます。

 

 あえていうなら、生きた英語、生の英語、日常的・ ・ ・にまた専門的に使われる自然な英語は、そこにはないといわなければなりません。真の英語運用力を身につけようとしたら、それらを徹底的に勉強されるなかで、またその限界をもわきまえておく必要があるのではないでしょうか。

 この点、日本の生んだ優れた知性の一人である本居宣長が、『うひ山ふみ』のなかで述べている点は、私たちにとっても、まさに頂門の一針になるでしょう。彼の所説については、すでに前述したので省略しますが、古歌の心をたずねようと志すものは、すべからくみずからも古歌ぶりの歌をつくってみなければならない、という趣旨でした。

 要するに英語の心を理解しようと思えば、英語をみずから原体験しなければだめだ、ということになります。自分でも英語を綴り、口にしてみて、はじめて英語のgenius を捕捉することが可能になる、ということです。(230-231㌻)

 

 上記引用中の「そこにはない」というのは、英語のリーダー、文法解説書、その他さまざまな手引き、言語学的研究書、辞書、用語辞典を指しています。

 そして、『うひ山ふみ』のなかで述べている点、とは以下の一節になるかと思います。

 

 原体験してみよう

 

 ここで思い出すのは、かの有名な国文学者の本居宣長が『うひ山ふみ』という研究書のなかで述べていることです。彼はこういっています。

「すべて萬づの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは浅深の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり。歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我が事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也。さればこそ師も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられたるなれ」

 古い文章で読みづらかったと思いますが、これを現代風に敷衍していえば、古歌を詠んだ古人の精神を真に理解しようとするなら、どうしても自分でその古歌ぶりの歌を詠んでみなくてはならない、つまり古人の心をたずねるには、自分も古人の体験を追試してみることによって、その心情を原体験しなければならないという意味でしょう。

 この本居宣長のことばは、実はわれわれの英語学習にそのままあてはまるといえます。さすがに本居宣長だと、その先見の明に感銘をさえ覚えるのです。(121-122㌻)

 

 子ども達にも國弘先生の「只管朗読」こそが英語上達への道だという言葉を理解して実践してもらいたいものです。