「監督をしなかったことが残念…」山本浩二、古葉竹織らが語る。チームメイトしか明かす事ができない“鉄人”衣笠祥雄の真実
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4/28(土) 7:00配信 AERA dot.より引用
山本浩二、古葉竹織らが語る“鉄人”衣笠祥雄の真実「監督をしなかったことが残念」〈週刊朝日〉
4月23日に亡くなった衣笠祥雄さん(享年71)に、共に広島カープの第1期黄金期を支えた山本浩二さん、当時の監督である古葉竹識さん、長年カープを取材し続けた名物記者・駒沢悟さんが言葉を寄せてくれた。
“赤ヘル打線”の中心として、衣笠さんと共にチームを引っ張った山本浩二さん(71)は、入団年は衣笠さんの方が4年早いが、学年は同じ。同年代のライバル、“鉄人”の早い死を悲しんだ。
「寂しいよ。同期の身近な、この間の星野(仙一、故人)といい、今回のキヌといい、寂しいもんがあるよ」
1975年から85年まで監督としてカープを率いた古葉竹識さん(82)は、衣笠さんらと共に79年、80年、84年と3度の日本一を経験した。古葉さんは涙ながらに話した。
「訃報を聞いて、眠ることができませんでした。
1月か2月下旬だったかな。びっくりしたのね。
彼の声が少しおかしかったので『しかし、体調はしっかりしないといけないね』と話し、『どっか悪いのや?』と聞いても話さない。
(ガンだったことについて)あまりそういうことは(周囲にも)言ってなかったと思う」
山本さんは衣笠さんとお互いを高め合ったライバル時代の思い出をこう振り返る。
「お互い張り合ってやってきたんだけど、優勝するまでは、ある程度負けたくない気持ちが当然強いわけだよね。
でも優勝すると優勝の感激があるから、その後も同じライバルなんだけど、腹を割って話せるライバルになった。
75年のリーグ初優勝のがきっかけで、自分の成績よりよも優勝したいという気持ちになった。チームが勝つためにはどうするか。良いお手本。
二人がともに成長してきた」
75年のリーグ優勝からカープは実質黄金期に入った。
そのきっかけは二人が高め合ったことによる相乗効果がチームに還元されていった。
山本さんは、現役時代、衣笠さんの見習ったことについてこう振り返った。
「やっぱり連続試合出場。骨折しても出たりと。今でもそうなんだけど、試合に出てこそ『無事之名馬』。
キヌがとてもゲームに出れそうにもない状態でも出るから、こちらも痛いところがあって試合出場は無理かなと思っても、キヌの姿を見てれば言えんじゃない。
だから我慢した。それがプラスになった」
スポーツ報知で1967年からカープ担当になり、約半世紀に渡って取材し続けた名物記者・駒沢悟さんは、衣笠さんの思い出を2つ上げてくれた。
「79年の連続フルイニング出場が途切れた試合です。
古葉さんが岡山の球場で監督室に『サチ、ちょっと来い』と彼を呼んだ。
その時、彼はスランプだったんですが、諭したというか、『今日はスタメンから外すから。だけど試合にはもちろん出す』と伝えました。
そして衣笠くんが涙を流して部屋を出てきました。
私はその時初めて、彼が泣く姿を見て、声をかけれなかった。よっぽど悔しかったのでしょう。それまで骨折してまで出てきたのに途切れたから」
もう一つの思い出は、衣笠さん、江夏豊さん(69)、高橋慶彦さん(61)の仲良し三人組たちの姿。
「江夏が78年に(カープに)来たんですが、その時の日南キャンプでのこと。
江夏と高橋と衣笠の3人がいつも宿舎の近くのスナックに行き、江夏はお酒が飲めないのでコーヒーとケーキを頼み、衣笠は洋酒だったり焼酎を飲み、そして高橋と、この3人が、朝方までとはいわないも深夜まで、ひたすら野球談議をしていました。
僕は2回くらい付き合ったことがあるんですが、彼らはとにかく野球が好きで、かなり深く掘り下げてて話していて印象に残っています。
『江夏の21球』で知られる79年の日本シリーズで、ピンチの場面で、江夏のいるマウンドに衣笠が行って諭したというのも、彼らの関係からでしょう」
それくらいの野球好きだった衣笠さん。結局、引退後、監督としてカープに戻ることはなかった。前出の古葉さんはそれが残念だという。
「彼は、やっぱりプロだから成績をどんどん残していかないといけない。
見にきているファンが喜ぶような試合をしないといけないという気持ちをすごくもっていた。
やっぱりあれだけのことをやってきた彼だから、僕の気持ちの中では監督をしなかったのが残念でならない。なんとか1回やってくれたらなと思っていました」
その思いは届かず、“鉄人”衣笠さんはいってしまった。
しかし、衣笠さんが見せ続けたプレーの数々や鉄人の魂は、世代を超えて、広島カープの現役選手たち、ファンに受け継がれているはずだ。(本誌・大塚淳史)
※週刊朝日 オンライン限定記事
■ファンの声は?
3番・衣笠、4番・山本浩二、5番・ライトル、6番・水谷、だったかな。みんな普通にホームラン30本は打つ。凄すぎる打線だね。
昭和50年の初優勝のMVPが山本氏で 昭和59年のMVPが衣笠氏 昭和
50年代のカープの黄金期は2人の活躍があったからだと思う
衣笠、山本さんが活躍してた頃のカープは、個性の強い野武士の集団みたいなイメージがあったな。衣笠さんのユニフォーム姿をもう一度見たかったです。
「監督をしなかったことが残念」=松田元が悪い。
オーナーの亡くなられた衣笠さんに対するコメントを一切目にしていないが、生前色々あったにせよ球団トップとしていかがなものか。
衣笠、江夏、慶彦。
カープで素晴らしい成績を残しながら、カープの監督やコーチになることはなかった。
オーナー子飼いの選手を監督やコーチにしてきたことが、カープの暗黒時代が続いた原因でもある。
衣笠が監督になっていれば、また違ったカープの歴史があったのではないか。
衣笠は逝ってしまったが、江夏には投手コーチとして大野のような左腕を育成してもらいたいし、慶彦にも監督またはコーチとして広島に帰って来てもらいたい。
あれだけの功労者と実績のある衣笠氏を、監督どころかコーチにも招聘しなかったカープ、何故なんですか?山本浩二との扱いに差がありすぎる。
衣笠監督は見たかったけど、選手のイメージのまま終わるのも美学ではある。
監督をしなかったではなくさせなかった
衣笠監督江夏投手コーチ慶彦打撃コーチのカープを一度見たかった
名選手が必ずしも名監督にならないのは、よく言われることだけど、諸事情があるにせよ、やはりやってほしかった。
ご本人も指導者の器じゃないと固辞された部分もあったように聞いたが。
江夏豊さんや高橋慶彦さんの様に一匹狼的なところがないのにコーチ、監督業についてないのは不思議といえば不思議。
まあ星野仙一さんの様なやり手的なところがなく、政治的な動きが出来ない人の良さに原因かとも思える。
衣笠監督、江夏投手コーチ、慶彦バッテイングコーチとか見てみたかった。
ワクワク楽しい野球になっただろうに…。
衣笠さんが監督になれなかった理由がわかる気がする。
衣笠さんは穏やかで性格の良い方だが、カープに嫌われてた江夏豊、高橋慶彦との交流が仇になったのではないか。
球団は監督にすればコーチ等での入団を迫られるとの警戒感が。又、衣笠さんとは関係ないが古葉さんは横浜の監督に就任するときコーチやスカウトを引き抜き、後に広島市長に立候補した。
ここに高橋慶彦等カープに嫌われてる人が応援演説した。もし、古葉さんが当選したら市民球場の持主の代表が球団の上に立つことになった。
わたしは古葉さんはずいぶんと野心のある方と思ってる。実際、いまでも家はあるが帰れないでいる。
衣笠氏はカープから監督就任の打診はあったようだが、固辞したようですが、国民栄養賞の受賞が邪魔したと思う。
松田オーナーとの不仲説はマスコミのスキャンダルで、衣笠氏はカープ退団後は当時のオーナーが広島大学で聴講生として勉強させていました。
TBS系列の解説者もカープ球団の配慮で行っていた。
………
確かに、引退後一度は背番号「3」のユニフォーム姿をみたかったですね!
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BY カープBOY
文章&画像引用元:
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180427-00000111-sasahi-spo