今日はお父ちゃん66歳の誕生日





小さい頃はお父さんは私に対して甘々で(長女、初めての子供ですカナヘイ花


私もパパ大好きっこで



ガニ股で風を切って歩く癖は、大好きなパパを真似しながら追いかけてたらそうなってしまい今はもう治せないショックなうさぎ



小学校高学年までお風呂一緒に入ってた記憶あるな〜



ただ中学入ってしばらくしてから反抗期がやってきて私の場合は10年近くひねくれてた。

性格がとげとげしてたな〜もやもや

話す機会がめっきりなくなってしまって。





私は両親をパパ、ママと呼んでたけど年頃になり母をお母さんと呼ぶようになり、けど父だけはなぜか変えられずパパ




パパは私をみーたんと呼ぶことが多くてやる気なしピスケ




パパ







休みの日には昼からのんびりウイスキーを飲み

私と違ってお散歩を好まなくて

頑固で口数が多くなくて曲がったことが大嫌いで一匹狼的な所もあるけど

たまにびっくり可愛いジョークをすっとばし

私や弟よりも愛犬キャロルちゃんを可愛がり

キャロル経由でみーたんは〜と間接的に言いたいことを聞こえよがしに言う

仕事終わったら直帰で家に帰り
母の作るご飯を食べて

私があまり食べない白身魚が好きで

酢が大嫌いだけど、餃子のタレには必ず入れないとダメで

好き嫌いもたくさん

外食なんて1年に1回あるかないかとかそんなレベル

そんな彼の娘は飲食業が大好きでたまらない



 



そんな父は一昨年急死した





その頃私はワーホリでオーストラリアにいて、帰国間際で。



ちょっと具合悪いな〜って自分で救急車を呼び診察を受けて大事を取って数日入院のつもりが、あれよあれよと悪化し死んでしまった




母から連絡貰ったときは、ご家族の方万が一の覚悟をしてください、と。



元々両親は私の渡豪にいい顔をしておらず父とは全く連絡をしていなかった。

だからパパの不調にまったく気づけなくて




母からの連絡にパニックになり泣きじゃくってる私

そんな中彼は冷静を保つよう努め、私の尻を叩き日本に帰ろう!と。

当時私たちはオーストラリア国内をロードトリップしていて終盤に差し掛かりかけていて。

最寄りの空港まで500キロ強あったけど、彼が一人で車をすっとばして運転して、私のチケットの手配もしてくれた。



一人で呆然としながら飛行機に乗り、早朝に日本に着いて実家に帰り荷物を置き、いつも電車で看病に行っていたという母を車に乗せて病院へ。



奇しくもここは私が産まれた病院で、若かりし父がかつて少し働いていた所。



たくさんの管に繋がれて横たわる父。
辛うじて生きているというよりは生かされている状態。



意識朦朧



それでも私が話しかけたら一回だけぴくっと動いて

目をちょっと動かして
聞いてるからな〜と訴えかけているようだった




毎日父に会いに行くたびに
体がどんどん浮腫んで行って違う人みたいだった


痛み止めのモルヒネも法律ギリギリの量を投与されていたからそれの副作用

お医者さんから喉の切開をすればいくらか父の負担は減ると。

でも切開したところで治る訳ではないし、意味のない延命治療だった

何より父は生前から延命治療に反対派な人で、且つ体力、免疫力のない父にそんなことをしてほしくなかった。

父の最期の希望を尊重したかった。

私たち家族はその手術を断った




私が帰国して5日目

入院して5週間強










父は他界した






毎日パパのことを考えない日がないけれども
特に月命日、お誕生日はいつもより深く、静かにパパの事を考え記憶を辿る。



変な言い方かもしれないけれど、父が亡くなってから家族の結束力が強くなり、仲の良くなかった弟とよく連絡するようになり、弟も母にすごく優しくなった。




ぱぱへ

たくさんの愛を与え続けてくれてありがとう。言葉に出す人じゃ決してなかったけど、今考えると何不自由なく幸せでいれたのはパパがいつも頑張ってくれて不器用な優しさで包んでくれたからなんだなって思うよ。
パパの娘として恥じないように授かった命を大切に生きなきゃと。






あえて自分への戒めと父への改めての尊敬を込めて書きました。