ここは、小角の大満寺の中にあります。(地図 ) この説明文には、「古内主膳重広は国分盛重の末子であり、仙台藩初代藩主伊達政宗は伯父にあたる。」と書いてありますが、実際は、国分盛重が伊達政宗の叔父なので、その子の古内主膳は政宗の従兄弟にあたるはずです。私も、この史跡めぐりを通じて、仙台藩の歴史に少しは詳しくなりました。(^-^) まあ、年齢的には、政宗の方が20以上も年上なので、伯父といっても不思議はないくらいですけどね。


慶長元年(1596年)、重広が7歳の頃、国分盛重は伊達政宗によって滅ぼされ、一家は離散しましたが、重広は家臣に匿われて逃げ延び、その後根白石の古内実綱の養子になりました。そして、慶長13年(1608年)、重広が20歳の頃に、狩りに訪れた政宗に馬術の腕を見初められて、後の二代藩主忠宗の馬術指南のため、召し抱えられたということです。政宗は、実父の敵みたいなものなのに、嫌じゃなかったんでしょうかねえ?それとも、そういうことは知らされなかったのか?


その後は、伊達家の家臣として忠誠を尽くし筆頭家老にまで上りつめ、忠宗から岩沼城を賜って岩沼古内氏の祖となり、万治元年(1658年)忠宗が病死すると、他の3名の家臣と共に、重広も腹を切って殉死したそうです。



真ん中の仏像は、忠宗の供養のために建立されたもので、古内主膳の墓碑は、その向かって左隣にあるものです。他の墓碑と比べても随分質素な感じですね。