はじめに

 

 

 2024年6月28日、全国の劇場で映画『ルックバック』が公開される。

 先日、この一報を聞いた時、胸が高鳴った。というのも、私は本作の原作となった、藤本タツキ氏(以降敬称略)作の漫画『ルックバック』を以前より愛読していたからだ。

 この漫画は、「漫画家」としての藤本の持つ漫画に対する矜恃や苦悩、喜び等といった本音が詰め込まれた怪作だ。私がこの漫画を読み返す度に、「漫画家」藤本の魂と直接ぶつかっているような、そんな衝撃を感じる。

 したがって、当然ながら私は、映画『ルックバック』には強い期待を寄せている。

 半分は自分のため。そしてもう半分は『ルックバック』を1人でも多くの人に知ってもらうために、今回は映画『ルックバック』に関する現時点での情報をまとめ、かつ、この映画に対する私の卑見を述べさせてもらう。

 

 

 

 

 イントロダクション

 

 

 本作の原作『ルックバック』は、『チェンソーマン』『ファイアパンチ』などで知られる漫画家・藤本が2021年に、「ジャンプ+」にて掲載された漫画である。SNSなどで反響があり、配信から2日ほどで400万PVを突破した。作者本人は『ルックバック』を「自分の中にある消化できなかったものを、無理やり消化する為にできた作品です。」と語っている。

 

 私は「天才」という言葉を高く買っていて、滅多に人に対しては使わないようにしている。極めて非凡な人物に対してのみ、この言葉を使っている。

 

 そんな私にとって、藤本は「天才」の称号に足る人物である、と考える。藤本タツキという人間について、今ここで語りたいところだが、語りたいことがあまりに多すぎるので、それは後日。1つの記事にまとめることにする。

 

 ここで、私なりに『ルックバック』をまとめた、あらすじを記しておく。

 

 

 

 あらすじ

 

 小学4年生の藤野は、学生新聞で4コマ漫画を掲載していた。クラスメイトからは「将来絶対有名になる」などとチヤホヤされ、得意気になっていた藤野であった。

 

 ある日、不登校で顔も名前も知らない同級生の京本の4コマ漫画が、学年新聞に掲載された。その画力の高さに驚愕する藤野。

 

 周りのクラスメイトもすっかり「藤野より京本の方がすごいじゃん」というムードになり、得意気ではいられなくなった藤野は、絵の技法書を買い集め、真剣に絵を勉強するようになった。

 

 絵をひたすら描き続け、4コマ漫画も休むことなく執筆していた藤野は、気が付けば小学6年生になっていた。絵を勉強するようになってから、すっかり友達と喋ったり遊んだり、学校の勉強をすることをやめてしまったこともあって、友達や家族からは絵を勉強することは快く思われていなかった。

 

 寸暇を惜しんで、絵を描き続けたというのに、漫画を描き続けていたというのに、周りからはそのことを評価されない。おまけに、京本との実力差は一向に狭まることがない。そして遂に、藤野は絵も漫画も、描くことをやめてしまった。

 

 小学校卒業の日、藤野は京本の家に卒業証書を届けに行くよう頼まれ、これをイヤイヤ引き受けることとなった。藤野はここではじめて、因縁の相手である京本と対面するのであった......。

 

 漫画へのひたむきな思いを持つ、2人の少女の物語が始まる。

 

 

 

 このあらすじを読んで、『ルックバック』に興味を持った未読者は、この機会に「ジャンプ+」で閲覧してみてはいかがか?あるいは、書籍を購入するのも損はないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作の入場者特典について

 

 

 

 本作『ルックバック』入場者特典は藤本の原作ネームが全ページ収録された 「“Original Storyboard”」となっている。 原作コミックと同じボリュームで原作ネームの全てを見ることができる貴重な1冊となっている。数量限定かつ先着順のため、本作を鑑賞予定の人はなるべく公開されてすぐに劇場に足を運ぶことを勧める。

 

 

 

 

 映画のスタッフ・制作の舞台裏に関する情報

 

 

 

 本作の監督・脚本・キャラクタ―デザインは、「スタジオドリアン」代表取締役の押山清高氏(以降呼称略)が務める。彼は「スタジオジブリ」作品や『THE FIRST SLAM DUNK』原画を担当したり、『チェンソーマン』の悪魔のデザインを手掛けたり、また『電脳コイル』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』『ドラえもん のび太の新恐竜』等多数のアニメの制作に関わってきた、一流のアニメーター出身の監督である。

 

 漫画編集者で評論家の島田一志氏(以降敬称略)のコメントの一部をここで抜粋して紹介する。

 

 

 

「アニメーションの監督は自分で絵が描けなくてもできるわけですが、『ルックバック』は作品のテーマ上、絵を描く人の感覚がわかっている監督が好ましいと思っていました。実際、予告映像を見るだけでも作中の漫画や絵を描く人の心の機微を丁寧に描いており、見入ってしまいましたね。」

 

 

 

 以上の押山の経歴や、島田からの評価を見る限りでは、彼が本作の監督に就任したのは最適解と言える。しかしながら私自身、恥ずかしながら彼の為人や実力についてやら、「スタジオドリアン」の実績については知らないことが多い。そこで、彼とこのアニメ制作会社については本作の公開日までに勉強して、記事にまとめて公開しようと思う。

 

 これは余談だが、どうやら押山はほぼ1人で本作の作画をしているらしい(?)。彼は以前にも某作品にて、1人で原画を描き切るというワーカホリック伝説を持っているようだ。恐ろしい。

 

 アニメーション制作は、本来少数で楽々とやれるものではない。大多数でチームを組んで、人海戦術で臨むのが現実的かつ効率的である。アニメーション制作を「ビジネス」、アニメを「消費コンテンツ」「商品」として見るのならば、この制作スタイルは正解と言える。

 

 しかし、少数によるアニメーション制作......厳密には作画監督や原画班を1人~数人体制で制作するメリットも確かに存在する。それは「絵柄が統一される」「監督の表現力が統一される」の2点である。このメリットがどれだけ効果的にアニメーション制作で発揮されるかは、監督・作画監督・原画班の実力に依る所が大きいわけだが、それはつまり、監督・作画監督・原画班に実力者が揃えばとんでもない作品が生まれる可能性がグンと上がるということを意味する。(※後者の制作スタイルがあたかも正義かのように語ったが、アニメ業界の労働環境やその他諸々の事情を鑑みると、前者の制作スタイルの方が現代のホワイト社会には適しているような気がして......一概にどちらが正しいとは言えないのが苦しい所だ。)

 

それからもう1つ、余談がある。本作の主人公の1人、京本の声を担当する女優の吉田美月喜氏は、京本の言葉に抑え気味ながら東北弁のニュアンスを入れてアフレコしているという(本作の舞台が山形県であることに基づく)。この表現は漫画にはない「音」を巧みに使ったアニメならではの表現だ。「音」のない原作と、「音」のある本作。この違いに注目して本作を鑑賞してみるのも面白いかもしれない。

 

 公式サイトや公式Xには、その他のスタッフやキャストに関する情報も記載されている。興味のある人は覗いてみると良いだろう。(※公式Xには本作関連のニュースや、場面写真等の記載もあるので要チェックだ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ルックバック』に込められた藤本タツキの真意

 

 

 

 

 どうやら映画『ルックバック』の公開が近づくにあたって、とある懸念の声があがっているらしい。

 

 原作『ルックバック』が2021年に発表された際に、作中のワンシーンが、かの「京都アニメーション放火殺人事件」を意識して描かれているとして、一部から批判されていたことが過去にあった。そう、その「とある懸念」とは、「“あの“シーンを映像化して大丈夫なのか?」という懸念である。

 

 この問題について取り扱っていたメディアを以前にいくつか見かけたが、どれもこれも洞察が浅く、挙句の果てには保身に走って、藤本擁護側と批判側の両者の面子を保つような締めで括るようなものばかりだったので、ここで私の卑見を正直に言わせてもらう。

 

 まず、この「京都アニメーション放火殺人事件」が意識して描かれた“あの“シーンに対して、批判をしていた連中に単刀直入に一言言わせてもらう。「黙れ。知った口を利くな」と。私は別に藤本と『ルックバック』を盲信しているわけじゃない。ちゃんと理由がある。


 『ルックバック』という漫画には作者の様々な思いが込められている。前述したようにこの漫画について藤本本人は、「自分の中にある消化できなかったものを、無理やり消化する為にできた作品です。」と語っている。ではこの、「自分の中にある消化できなかったもの」とは何か?これに対して、100%言い当てるのは不可能だが、私が思うには、この「自分の中にある消化できなかったもの」は複数存在する。この複数存在する「自分の中にある消化できなかったもの」のうちの1つが、私が「京都アニメーション放火殺人事件」が意識して描かれた“あの“シーンに対して、批判をしていた連中に、「黙れ。知った口を利くな」と口を辛くして言える理由の根拠である。

 

 

 この「自分の中にある消化できなかったもの」の正体の1つは、藤本の「京都アニメーション放火殺人事件」に対するやり場のない怒りと、絶望の感情である。藤本は「漫画家」としての藤本タツキとは別に、「オタク」としての藤本タツキという側面を持つ。この「オタク」藤本タツキの、漫画・アニメ・映画に対する強い情熱は、『チェンソーマン』をはじめとする彼の著作に表れている。

 

 さて、何度も言うが、藤本にとって『ルックバック』とは、「自分の中にある消化できなかったものを、無理やり消化する為にできた作品」である。そしてこの「自分の中にある消化できなかったもの」とは、藤本の「京都アニメーション放火殺人事件」に対するやり場のない怒りと、絶望の感情である。つまり、藤本にとって『ルックバック』は、自分に深い衝撃を与え、苦しめた「京都アニメーション放火殺人事件」に自分なりに決着をつけるために描いた漫画と考察できる。

 

 この考察にも裏付けがある。これは有名な話でもあるし、ネタバレ防止のため、詳細は省略するが、『ルックバック』の作中には数えきれないほどの名作のオマージュがなされている(詳細は各自で調べてほしい。オマージュされた作品、具体的な作中におけるオマージュの箇所について詳細な情報がネット上には存在している故)。今回ピックアップする、上記の考察の裏付けとなるオマージュがなされた作品は2つある。それはクエンティン・タランティーノ監督作『Once Upon a Time in...Hollywood』と、Oasisの楽曲『Don‘t Look Back in Anger』である。この両作品の共通点として、「凶悪事件と深く関わっている」ということが挙げられる。

 

 

 

 

 

 

 まず、『Once Upon a Time in...Hollywood』は「シャロン・テート殺人事件」の、犠牲者に対する追悼がテーマの1つとして孕んでいる。

 

 次に、『Don‘t Look Back in Anger』。この楽曲が発表された1995年から22年後、2017年5月22日夜、マンチェスター・アリーナで行われたアリアナ・グランデ氏のコンサートで起き、大勢の死傷者を出した自爆テロ事件の追悼集会が翌日行われた際、自然に『Don‘t Look Back in Anger』の合唱が起こった。この楽曲が同事件と直接的な関わりがあるというわけではないが、「Don‘t Look Back in Anger(怒りを以て過去を振り返ってはならない)」というフレーズをタイトルに持つ本作は、事件の犠牲者と、残された者たち両方を救った鎮魂歌となった。

 

 

 

英テロ事件追悼集会の様子

 

 

 

 このように、両作品は「凶悪事件の犠牲者と残された者たち両方を救い、凶悪事件に決着をつけた」という共通点を持つ。そして、この両作品をオマージュしている作品こそが、『ルックバック』である。では、これらを踏まえて導き出される答えとは、‘藤本は自分の言葉と思いを漫画という表現の形に変換して、「京都アニメーション放火殺人事件」の犠牲者を弔い、残された自分たちがこの事件と向き合い、今後も生きていくための方策を提示するために『ルックバック』を描き、同事件に決着をつけた‘である。『ルックバック』のラストシーンには、この「残された自分たちがこの事件と向き合い、今後も生きていくための方策」が集約されている。

 

 藤本は、人一倍「京都アニメーション放火殺人事件」に苦しんだ。苦しんで、苦しみぬいた挙句、得た答えを『ルックバック』というかたちにして、思いを込めた。それなのに、「当時の不愉快な感情や最悪な気分を思い出させてくる」「人がたくさん死んだ事件を漫画のネタとして取り扱っている」といった感情的なヘイトや、見当違いの批判は絶えない。これはあまりに、”野暮”ではないか?だから私は彼らに声を大にして言いたい。「黙れ。知った口を利くな」と。

 

 

 

 

 執筆者の卑見①

 

 

 

 当記事において散々卑見を述べさせていただいたが、もう2つ、述べたいことがある。ここからは執筆者のダベリだと思って適当に話を聞いてもらいたい。

 

 まず1つ目に、「『ルックバック』未読者は未読のまま劇場に行くべきか否か」問題である。これに対して私からは「『ルックバック』を読んで、さらに吟味し尽して、その上で劇場に行くべき。」と答えておこう。

 

 それは『ルックバック』という漫画は、”敢えて”、初見ではこの作品の全容が読解できない構造になっているからだ。何度も繰り返し見返し続けることで、だんだんとこの作品の「真の面白さ」「藤本がこの作品に込めた真意」に気づき、真に『ルックバック』を楽しめるようになる。

 

このような構造で構成されている作品は他にも、宮崎駿氏作品や士郎正宗氏著『攻殻機動隊』、つくしあきひと著『メイドインアビス』等が挙げられるが、これらの作品群の基本スタイルとして、「全ては語らない」というものがある。つまり、これら作品群はストーリー展開の際も、丁寧に毎度毎度状況説明をしてくれることはない。また作中に登場するキャラクターは思っていることを全部口には出さない。楽しくても「楽しい」とは言わないし、悲しくても「悲しい」とは言わないし、むしろ「大丈夫」ということすらある。

 

 しかしこれらの作品群の作者たちは別にストーリーの説明やキャラクターの心情を表現することを怠っているわけではない。彼らはストーリーの説明やキャラクターの心情を「言葉」で表現しないだけだ。彼らはこれらを「絵」で説明する。

 

 例えば、近世ドイツを舞台とした物語を展開するとしよう。この時、「これは近世ドイツを舞台としたお話です」のようなナレーションを挿入してはならない。「急勾配の屋根とドイツ式ハーフティンバーが特徴的な建造物群」の絵をドカンと鑑賞者に見せて、説明するのが「全ては語らない」作家の表現スタイルだ。

 

 キャラクターの心情の表現の仕方にも同じことが言える。悲しいと心で思っているキャラクターが「悲しい」と口に出してはいけない。そのキャラクターの細かな所作や態度を描写して、「今このキャラクターは悲しんでいるんだ」と鑑賞者に伝えるべきだ。「口に出されない悲しみ」には一層深い悲壮感が宿る。上品な心情描写といえる。

 

 何より「全てを語らない」とは、「解釈の余地を残し、解釈を鑑賞者各々に委ねる」ということを意味する。「全てを語らない」作品を鑑賞する際には、正しい読解と自己解釈の2つの行為が必須となる。ただのエンターテインメントだと思って、流し見感覚で鑑賞するもんなら、「全てを語らない」作品は「なんかよくわからないつまらない駄作」のような感想しか抱けなくなってしまう。「『ルックバック』」と、Google検索に打ち込むと、「つまらない」や「わからない」という検索候補が上位に挙がるのは、ひとえにこのような見当違いの感想をネット上に垂れ流す輩が、鑑賞方法を間違えているか、単にリテラシーが低いかのいずれかである。

 

 前置きが長くなった。まとめると、『ルックバック』は全てを親切にセリフやナレーションでは語ってくれない。それ故に、正しい読解と自己解釈の2つの行為を以て鑑賞に臨めば、『ルックバック』を”本当に”楽しむことができる。したがって、劇場に行く前に必ず原作を熟読して、吟味することを推奨する。

 

 原作の読解と自己解釈がある程度完結したうえで、劇場に足を運び、映画『ルックバック』を鑑賞しよう。本作は言わば、押山が『ルックバック』を読解し、自己解釈を加え再構成した「押山版『ルックバック』」である。この「押山版『ルックバック』」を鑑賞することで、新しい視点や解釈を得られるだろう。そして、原作を再び読み返そう。映画を見返すのも良い。『ルックバック』の読解と自己解釈に更なる磨きがかかることになる。

 

 

 

 

 執筆者の卑見②愚痴

 

 

 

 1つ目の卑見が長くなったので2つ目は簡潔に済ませよう。正直、ほぼ愚痴に近い内容だ。ご了承願いたい。漫画『ルックバック』が世間から評価されている理由として、「独特の"行間”の表現」「映画みたいな漫画」というのがあるらしい。この「独特の"行間”の表現」を本当に理解して絶賛しているのか?「有象無象の”オタクまがい”が口を揃えて、世間的な評価に迎合して絶賛している感」が否めないが......それはともかく、映画『ルックバック』の公開が近づいている現在、「原作の”行間”が映画で描かれるのではないか?」のような期待の声が挙がっているらしい。

 

 藤本はストーリーを頭の中で映像化して、それを漫画というフォーマットに落とし込んで表現するタイプの漫画家だ。つまり藤本作品は「紙面上に展開された映画」だ。それ故、「独特の"行間”の表現」をはじめとする、藤本独自の漫画表現はどれもきわめて映像的・映画的と言える。

 

 上記を前提として、「原作の”行間”が映画で描かれるのではないか?」という声に対して一言言わせてもらおう。「当たり前だろ......そもそも”行間”自体映像に適した表現なんだから」と。

 

 世間での『ルックバック』の盛り上がりと、自分の盛り上がりがどうも食い違うのであった。愚痴に付き合ってもらって申し訳ない。

 

 

 

 

 おわりに

 

 

 

 『ルックバック』に関する情報を簡潔にまとめるはずが、書きたいことが次から次へと溢れ出てきたが故に収拾がつかなくなって、結果締まりのない長々しい記事になってしまった。こんな記事を最後まで読んでくれた人がいるならば、「ありがとう」と「時間を取ってしまってごめんなさい」の2つの言葉を贈るとしよう。

 

 映画『ルックバック』の公開が余計に待ち遠しくなってしまった。私はそれまで押山監督と「スタジオドリアン」関連作品を追ってみようと思う。ではまた。