江戸時代に約1.7kmほどしかなかった境川の両側に民家が建てられ集落が形成され、海への玄関口として大切な役割を担っていた境川も今では、旧江戸川との間に水門ができて当時の面影はほとんど残さなくなっています。
昭和40年(1965年)から始まった海面干拓事業によって、川の長さは4.8kmになりましたが、かつてのような透き通った水ではなく、まるで池の水のような濁った水となってしまいました。
水門で隔てたために水の流れが止まっては仕方ないところです。
かつてはこの両側に2000艘近くの漁船がありましたが、昭和46年(1971年)に漁業権が放棄されるとその船はもう存在意義を失っていきました。
そんな境川には六人河岸と呼ばれていた地域がありました。
それは六人網の船着場だったのでそのように呼ばれていましたが、漁を終えて河口まで来ると六人網の乗り子達は、浴衣に着替え片肌脱ぎ、掛け声も勇ましく手船、あん船を繰り威勢よく川をのぼり、獲ってきた魚を捌いて翌日の漁に備えたとされています。
六人網漁は江戸時代に始まって明治期に最も栄えたようで、暖流に乗って湾内を回遊していたイワシやコハダの漁は豊漁が続いていましたが、大正時代中期ぐらいから極端に魚の数が減って、昭和に入ると完全に絶えてしまったようです。
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昭和40年(1965年)から始まった海面干拓事業によって、川の長さは4.8kmになりましたが、かつてのような透き通った水ではなく、まるで池の水のような濁った水となってしまいました。
水門で隔てたために水の流れが止まっては仕方ないところです。
かつてはこの両側に2000艘近くの漁船がありましたが、昭和46年(1971年)に漁業権が放棄されるとその船はもう存在意義を失っていきました。
そんな境川には六人河岸と呼ばれていた地域がありました。
それは六人網の船着場だったのでそのように呼ばれていましたが、漁を終えて河口まで来ると六人網の乗り子達は、浴衣に着替え片肌脱ぎ、掛け声も勇ましく手船、あん船を繰り威勢よく川をのぼり、獲ってきた魚を捌いて翌日の漁に備えたとされています。
六人網漁は江戸時代に始まって明治期に最も栄えたようで、暖流に乗って湾内を回遊していたイワシやコハダの漁は豊漁が続いていましたが、大正時代中期ぐらいから極端に魚の数が減って、昭和に入ると完全に絶えてしまったようです。
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